第7話 再生
川面を渡る風が、頬を切った。
世界の音が遠ざかり、代わりに胸の奥で三つの鼓動が重なる。
それは、彩音と亮、そして――“原型”の鼓動。
ひとつの肉体の中で、三つの意識が絡み合い、軋んでいる。
(もう、終わったの?)
彩音の声が響く。
(記録は水に沈んだ。誰も知らないまま)
(……違う)亮が答える。
(あれはただ、ネットワークに還っただけだ。川の水は海へ、海は大気へ。
電子の波が、世界のどこかへ届いていく)
その言葉と同時に、視界の端に光が走った。
街のビルの窓、電車の案内板、通行人のスマホ――
すべてのスクリーンが、一瞬だけ“白い文字列”を映した。
〈RECORD=AWAKE〉
(……これが、母さんの言ってた“還流”)
(記録は川に還り、やがて“世界の水”になる……)
水のように拡散する情報。
それはもはや、誰にも止められない。
気がつくと、足元の川が光りはじめていた。
淡い蒼の粒子が水面を漂い、流れの形を描く。
まるで、この世のすべての記憶が溶け出しているみたいだった。
(見える?)
“原型”の声がした。
(これが、あなたたちが流したすべての痛み、愛、記録)
「これは……私の心?」
(あなたたち“人間”の心。記録は消えない。形を変えて、繰り返す)
川の流れが次第に渦を巻く。
光が私の足元から登り、体を包んだ。
呼吸ができない――けれど苦しくない。
(彩音)亮の声が、やわらかく響く。
(俺は、もう行くよ)
「どこへ……?」
(お前の中にいる。俺の罪は、お前の記憶として残る。
でも、お前はもう“被害者”じゃない)
「……ありがとう」
(生きろ。お前の心で)
亮の声が静かに溶けていく。
同時に、胸の奥の重さが少しだけ軽くなった。
目を開けると、朝だった。
川辺のベンチで、私はひとり座っていた。
頬を伝う涙は、誰のものなのか分からない。
ポケットの中に、小さな金属片。
USBの破片だ。
表面に、薄く刻まれた文字。
〈Recurrent=生き続ける〉
私はそれを見つめ、微笑んだ。
数日後。
ニュース番組のテロップが、街のスクリーンに流れた。
《世界各地で“魂の転写データ”を名乗るコードが発見される》
《人間の記憶を保存する新型AIが自発的に自己増殖――専門家混乱》
人々が騒然とする中、私は静かに歩いていた。
イヤホンの奥で、あの声が微かに囁く。
(彩音、聞こえる? これは終わりじゃない。
あなたの中の“記録”が、世界を変える)
私は答えなかった。
ただ、歩きながら青空を見上げた。
どこまでも高く、透明な空。
その向こうで、きっと誰かが笑っている気がした。
ベンチに座り、ノートを開く。
ペンを握る手が自然に動く。
――“日記”。
そこには、私の名前で始まる新しいページ。
> 2025年10月21日。
> 私は、生きている。
> これは、私が選んだ“再生”の記録。
風がノートのページをめくる。
川のせせらぎが遠くで響く。
私はペンを止め、静かに微笑んだ。
「――さようなら、過去の私。
ようこそ、未来の私。」
空に一羽の鳥が飛び立った。
その翼の軌跡が、朝陽の中で白く光った。
ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。
この物語『魂が入れ替わったのは、私を殺したあの人だった。』は、
最初の一行――“ガラスが割れる音と、鈍い痛み”――から、ずっと“生きること”と“赦すこと”の境界を描きたいと思って書きました。
人は、誰かを傷つけたまま生き続けることがある。
そして逆に、傷つけられたまま立ち止まってしまうこともある。
けれど、もしその二つの心がひとつの身体に閉じ込められたら――
「復讐」も「赦し」も、きっと同じ痛みの中にあるのだと思います。
主人公・彩音と亮の関係は、被害者と加害者という単純な構図では終わりません。
互いの視点を共有し、同じ罪を見つめ、同じ痛みを抱える。
それは、“他人の心を理解する”という不可能に近い行為の象徴でした。
AIや意識転写という装置を通して、私は“記録と感情の違い”を描きたかったのです。
――人間の心は、データにはできない。
でも、誰かの痛みを理解しようとする“意志”だけは、いつの時代でも本物だと信じています。
最後まで読んでくださったあなたに、心から感謝します。
もしこの物語が、あなたの中に何か小さな問いを残せたなら、
それこそが、この作品の“再生”です。
また次の物語でお会いしましょう。




