第3話 二つの意識
朝の光は、異常なほどまぶしかった。
カーテンの隙間から差し込む白が、まるで部屋の中の“汚れ”を暴こうとしているみたいだった。
枕元に封筒。机の上には昨夜の契約書。
そして――鏡の中には、私を殺した男の顔。
鏡の前に立ち、深く息を吐いた。
「……おはよう、真柴亮」
声に出した瞬間、胸の奥が少しだけざらつく。
彼の喉は、私の言葉を受け入れているようで、拒んでいるようでもあった。
顔を洗おうと蛇口をひねる。
冷水が肌を刺したその瞬間、
――ふいに視界が、黒く塗り潰された。
(……やめろ……)
耳の奥で、低い声がした。
男の声。
(……俺の体に……触るな……)
反射的に後ずさる。
洗面台の鏡の中で、私の表情が、私の意志とは違う角度で歪んだ。
笑っていないのに、笑っている。
唇の端が勝手に上がる。
「……どうして……?」
鏡の中の“私”が答える。
『どうしてって、お前が勝手に入ってきたんだろう』
喉の奥が勝手に動く。
言葉が、私のものではない。
(亮……?)
『ああ、そう呼ばれてたっけな。俺は、死んでねえ。
お前が死んだんだ。だから――出て行け』
手が震える。
鏡の中の男が、まるで別人のように笑っていた。
その笑顔に、私は覚えがある。
――あの夜、私を殴ったときの笑い方だ。
「やっぱり、あなたは生きてたのね」
『違う。お前が俺の中で、まだくたばってねえだけだ』
「……私の体は死んだ。でも、魂は残った。
あなたの罪を、見届けるために」
『罪? ……面白ぇな。お前、まだ自分が被害者だと思ってんのか』
その言葉に、心臓が刺されたように痛んだ。
(被害者……? 私は、被害者以外の何だというの)
亮の声が笑う。
『本当のこと、知らねえんだな。
お前の“母親”が誰に金を渡したか、思い出してみろよ。
事故じゃねえ。全部、取引だったんだよ』
呼吸が止まった。
母――?
私の母が、この事件に関わっていた?
「嘘よ……母がそんなこと……」
『信じたくねぇなら、俺の記憶を覗いてみろよ』
次の瞬間、視界が揺らいだ。
暗い部屋。テーブルの上に並ぶ契約書。
母の手。震える指先で、署名欄に名前を書く。
“奥脇 聖子”。
そして、封筒を差し出す相手――篠原。
(……やめて……見たくない……)
『見ろ。これが“お前の味方”の正体だ』
脳の奥で、何かが爆ぜた。
全身の力が抜け、膝をつく。
冷たい床の感触が、かろうじて現実をつなぎとめる。
(母が……私を……?)
――コンコン。
ドアを叩く音がした。
反射的に顔を上げる。
ドアの向こうから、女の声。
「亮くん、起きてる? 篠原です」
心臓が凍りついた。
彼女は、もう来た。
(まだ夜明けたばかりなのに……!)
「少しお話できる?」
「……どうしてここが」
「あなたが来ないから心配したのよ。
昨夜は、……夢でも見た?」
夢。
そう言いながら、彼女は部屋に入ってきた。
香水の匂い。冷たい笑み。
白衣ではなく、黒いスーツ。
その手には、銀色の小瓶が握られていた。
「何、それ」
「カウンセリング用の薬よ。あなたの……混乱を落ち着かせるもの」
「飲まない」
「いいえ、飲んで。あなたの母さんも了承してる」
母。
その名前を聞いた瞬間、胸の奥に“もうひとりの声”が叫んだ。
(飲むな、彩音! それを飲めば、俺たちは消える!)
手が勝手に震える。
篠原が一歩近づく。
私は一歩下がる。
彼女の目が、まるで獲物を見つめる蛇みたいに光った。
「あなたは、彼女の幻覚を見てるの。
奥脇彩音なんて、もうどこにもいない」
「違う、ここにいる!」
「だったら証明してみなさいよ、亮」
その瞬間、篠原の腕を掴んでいた。
彼の力が、私の中で爆発する。
腕を振り払うと、テーブルの上の小瓶が床に転がり、粉々に割れた。
中から立ち上る甘い匂い。
篠原は静かに息を整え、囁いた。
「やっぱり、あなたはまだ――彼女の中にいるのね」
そう言って微笑んだ。
その笑顔が恐ろしいほど冷たく、完璧だった。
「なら、もう一度“治療”を始めましょう」
そう告げると、篠原はポケットから注射器を取り出した。
私は後ずさる。
亮の声が、頭の中で怒鳴った。
(逃げろ、彩音! 奴はお前を消す気だ!)
部屋を飛び出した。
裸足で階段を駆け降り、外の光の中へ。
朝の風が痛い。
背後で、篠原のヒールの音が追ってくる。
――私は走る。
誰の体でもいい。
今、生きているのは、確かに“私”なのだから。




