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魂が入れ替わったのは、私を殺したあの人だった  作者: マルコ


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第1話 鏡の中の私

 ガラスが割れる音と、鈍い痛み。

 視界が赤く滲んだ。床の冷たさが皮膚を剥がすみたいに吸い上げ、私の名前を覚えない天井が、やけに遠い。

 壁にめり込んだ写真立ての中で、笑っている私は、もうこの部屋にはいない。


 「……お前が、悪いんだよ」


 その声は、何度も何度も聞いた。最初は震えていたのに、回数を重ねるごとに淡々としていく。まるで時計みたいに正確で、感情の温度を失っていく声。

 呼吸が薄くなる。空気が刃物みたいに肺を切っていく。

 胸の奥に溜まった言葉は、血と一緒に飲み込まれた。


 (彩音。立ちなよ。立って。ねえ――)


 立てない。体の輪郭がほどけて、指の一本一本が離れていく。

 目の端に、彼――真柴亮の顔が映った。冷える。背中から夜が入り込んでくる。


 最後に見たのは、割れた鏡の破片に映る、私の眼。

 その私が、私を見捨てて目を閉じた。


 世界が、音もなく落ちた。


 ――息ができる。


 喉の奥に残っていた鉄の味が、消えている。代わりに、鼻の奥を刺す消毒液と、古い蛍光灯の熱の匂い。

 まぶたを持ち上げると、白い天井と、等間隔の黒いライン。見慣れない、蛍光灯のむこう側に、無表情な天井スプリンクラーが目玉のように並んでいる。


 (ここは――どこ?)


 身体を起こす。ベッドの軋みが低く鳴った。

 手のひらが重い。指が太い。筋張っていて、日焼けの痕がある。

 胸に走る違和感は、最初、ただの痛みだと思った。でも違う。

 そこに、私の胸がない。


 心臓が跳ねた。ベッド脇のステンレスの器具に、ぼんやりと顔が映る。

 私は、その顔を知っている。世界で一番見たくない顔だ。


 真柴亮。


 「……嘘」


 漏れた声は低かった。喉に砂利が詰まったみたいな男の声。

 私は両手で顔を覆った。指の節の角ばりが皮膚に食い込む。

 指の隙間から、扉の向こうの気配が滑り込んだ。


 ノック。

 「失礼します。体調は?」


 紺色のスーツに白いワイシャツ。胸元のプレートには〈警視庁〉の文字。

 若い刑事が二人。片方は書類を持ち、もう片方は目だけで室内を確かめる。


 「真柴さん、昨夜はだいぶ……お疲れになったでしょう。救急からこちらに移って、点滴は外しています。お話、できますか」


 私は頷いた。頷いたのは、私ではない身体だ。

 口を開くと、言葉が、用意されていたみたいに出てきた。


 「……正当防衛です。襲ってきたのは向こうだ。あいつが、俺を」


 自分の口から「正当防衛」という言葉が滑り出た瞬間、背骨の芯が冷える。誰が話しているの? 私? それとも――彼の記憶?


 刑事の目が、じっとこちらを探る。


 「奥脇彩音さんは、今朝、病院でお亡くなりになりました」


 肺が縮む音がした。私のではない肺。

 唇の内側を噛む。血の味は、他人のもの。


 「……そう、ですか」


 口が勝手に動かないよう、歯を食いしばる。

 私は、いま、誰だ。

 鏡が欲しい。真実が欲しい。私の輪郭を確かめるものが、今すぐ欲しかった。


 刑事は淡々と質問を重ねる。

 交際期間。口論の理由。アルコールの有無。過去のトラブル。近隣の目撃情報。

 私は答える。

 彼の記憶が、用意された引き出しみたいに開閉して、答えられる範囲だけを照らす。


 (やめて。私の言葉じゃない)


 「……もう少し、詳しくは署で」


 病室を出ると、廊下には、夜明けを擦り切らせたような色の光が伸びていた。

 歩く。靴底が硬い。足の長さが違う。人が自分であるという確信が、歩幅一つで崩れる。

 エレベーターの鏡に、背の高い男が立っていた。

 私が、私を見た。

 目が合った瞬間、胃の底が反転する。


 (あの夜、あなたは、私を――)


 扉が開く音で、思考が切れた。


 取調室は、映画で見るより狭い。灰色の机と椅子。片側の壁は鏡。向こう側に、誰かの影。

 刑事は録音機を置いて、手短に説明をした。

 「任意です。帰りたくなったら帰れます。ただ、話していただけると助かります」


 帰る場所、ね。

 (帰るって、どこへ? あのアパート? 割れた鏡と床の血の匂いが染み込んだ部屋へ? ――私の、部屋じゃない)


 私は、胸の前で指を絡める癖を、無意識に出しかけた。

 違う。男の指は長くて、絡めると骨と骨がぶつかるみたいにぎこちない。

 些細な違和感が、千羽鶴の折り目みたいにひたすら重なる。いつか紙は破ける。私も破ける。


 「口論のきっかけは?」


 「向こうが、仕事の愚痴を言い始めて……俺も、疲れてて……」


 語尾が曖昧になると、刑事の視線が鋭くなる。

 焦りを押し殺して、私は彼の記憶を探った。

 暗い台所。帰宅時間。未読のメッセージ。合わないコップ。洗濯機の蓋が半開き。

 くだらない断片が先に出てくる。肝心な瞬間――彼の手が私の肩を掴んで、壁に押しつける瞬間――そこだけが霧だ。


 (どうして見えないの。私の死は、どうやって起きたの)


 刑事は別の角度から質問を投げる。

 「ここ半年で、奥脇さんに手をあげたことは?」


 私は――いいえ、と答えた。

 舌の上で「いいえ」が転がる。

 違う。あった。何度も。

 でも、彼の記憶では「押し返しただけ」「避けようとして当たった」「自分も怪我をした」になっている。

 真実が、言葉の形に切り分けられて、正当化の棚に並べられていた。


 録音機の赤い点滅が、脈拍より遅い。

 机の端の小さな傷に、目が吸い込まれる。

 逃げたい。

 けれど、逃げ場は、私の中にしかない。


 (私を、私の中で守らないと)


 「今日はここまでにしましょう」


 取調べは、不意に切れた。

 廊下に出ると、係の人が紙袋を渡してくる。

 「お持ち物です。携帯、財布、鍵。あと……こちら」


 茶封筒。角が少し潰れている。手にとると、中で名刺がこすれる音がした。

 メモ。二つ折りになった紙。

 〈母から着信〉

 文字が、私の字に似ていた。違う。彼の字だ。けど、線の迷い方が、どこかで……。


 (私、彼の字を、見たことがある?)


 通話履歴。

 〈母〉〈母〉〈母〉

 三分間の通話。帰宅前。帰宅後。通報のあと。


 (母親……)


 紙袋の底に、もう一つ、青い紙が落ちていた。

 「臨時連絡票」と書かれている。保育園の名前。子どもの体温。迎えの時間。

 ――子ども?


 喉の奥が鳴った。

 (ねえ、私、知らない。知らなかった。彼に、子どもが――)


 頭の中の床が、少し斜めになる。

 彼の生活の重量が、目に見えない鎖になって、私の手首に絡みつく。

 社会という床は、彼の足の下にある。私の足は、宙ぶらりんだ。


 取調室の窓の外は真昼だった。陽の光はあるのに、温度がない。

 私はスマホを取り出す。ロックは、指紋で解けた。

 背景に、川沿いの写真。子どもの手。小さなペットボトル。輪郭のぼやけた笑顔。

 胸の中心に、見覚えのない痛みがじわりと広がった。


 (知らない――なのに、知っている)


 いつ鳴ったのか、着信履歴の一番上に新しい番号があった。

 〈篠原〉

 押す。

 呼び出し音の二回目で、相手が出た。


 『亮? 起きてる?』


 女の声。落ち着いている。少し低め。

 『大丈夫? 今どこ? ニュース、見た』


 「……ちょっと、今は話せない」


 『わかった。夜、合図して。……一人で背負わないで。あなたは悪くない』


 あなたは悪くない。

 その言葉は、ガーゼみたいに柔らかくて、だけど、息ができなくなるほどきつく巻かれている。

 電話を切ると、私の中の私が、ゆっくりと背中を丸めた。


 (悪く、ない?)


 指が震える。机の角に爪を押しつける。

 私の血では、もう爪の下は染まらない。


 「真柴さん」


 ドアがノックもなく開いて、年配の男性刑事が顔を出した。

 「今日は帰っていい。ご実家に戻るのか?」


 「……家に、帰ります」


 あの部屋に。

 血の跡は、清掃の人がきれいにしてくれるだろう。床の匂いは、当分消えない。

 私は頷いて、立ち上がった。


 外に出ると、夏の名残の熱が、皮膚の上に薄い膜を作った。

 自販機の前で立ち止まり、水を買う。蓋を回す力が強すぎて、ボトルがへこんだ。

 歩道橋を渡る途中、風がネクタイを撫でた。

 横断歩道の白と黒が、鍵盤みたいに目に入る。

 音が、ない。

 街の音が、私には届かない高さで鳴っている。


 (帰る前に――)


 足が勝手に曲がる。

 私の足ではない足が、迷いなく、一本裏の細い道へ入っていく。

 ビルとビルの間。防火扉。換気扇。資源ゴミの金属音。

 視界の端で猫が跳ねた。目の前に、小さな路地の神社。赤い鳥居。

 私は、鳥居の下に立って、深く息を吸った。


 「……いるの?」


 誰も答えない。蝉の亡き骸が、石畳に転がっている。

 私は、鏡が欲しかった。

 境内の脇、手水舎の水面が、風でわずかに揺れている。

 そこへ身を屈める。

 覗き込む。

 水の中に、見知らぬ男の顔が揺れ、歪み、形を取り戻す。

 眉間の皺。頬の小さな傷。目の下のくすみ。

 男は、私を見ている。私が、男を見ている。


 「私を、殺したのは――あなた」


 口の形が、そう言った。

 水面が震える。

 喉が痛い。涙が出る。涙は、見知らぬ頬を伝って落ち、水面に溶ける。


 (どうして、私が、あなたなの)


 答えはない。

 けれど、胸の奥で、誰かが呼ぶ。

 ――おかえり。

 女の声。聞き覚えのある、やさしくて、やわらかい声。


 手水の横の石に、古いひびが走っていた。そのひびに、何かが挟まっている。

 指でつまむ。名刺サイズの紙切れ。

 〈奥脇彩音 ――〉

 私の名前。私の、過去。角が黒ずんで、雨に滲んでいる。

 どうして、こんなところに。

 心臓が二回、音を立てて跳ねた。


 背中に視線を感じて振り向く。

 路地の入口に、見知らぬ男が立っていた。黒いカバン。白いシャツ。顔色の悪い、細身の男。

 目だけが、えぐれているみたいに暗い。

 彼は私の顔――真柴亮の顔――を見て、口の端だけをわずかに上げた。


 「亮さん」


 知らない声が、私の名前を呼んだ。

 男は、鳥居の外から一歩も入ってこない。

 「お困りのことがあれば、いつでも。……例の件、こちらで整えておきます」


 私の手の中の名刺を、風がさらおうとした。

 男は会釈して、すぐに人混みに消えた。

 胸元で、携帯が震える。

 〈母〉

 指が、勝手に通話を押しかけて、私は慌てて親指を外した。


 (誰だ。今の男。――“例の件”って、何)


 名刺を裏返す。書き込み。数字。日時。

 「22:30 旧江川 護岸」

 ペンの筆圧が強い。急いで書いた癖。


 (今夜。川沿い。亮の字)


 脳のどこかが、熱を持つ。

 あの夜、割れた鏡の前で何が起きたのか――私の死に、彼だけではない誰かが関わっている。

 喉の奥から、声にならない笑いが,短く漏れた。

 震えを止めるように、拳を握る。指の節が鳴る。


 (いい。行こう。あなたの足で、あなたの罪を追いに)


 鳥居をくぐって、路地に戻る。

 太陽が傾き始めていた。街は、夕方の光に色を変えつつある。

 私は歩く。

 歩幅は、もう少しだけ、私のものに近づいた。


 信号を待つ人々の列に紛れながら、私は胸の奥で、ゆっくりと言葉をつくる。

 ――私の名前は、奥脇彩音。

 ――私は、死んだ。

 ――そして今、私を殺した男の身体で、生きている。


 横断歩道が青に変わる。

 私は一歩、踏み出した。

 靴底が、白い帯の上に確かに落ちる。

 世界の音が、少しだけ戻ってきた。


 夜は、これからだ。

 今夜、川沿いで、私は“彼”に会う。

 そして――


 鏡の中の私は、笑った。

 それは、私が忘れていた笑い方だった。

 復讐の笑いではない。

 生き残った者の、微かな、始まりの笑い。


 (見てて。私の手で、あなたを裁かせてあげる)


 夕焼けの色が、川の表面で破れては繋がる。

 風が、冷たくなる。

 私は、歩いた。次に呼吸を思い出すまで。次の鼓動が、私を確かめるまで。

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