タイトル未定2025/05/31 17:08
ーびやぼんを吹けば出羽どんどんと金がものいふ今の世の中ー
文政の世、江戸。
表通りの華やかさの陰で、名もなき者たちの小さな夢が生まれ、そして泡沫のごとく消えゆく。
ある日、裏長屋に影を引きずるように一人の浪人が流れ着いた。
名を柚子島小三郎。伸び放題の無精髭、陽の光を知らぬような虚ろな眼。腰に差した大小は、研ぎ澄まされた凄みを放ち、長屋の住人たちの間に不安を広げた。
かつての彼は、これほどまでに荒んだ風体ではなかった。
故郷の藩では剣の腕を見込まれ、若くして師範代補佐を務めたこともある。
その頃は日々の鍛錬に明け暮れ、武士としての誉れこそが生きる道と信じて疑わなかった。
この長屋には、いつか一旗揚げようと江戸に出てきたものの、日々の糊口をしのぐのが精一杯の者、病に倒れて故郷に帰ることも叶わぬ老婆といった人々が、寄り添うように暮らしていた。
彼らのささやかな願いもまた、この江戸の大きな闇にいつ吸い込まれるとも知れぬ、儚い徒花のようなものだった。
長屋の隅で細々と花を売る老婆おやえは、幼い我が子を江戸の不潔な環境で亡くした過去があり、時折遠い目をして虚空を見つめていた。
「また物騒なのが来なさったねえ」
「夜鷹でも買いに来たのか、それとも……」
井戸端で交わされる声は小三郎の耳にも届いたが、彼は意に介さなかった。
彼の胸中は、ただ一つの目的で燃え上がっていた。
妻、お実乃を奪い、藩を捨てさせた男、佐敷栄之進。
二人をこの手で斬り捨て、自らもその血の海に沈む。
そのための脱藩であり、江戸暮らしだった。
お実乃の柔らかな笑顔は小三郎の心の唯一の灯火であった。
貧しさの中にも、縁側で交わす他愛ない言葉、月下に触れた手の温もりがあった。
それら眩しかった記憶のすべてが、今や胸を焦がす憎悪の薪と化している。
お実乃との出会いは、藩の観桜の宴の席であったか。
控えめながらも芯の通った眼差しに惹かれ、家柄も釣り合うことから程なくして祝言を挙げた。
武家の妻として、黙って自分に従い、家を守ることが彼女の務めであり、幸せであると小三郎は信じて疑わなかった。
あの日、藩の道場で将来を嘱望されていた佐敷栄之進が、お実乃と駆け落ちしたことは、小三郎を激しく打ちのめした。
それまで何の疑いもなく自分に従い、武家の嫁として慎ましく暮らしていると信じていたお実乃が、佐敷を選んだという事実。
佐敷は小三郎よりも数歳年下であったが、剣の才だけでなく、和歌や書にも通じ、藩の若い者たちの間では風雅な男としても知られていた。
小三郎自身、その才能を認めないわけではなかったが、どこか武士の本分から外れた軟弱さを感じ、好ましくは思っていなかった。
男として、夫としての嫉妬と憤怒。
それは煮え滾る溶岩のように、彼の内を焼き尽くしていた。
お実乃は口数の少ない女だった。
時折、遠くを見るような眼差しをすることはあった。
その意味を小三郎は深く考えようとしなかった。
彼女が何を思い、何に心を動かされているのか、思い至らなかった。
かつてお実乃が、嫁入り道具の中にあった一冊の草双紙を大切そうに眺め、「物語を読むと、ここではないどこかへ行けるような気がいたします」と呟いたことがあった。
その時、小三郎は「武家の妻たるもの、浮ついた心を持つな」と厳しく嗜めた。彼女のささやかな楽しみが、その一言で打ち砕かれたとは気づきもせずに。
お実乃が縫い物をする傍らで、書物を開くことが増えていったのも、その頃からだったか。
何を縫っているか、尋ねもしなかった。
彼女が何を読み、何を感じていたのか、想像すらしようとしなかった。ただ、己の考えばかりを押し付け、彼女を型にはめようとしていただけに過ぎなかった。
お実乃は佐敷の中に、小三郎にはない何かを見出したのだろうか。
武骨一辺倒で、彼女の心の綾を汲み取れなかった過去への悔恨も、五臓が煮え繰り返るような憤りも湧き上がったが、今は憎悪の熱でそれらをかき消していた。
俺がお実乃を幸せにできると信じて疑わなかった傲慢さが、この結果を招いたのではないかという疑念すら憎しみで塗り潰していた。
そんな小三郎の殺伐とした日常に、不意に小さな光が差し込んだ。
長屋に住むさくらという名の少女だ。
年は十になるかならないか。
垢じみた着物を着てはいたが、その瞳は子犬のように人懐っこく、好奇心に満ちていた。
「お侍さん、お侍さん」
ある日、戸板一枚隔てただけの自室で刀の手入れをしていた小三郎に、さくらが声をかけてきた。
彼女の小さな手には、どこで摘んできたのか一輪の野花が握られていた。
「……何の用だ」
「あのね、字を教えてほしいの。これ、あげるから」
差し出された花は頼りなげに揺れていた。
小三郎は顔をしかめた。復讐に身を焦がす自分に、子供の戯れに付き合う余裕などない。
「余計なことを考えるな。俺に関わるな」
冷たくあしらっても、さくらは諦めなかった。
毎日、何かと理由をつけては小三郎の傍に現れ、読み書きの手習いをねだった。
時には小三郎が干している手拭いを畳もうとしたり、彼の草履を黙って揃えたりした。
その健気さと執拗さに、小三郎も根負けした。
どうせ暇な時間を過ごしているのだ。
それに、この少女の真っ直ぐな瞳を見ていると、心の奥底で凍てついていた何かが溶けるような感覚があった。
それは生きる目的を失った自分にとって、思いがけず差し伸べられた細い蜘蛛の糸のようでもあった。
それは自分が失い、お実乃には与えられなかった純粋な温もりに似ていた。
お実乃にも、こんな風に何かを教え、彼女の笑顔を引き出すことができたなら。
いや、自分は教えるどころか、彼女の心の慰めになるようなこと一つしてやらなかったのではないか。
彼女が草双紙を読み耽っていた時、その内容に興味を示し、共に語り合うことでもしていれば、彼女が何に興味を持ち、何を美しいと感じるのか、真剣に耳を傾けたことがあっただろうか。
そんな思いが、ふと胸をよぎった。
「これは『いろは』の『い』だ」
「いー……」
小三郎が古びた紙に墨で書いた文字を、さくらは真剣な眼差しで追い、拙い声で繰り返した。
彼女の集中力は子供のものとは思えぬほどで、時折、小三郎の顔をじっと見つめ、確かめるように頷いた。
その姿を花売りの老婆おやえが、長屋の隅から案じるように見つめていた。
おやえはさくらに亡くした自分の子を重ねているのか、時折干し柿などをそっと渡していた。
「なんでそんなに字を覚えたいんだ?」
ある時、小三郎が問うと、さくらは目を輝かせて答えた。
「街にはね、いっぱい字があるの。お店の看板とか、瓦版とか。
それが読めたら、もっといろんなことがわかるでしょ? 世間のことがわかるようになるのが、とっても楽しみなの。お侍さんみたいに、強くて賢くなりたい」
そんな純粋な欲求に、小三郎は自分が学問に励んだ頃の、新鮮な驚きと喜びを思い出していた。
同時にお実乃の顔が浮かんだ。
彼女もまた、もっと広い世界を知りたかったのかもしれない。
自分がそれに気づいてやれなかっただけなのかもしれないと。
あの時、「武家の妻に草双紙など」と一蹴せず、共に読んでやれば、彼女はどんな顔をしただろうか。
この幼い娘が真っ直ぐに寄せてくれる曇りのない信頼と期待が、乾いた心に染み入るようだった。
この子を守ること、それが今の自分にできる唯一の償いであり、生きる証なのではないのか。
だが、さくらの学びの道は平坦ではなかった。
ある晩、長屋に響き渡る怒声と、何かが叩きつけられる音、さくらの細い悲鳴が小三郎の耳に届いた。
その直前、さくらの母親が「お前も少しは親の言うことを聞いて、おとなしくしていれば……」と、何かを諦めたように言い聞かせる声が聞こえていた。
「女だてらに字なんぞ覚えてどうするんだ!」
「飯の炊き方でも覚えておけ!」
父親の怒鳴り声と甲高い罵声、鈍い打撃音も混じる。
江戸の裏長屋では、このような悲劇は珍しくもなかった。
希望を持とうとすること自体が、踏みにじられることの始まりであるかのように。
翌日、さくらの顔には青痣ができていた。
それでも彼女は小三郎の前に現れると、気丈にも微笑んで見せた。
それを見ても小三郎は何も言えなかった。
他人の家に口出しする筋合いではないし、そんな分際でもない。
ただ、胸の内に重苦しいものが澱のように溜まっていった。
お実乃が何かに悩んでいた時、自分はこうして黙って見過ごしていなかったか。
彼女が伏し目がちに何かを訴えようとしていた瞬間が、今更のように蘇る。
藩の催しで美しい着物を着た他の奥方衆を羨ましげに見ていたお実乃に、「質素倹約こそ武家の妻の徳」と言い放った自分。
彼女が発していた救いを求める声なき声に気づかず、力になろうとしなかったのではないか。
その時、自分は職務の疲れを理由に、まともに取り合わなかったのではなかったか。
そんな自責の念が、鈍い痛みとなって彼を苛んだ。
さくらの健気さが、一層、痛みを深くした。
手習いが進むにつれ、さくらは小三郎に心を開いていった。
時には長屋の他の子供たちとの些細な諍いを、小三郎にだけそっと打ち明けることもあった。
「お侍さんは、悪い人を斬ったら死んじゃうの?」
ある夕暮れ、墨の匂いが漂う部屋で、さくらが不意に尋ねた。
その言葉は小三郎の覚悟を見透かしているようだった。
「……ああ、そうなるだろうな」
「そっか……じゃあね、その刀、私にちょうだい。
私が、お侍さんの代わりに、悪い人をやっつけてあげる」
無邪気な口調とは裏腹に、その言葉は小三郎の心臓を冷たく掴んだ。
彼はさくらの顔を凝視した。
子供特有の残酷さと、どこか達観したような光が瞳の奥に揺らめいていた。
さくらの言葉の奥には小三郎への純粋な思慕と、彼を失いたくないという切実な願いが込められているように感じられた。
(この小さな手、華奢な腕では、俺のこの腰の刀は重すぎるだろう。とてもではないが、満足に振るうことなどできまい。
いや、この子は俺に、生きてほしいと言っているのではないか……?)
小三郎の心に、今まで考えもしなかった感情が芽生えた。
もし復讐を遂げた後、この少女を守るために生きるという道。
この薄汚れた長屋で、虐げられながらも懸命に生きようとする小さな命。
字を覚え、世界を広げたいと願うこの子を、己の剣で守る。
それは血塗られた復讐の道とは全く異なる、生きる意味を持つ道ではないか。
この江戸の闇の中で、徒花と知りつつも一輪の花を、この小さなさくらという花を、己の手で咲かせ、守り抜く手助けをする。
それは、お実乃にしてやれなかったことへの、ささやかな償いにもなるのかもしれない。
***
数ヶ月が過ぎた。
季節は巡り、小三郎の殺伐とした日常にも、さくらという小さな存在が変化をもたらしていた。
さくらは日に日に字を覚え、小三郎にも屈託なく話しかけるようになっていた。
その笑顔を見るたび、小三郎の胸の奥の氷が溶けるような感覚があった。この子のためならば、かつての自分のような過ちを繰り返すまい、と。
そんなある日のこと、小三郎が長屋の古井戸で水を汲んでいると、女たちのひそひそ話が耳に入った。
「聞いたかい、おたきさん。さくらちゃんちのことだよ」
「ああ、あそこの亭主、仕事もろくに続かねえし、酒癖も悪いからねえ。おっ母さんも内職で細々と稼いじゃいるが、追いつかねえんだろう」
「それでね、とうとうさくらちゃんを奉公に出すって話さ。それも、近いうちにって」
話の内容に、小三郎の手が止まった。
「まあ……あんなに小さいのにかい。どこへ?」
「それがねえ、どうも日本橋の大きな呉服問屋らしいんだが……そこの大旦那が、どうも小さい女の子がお好きだっていう、よろしくない噂でねえ……」
「おやおや、そりゃあ……さくらちゃんが可哀想じゃないか」
女たちは声を潜め、小三郎の存在に気づくと気まずそうに口をつぐんだ。
小三郎は何も言わずその場を離れたが、胸中は穏やかではなかった。
通りかかったおやえが、小三郎のただならぬ様子に気づき、声をかけた。
「浪人様……さくらちゃんのことでございますか。あそこの大旦那は、本当に良くない噂ばかりで……あの子がどんな目に遭うかと思うと、わしは……」
おやえは言葉を詰まらせ、袖で目元を拭った。
「どうか、あの子を……」
懇願するような老婆の目に、小三郎は自分の無力さを感じた。
さくらの無邪気な笑顔。読み書きを教わる時の真剣な眼差し。
それが、よからぬ噂のある大店に奉公に出されるという。
もし噂が真実なら、さくらの未来は……そこまで考えて小三郎は奥歯を噛みしめた。
他人の家のことに口を出す資格はない。
だが、あの小さな手が、再び理不尽な暴力や搾取に晒されるかもしれないと思うと、腹の底から暗い怒りがこみ上げてくるのを感じた。
さくらを守りたい。
その思いは、復讐心とは異なる熱を帯びた感情となっていった。この子だけは、俺が守らねばならぬ、と。
それから数日後、小三郎は懇意になった下っ引きの源八と、夜更けの屋台で密かに言葉を交わしていた。
佐敷栄之進の情報を集めてもらうついでに、江戸の物騒な噂話に耳を傾けるのは常だった。
「旦那、ここのところ妙な連中が江戸に入り込んでるって話でさあ」
源八が声を潜めて言った。
「妙な連中?」
「へえ。どうも、どこぞの藩から来た手練れみてえでしてね。何やら、訳ありの脱藩者を探してるって噂です」
小三郎の眉がぴくりと動いた。
「……俺のことか」
「旦那の元の藩でも、旦那の脱藩が相当問題になっちまってるらしいんでさ。お家騒動にまで発展しかねえとか……それで、どうやら刺客が放たれたというのがもっぱらの噂でさ。
旦那、くれぐれも身の回りにはお気をつけくだせえ。
奴らは江戸の地理にも明るくねえでしょうが、金に糸目はつけねえかもしれませんぜ」
源八の言葉は、小三郎にとって予想の範囲内ではあった。脱藩した以上、追われることは覚悟していた。
その「時」が思ったよりも早く迫っているのかもしれない。
もし自分が刺客に倒れれば、さくらは……? 復讐を遂げる前に自分が死ぬわけにはいかない。
そして、さくらをあのような環境から救い出す手立てを考えねばならない。
焦りが小三郎の心を焼いた。
さくらのこと、自らに迫る刺客の影。
二つの重圧が小三郎の肩にのしかかる。
それでも小三郎の心は不思議と定まっていた。
復讐は果たさねばならない。
だが、それだけではない。
あの小さな命を、この手で守り抜く。
その決意が小三郎の虚ろだった目に再び鋭い光を灯していた。
そんな中、江戸の喧騒の中で小三郎はついに佐敷栄之進とお実乃の居場所を突き止めた。
深川の、とある小料理屋。
源八から情報を得たのは、つい昨日のことだった。
月も隠れた蒸し暑い夜、小三郎は息を潜め、小料理屋へ続く薄暗い路地を進んでいた。
その一角の古びた蔵の陰に差し掛かった時、不意に複数の男たちの話し声が彼の耳に入った。
声には聞き覚えがあった。かつて同じ藩の空気を吸い、剣を交えたこともある者たちの声色。
小三郎は反射的に身を闇に沈め、気配を殺した。
「この界隈で間違いないのか。佐敷のやつめ、お実乃とやらを連れて江戸に潜んでおるとは、武士の風上にも置けぬ」
「ああ。藩主様のご立腹は尋常ではない。柚子島ももちろんだが、佐敷とお実乃も生かして藩へ連れ帰ることは許されぬ。見つけ次第、始末せよとの厳命だ」
「女を手にかけるのは気が進まんが、これも藩命。ましてや、お実乃は柚子島殿の妻であった身。佐敷と共に藩を捨てた以上、同罪であろう」
男たちの声は潜められていたが、小三郎の研ぎ澄まされた聴覚は一言一句を逃さなかった。
やはり藩からの追っ手。それも自分だけでなく、佐敷とお実乃をも標的にしている。
小三郎の胸に、複雑な感情が渦巻いた。
佐敷への憎しみは変わらない。だが、藩が彼らを「始末」する。
それは、自らの手で復讐を遂げるという小三郎の目的を横から奪われることにもなる。
それ以上に、お実乃までが藩命によって殺されるということが、彼の心のどこかを揺さぶった。
かつては自分の妻であった女が自分以外の男を選び、その男と共に藩からも命を狙われている。
この手で斬り捨てると誓ったはずの女。だが、その命が他者の手によって、しかも藩命という理不尽な力で奪われることには、言い知れぬ抵抗感があった。
男たちはなおも小声で打ち合わせを続けていたが、やがて一人が「手分けして探すか。夜明けまでには片をつけたいものだ」と言うと、それぞれ別の方向へと散っていく気配がした。
小三郎は彼らが完全に立ち去るのを待ち、蔵の陰からそっと顔を覗かせた。
見慣れた藩の者たちの背中が、闇に溶けて消える。
刺客の影は、確実に自分たちに迫っていた。
だが、今は佐敷とお実乃のことだ。
小三郎は改めて小料理屋へと意識を集中させた。
小三郎は店の裏口に潜み、息を殺して二人を待った。
やがて酔客を見送るためか、佐敷とお実乃が姿を現した。
佐敷は小三郎が記憶していたよりも少しやつれ、顔には藩を捨てて生きる苦労が刻まれているようだった。
だが、眼光はかつての鋭さを失っておらず、隣のお実乃を労わる眼差しには、紛れもない優しさが宿っていた。
そして、お実乃。
彼女は小三郎といた頃よりも、どこか肩の力が抜け、満ち足りた表情をしていた。
その顔には小三郎が見ることのなかった、穏やかな安堵の色が浮かんでいた。
それは厳しい武家の嫁として、息を潜めるように生きていた頃には決して見せなかった、一人の女としてのささやかな幸せをようやく手に入れた者の顔だったのかもしれない。
憎しみで凝り固まっていたはずの小三郎の胸の奥が揺れた。これは、俺が与えられなかった顔だ、と。
「佐敷栄之進! お実乃!」
小三郎の声が夜の静寂を切り裂いた。
二人は驚愕に目を見開き、小三郎を認めた。
「……柚子島殿」
佐敷が震える声で言った。声には怯えと共に、どこか覚悟を決めたような響きも混じっていた。
彼は一瞬お実乃の前に立ちはだかろうとしたが、お実乃がそれを制するように彼の腕を掴んだ。
お実乃は青ざめた顔で一歩下がるも、瞳は真っ直ぐに小三郎を見据えていた。
その仕草は恐怖からというより、むしろ佐敷を守ろうとする意志のようにも見えた。
「なぜ……なぜ今さら……」
「なぜだと? 貴様らだけが幸せになることなど、この俺が許すと思うか!」
小三郎の身体から殺気が立ち昇る。腰の刀に手をかけたその時、お実乃が叫んだ。
「もう、あなたとは終わったのです! 私は……私はこの人と、この人と幸せになりたい! 一人の人として、あなたよりもこの人と生きていきたいのです! あなたには……私の心が見えなかった……」
最後の言葉は呟きに近かったが、小三郎の耳には鋭い刃として突き刺さった。
お実乃の切実な声、表情が言葉に嘘がないことを物語っていた。
「私の心が見えなかった」
その言葉は小三郎がさくらに字を教えながら、幾度となく自問した過去の自分の姿と重なった。
お実乃が草双紙に心を寄せた時、新しい知識に目を輝かせたかもしれない瞬間に、自分はただ武家の常識という名の壁で彼女を囲い込もうとしただけではなかったか。
お実乃への、憎悪の底に沈んでいたはずの彼女への断ち切れぬ情と、満たしてやれなかったことへの悔いが不意に脳裏をかすめる。
過去の自分の不甲斐なさ、お実乃の心を繋ぎ止められなかった至らなさ。
お実乃が求めていたのは武士としての誉れや力ではなく、もっとささやかな心の繋がりだったのではないか。
佐敷のやつれているが揺るぎない佇まい、お実乃の彼に寄せる信頼。
それらは小三郎が与えられなかったものの証左のようだった。
佐敷は少なくとも、お実乃の心を理解しようと努めたのだろう。
お実乃もまた、佐敷の心に応えたのだ。
(俺は……夫として、あやつに何をしてやれたというのだ……? かつて一度でも、このような顔をさせてやれたことがあっただろうか……?)
このまま二人を斬り捨てることが、本当に自分の望みなのか? この女の今の表情を奪うことが?
いや、裏切りは裏切りだ。許すわけにはいかぬ。
そう心で打ち消そうとするほどに、柄を握る指から力が抜け落ちていくのを感じていた。
脳裏に、さくらの顔が浮かんだ。
あの小さな手が自分の袖を掴む感触。
字を覚えた時の、屈託のない笑顔。
『お侍さんみたいに、強くて賢くなりたい』
そう言った彼女の期待に満ちた瞳。
あの笑顔こそが自分が守るべきもの。
この子のためならば、生き恥を晒してでも生き抜こう。
お実乃が選んだささやかな幸せは、自分が壊すべきものではないのかもしれない。
生きる意味を失っていた自分に、再び光を与えてくれたのは、さくらなのだ。
(あの子を守るために……生きる。あの子の未来を俺が作るんだ)
「……行け。二度と俺の前に姿を現すな」
佐敷とお実乃は、信じられないという顔で小三郎を見つめたが、やがて弾かれたように駆け出し、闇の中へ消えていった。
お実乃は去り際に一度だけ振り返った。
その表情の意味を、小三郎は読み取れなかった。
踵を返そうとした瞬間。
ひやりとした夜気が、首筋を撫でた。
それと同時に、闇の中から複数の気配が滲み出すように現れた。
四人の男。
いずれも目つき鋭く、手練れと知れる雰囲気を纏っていた。
その出で立ちと、腰に差した刀の拵えには見覚えがあった。故郷の藩の者たちだ。
「……やはり、現れたか」
小三郎は呟き、再び柄に手をかけた。
今度は憎悪のためではない。生きるため、守るために握る剣であった。
四人の刺客は、小三郎を半円状に取り囲むようにじりじりと間合いを詰めてくる。
その中の一人、やや年嵩で頭目らしき男が低い声で言った。
「柚子島小三郎。藩命である。貴様の身柄、拘束させてもらう。……いや、抵抗ぶりによっては、この場で斬り捨てることも已む無しと心得よ」
「藩命、か。もはや俺に、その言葉は響かぬ」
「貴様……! 佐敷栄之進とお実乃も見逃したと見える。それもまた、藩への背信行為。罪は重いぞ」
男の言葉には抑えきれぬ怒気がこもっていた。
小三郎は静かに息を吸い、吐いた。心の奥底には、さくらの無邪気な笑顔が浮かんでいた。
(この命、あの子のために繋がねばならぬ)
「問答は無用。……来るなら来い」
小三郎の言葉を合図にしたかのように、まず左右から二人の刺客が同時に斬りかかってきた。
一人は上段から力任せに、もう一人は下段から足を狙って。
小三郎は半身になり、上段からの太刀を紙一重で躱しつつ、勢いを利用して回転。下段の刃を跳躍して避け、そのまま流れるように体勢を立て直すと、返す刀で最初に斬りかかってきた男の胴を薙いだ。
「ぐ……!」
鈍い音と共に、男が崩れ落ちる。
間髪入れず、もう一人の刺客が驚愕の表情も束の間、怒声を上げて再度斬りかかる。
その剣筋は速く鋭いが、小三郎には見えていた。
守るべきものがあるという覚悟が、彼の剣にかつてない冴えを与えていた。
相手の太刀筋を読み、最小限の動きで受け流し、がら空きになった脇腹へ深く突きを入れる。
「がはっ……」
二人目の刺客もまた、血反吐を吐きながらその場に倒れた。
残るは二人。頭目らしき男と、もう一人、やや若い、しかし油断ならぬ目つきをした男。
「……やるな、柚子島。だが、それで終わりだとは思わぬことだ」
頭目の男が静かに言い放ち、自らもゆっくりと刀を抜いた。
若い男もそれに続く。
今度は慎重だった。先の二人のように、力押しでは敵わぬと悟ったのだろう。
若い男が牽制するように剣先をちらつかせ、頭目の男がその隙を窺う。
息の詰まるような睨み合いが続いた。
先に動いたのは若い男だった。
一瞬の隙を突いて踏み込み、刺突を繰り出す。
小三郎はそれを冷静に打ち払い、逆に相手の体勢を崩そうと踏み込んだ。
その瞬間、背後から迫る頭目の男の気配。
挟撃だ。
(させるか……!)
小三郎は若い男の突きを受け流した勢いのまま、身体を反転させ、頭目の男の斬撃をすんでのところで受け止めた。
キィン、と甲高い金属音が夜の静寂に響く。
鍔迫り合い。互いの顔が間近に迫る。
頭目の男の目には、冷徹な殺意が宿っていた。
「ここまでだ、柚子島!」
力を込めて押し返そうとする男。だが、小三郎は諦めなかった。
さくらの顔が、脳裏をよぎる。
あの子に字を教え、あの子の未来を与える。
その思いが、腕に新たな力を与えた。
「うおおっ!」
気合一閃、小三郎は相手の太刀を弾き飛ばし、体勢を崩した頭目の男の胸元へ渾身の一撃を叩き込んだ。
手応えがあった。
頭目の男は、信じられないという表情で己の胸を見下ろし、そのままゆっくりと膝から崩れ落ちた。
残るは若い男一人。
仲間たちが次々と倒れるのを目の当たりにし、その顔には恐怖と絶望の色が浮かんでいた。
もはや戦意を喪失したかのように、後ずさりを始める。
「ま、待て……俺は……」
小三郎は、血に濡れた刀を静かに構え直した。
もはや情けをかけるつもりはなかった。藩の追っ手である以上、生かしておけば必ずや再びさくらとの平穏を脅かす存在となる。
「……覚悟」
短い言葉と共に、小三郎は踏み込んだ。
若い男はなす術もなく、悲鳴を上げる間もなく、小三郎の刃の前に崩れ落ちた。
四人の刺客は、もはや動かぬ肉塊と成り果てていた。
小三郎は、荒い息を繰り返しながら、その場に佇んだ。
全身が軋むように痛む。幾筋かの血が、着物を濡らしていた。
だが、生きている。
守るべき者のために、生き抜いた。
小三郎は、ゆっくりと刀の血糊を払い、鞘に納めた。
憎しみも、後悔も、お実乃への断ち切れぬ未練も、全てを心の奥底に押し込めるように。
復讐という重荷を下ろした安堵と、さくらのために生きるという新たな決意が、小三郎の疲労した体に染み渡っていた。
(長屋へ帰ろう。そして、さくらに……もっと多くの字を、世界を教えてやろう)
そう思い、踵を返そうとした瞬間。
「なんで殺して死ななかったの?」
背後から聞こえたのは聞き慣れた少女の声。
けれど、その声にはいつもの明るさはなく、氷のような冷たさが含まれていた。
次の瞬間、脇腹に焼け付くような衝撃が走った。
「ぐあっ……!」
見下ろすと、血に濡れた包丁の柄を握るさくらの姿があった。
小三郎は信じられない思いで崩れ落ちた。
血がどくどくと流れ出し、力が抜ける。
霞む視界の中で、さくらが小三郎の腰に差された大きな刀に手を伸ばしたのが見えた。
小さな両手で柄をしっかりと掴み、渾身の力で鞘から引き抜こうとする。
刀はわずかに持ち上がるが、重さに身体がぐらりと揺れ、さくらは思わず手を離してしまった。
とてもではないが、これを自在に扱うことなどできそうになかった。
さくらは顔をしかめ、次にその隣に差されていた脇差に目をやった。
今度は慎重に脇差を引き抜いた。
闇夜に鈍い鋼の光がきらめく。
手にした脇差も子供には重すぎたが、刀に比べればまだ扱えるものだった。
さくらの顔は、いつもの無邪気さとはかけ離れた、歪んだ喜悦と狂気に彩られていた。
「安心して、お侍さん。この小さな刀でさっきの二人、ちゃんと殺しておくね。お侍さんの望み、私が叶えてあげる」
そう囁くと、さくらは手にした脇差を両手でしっかりと握り締め、佐敷とお実乃が消えた闇の中へと、軽やかな足取りで駆け去っていった。
小三郎の意識は、急速に薄らぐ。
最期に脳裏をよぎったのは、お実乃の笑顔でも、佐敷への憎悪でもなく、字を覚えたいと無邪気にねだった、さくらの笑顔だった。
それは実を結ぶことのなかった徒花。
この江戸の闇に咲き、踏みにじられた無数の花々と同じように、闇に塗り潰されようとしていた。
***
明け六ツを知らせる鐘の音が、まだぼんやりと霞む江戸の空気に溶け始めた頃、下っ引きの源八はけたたましい戸を叩く音で叩き起こされた。
何事かと表へ出れば、血相を変えた町役が息を切らして立っている。
「源八! てえへんだ、深川の方で……!」
嫌な予感は、大概当たるものだ。
最初に踏み込んだのは薄暗い路地裏。
鼻を突く血の臭いに源八は顔をしかめた。
そこに転がっていた五つの死体の一つは見覚えのある浪人の姿だった。
柚子島小三郎。
伸び放題の無精髭、虚ろな眼差しは閉じられていたが、その顔には驚愕と、何か言いようのない諦観が浮かんでいるように見えた。
脇腹に致命傷となったであろう刺し傷がある。
「旦那……なんでこんな……」
源八は思わず呟いた。小三郎に情報を伝えたのは、つい一昨日のことだった。まさか、こんな形で再会することになろうとは。
小三郎の腰の大刀は鞘に収まったままで、脇差は見当たらなかった。
腕利きの旦那が、刺客たちを仕留めた後、何者かに不意を討たれたとでもいうのか……? しかし、一体誰が?
ほどなくして、近くの橋の下からも二つの死体が見つかったと知らせが入る。
一人は若い男、もう一人は女。これもまた、惨たらしい有様だった。
男の方の顔には見覚えがあった。
旦那が執拗に追っていた……佐敷栄之進とか言ったか。それに、その隣で息絶えている女。
源八の脳裏に、小三郎が時折見せる苦悶の表情がよぎった。
これが旦那が求めていた結末だというのか。
だとすると、あまりにも救いがなさすぎる。
陽が高く昇り始めた頃、騒ぎは裏長屋にも及んだ。
今度は夫婦者の変死体が出たという。
源八は重い足取りで長屋へ向かった。
戸板一枚の入口をくぐると、そこには言葉を失う光景が広がっていた。
さくらという娘の両親二人が、何か鋭利な刃物で滅多刺しにされて絶命していた。
二人の娘、さくらの姿はどこにも見当たらない。
「さくらちゃんが……いないんです」
長屋の隅で花を売る老婆、おやえが震える声で言った。その顔は土気色だった。
部屋の片隅に、一枚の半紙が落ちているのを源八は見つけた。
拾い上げてみると、そこには子供が書いただろう妙に力強くも歪んだ筆跡で、『ありがとう』とだけ書かれていた。
源八は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
ありがとう? 何への感謝だというのだ。
この惨状の中で、この言葉はあまりにも不気味だった。
まさか、その小さな娘が……? いや、そんな馬鹿なことがあるものか。
だが脳裏に浮かんだその考えを、源八は打ち消すことができなかった。
長屋の住人たちは、遠巻きに様子を窺い、恐怖に顔を引きつらせていた。
誰もが人懐っこい少女の愛らしさの裏に、こんな底知れぬ闇が潜んでいたとは思いもよらなかったのだ。
おやえは半紙を一目見るなり、がっくりと膝から崩れ落ち、ただ嗚咽を漏らすばかりだった。
彼女がさくらに注いでいたささやかな情けも、何もかもがこの凶行によって無惨に踏みにじられたのだ。
源八は、やり場のない怒りと深い無力感に包まれた。
小三郎の旦那は、何を思い、何に絶望し、そして誰に裏切られたというのか。
この江戸という街は、時として人の心を喰らい、思いもよらぬ化け物を生み出す。
懸命に生きようとする者たちの小さな願いも、夢も、まるで最初から咲くことなど許されていなかったかのように、いともたやすく闇に呑み込まれてしまう。
源八は重い溜息と共に空を見上げた。
江戸の空は昨日と変わらず、どこまでも高く青い。
だが、その下で繰り広げられる人の世の営みは、時にどうしようもなく暗く、やりきれないものだった。
美しい花に見えても実を結ぶことなく散っていく徒花のように、人の命や願いが江戸のどこかで、今日もまた一つ、静かに踏み潰されていくのだろう。
そんなことを、源八はぼんやりと考えていた。