車内で
その母子は、私が降りようとする駅の、数駅前の駅ホームのやみへと歩み出て行った。まだ泣きやまぬ子をかかえて、電車の向かう方角とは逆の、林のそばの改札へと。
私はその母子を見送ると、ふたたびまどろみのなかへと浸っていった。
「行きたくないよ、あんな所には…大嫌いだ、あんなところ……」
私はぼやぼやした気分のなかで突然その声を聞き、いねむりから目を覚ましたようだった。
視線をあげると、私の視界の中に泣き叫ぶ幼児のすがたが入ってきた。
「おうちに帰りたいよ…早くかえしてよ……」
「ようしよし、ほら、いい子だ。だから、泣かないでおくれよ」母親らしき、幼児を抱いている女が幼児をなだめる。そのまだまだ若々しい顔にはあせりに似た表情が浮かび、また、額には汗が浮かんでいた。
きっと、まだ育児には慣れていないのだろう…。
私は次第にはっきりとしてくる頭でそう考え、ほほえましい状況に思わずほほ笑んでしまった。
急な出張であった。夜もそう遅くない退社時に、社内で同僚からたのまれたのだ。
「悪い、すこしばかり、たのまれてくれないか…。それほど大変じゃあないから、さ……」
同僚は、病気の母親の容体を見に行かなくてはならないと言う。断る理由もなかった。
「いつも、すまないな。入社のときから、迷惑ばかりかけてしまって……」
すぐさま会社を出て、駅の改札を通った。そして、多少離れた駅へと向かったのだ。
夜道。幼子を抱えた若い女が、林へと続く道を歩いてゆく。
幼子は泣き叫ぼうとするが、声が出ないらしく、かおを真っ赤にしてうめいている。
「…はじめはおどろいたわよ。行きたくないとさけびだしたのだもの……。ええ、分かっているわ。…じゃあね」女は足をとめたそばの電話でどこかへと連絡をした。相変わらず、幼子はうめいている。
女はある時、子供を作ってしまったのだ。それを夫に隠そうとするも、相手の男にも妻がいるため、世話の面での問題が起こり、隠すのをあきらめたのだ。そう、つまりは…。
「おとなしくしていてね…。そうしていれば、なにもしないから……」
女は幼子にそうささやきかけると、幼子の首に強く巻きついた縄をさらにきつくし、死体遺棄の場所として世間に一目置かれている林の中へと……。