月がきれいだなんて言われたら
アストルディア東の大陸ルナティリス月皇国。
本当は護衛剣士くんのお話がメインだけど、これは護衛剣士くんが仕えてる主の恋のお話。
ああ、月が綺麗だなー。などと考えながら、夜空にデデンと浮かんだ大きな満月を眺めつつ早足で歩いていたのが、いけなかったのかもしれない。
ようやく保育園の年長クラスになった末の弟が、今日は盛大にワガママを言いたい気分だったらしい。ぜったいぜったい、ぜーーーーーったいに、ハンバーグじゃなきゃヤダーーー!! と、本日の夕飯に口を出して泣いて騒ぐものだから、結月は「しかたないなぁ」と泣きじゃくる弟の頭をひと撫でして、足りない材料をスーパーに買いに出たのだ。
その、帰り道だった。
時間帯的にひき肉も卵も特売で、なおかつ玉ねぎも安い日だったので、ホクホクとしながら、でも早く帰らなきゃと急いでいたから、いつもは通らない夜の公園を突っ切ろうなんて思ってしまったのが運の尽き。
月に見惚れて踏み出した足の先に地面はなく、ふわりとした浮遊感に包まれたあと、体は重力にひっぱられて盛大に落下していって。
――あ、たまご。
などと思ったのが最後で、気がついたら見知らぬ場所に結月は座り込んでいた。
(は……え? ここ、どこ?)
首を左に右に、下に。そして後ろへと。
目に飛び込んできた光景にあんぐりと口を開ける。木でできた床板に、なにやら綺羅びやかな装飾のされた大きな社――社? のようなものが背後にそびえて建っている。鎮座している石像は、物語で見た天女のような服装で、優しげな微笑みをたたえて結月を見下ろしていた。
前を向いた正面には供物を捧げ置くためのものなのか、重厚な木のテーブル……のようなものがあり、そして、その前にズラリと並ぶ見たこともない服装の男性たち。
唖然とした結月と目があったいちばん先頭にいた男性が、弾かれたように前に進み出てきた。
「ま、ま、まさか……新たなカグヤ様ですか!?」
「……はい? って、ちょっと……なに!?」
カグヤ? ってなに? かぐや姫のこと?
意味不明な単語に、結月の頭の中は一瞬で疑問符で埋め尽くされた。
混乱したまま呆然とする結月に構わず、興奮した様子の男性に両手を掴まれそのまま立ち上がらされる。
「うおーー! 新しいカグヤ様だ!」
「あの落ちこぼれとは違う、異世界からの救世主様だ!」
「新たなカグヤ様バンザーイ! これで……これで、この国もまだ生き残れる……!」
「あのっ! ちょっと待って! なんなんですかいったい!?」
「ささっ、カグヤ様。さっそく我が皇王陛下にご挨拶に参りましょう」
「コウオウヘイカ? って、なに!?」
「大丈夫です。なにも心配いりません。あなた様は我々にすべて任せてくださればそれでいいのですから」
「いや、だから、話をきい……っ」
話を聞いてほしい! というか、なにもわからないわたしにまずはどういうことか話をしてほしい! カグヤってなによ!?
叫ぶ声は男どもの野太い歓声にかき消され、なにもかもわからないまま、結月はあれよあれよと言う間に謁見の間とやらに放り込まれてしまったのだった。
「つ、つかれた……」
普通に日本の大学二年生として生活していれば決して『謁見』などという言葉を耳にすることはなかったはずなのに。『拝謁』とか『顔を上げよ』とか、まるでファンタジー小説の中に閉じ込められてしまったかのようなできごとが、先ほどから延々続いている。
いきなり『拝謁』させられた皇王陛下はこの国のいちばん偉い王様で、その『謁見』の場にともに居合わせた宰相というのは王様の補佐をする役職だと紹介された。
作法もなにもわからないまま、ペコリとお辞儀をして、「ここはどこですか。家に帰してくれませんか」と訴えた結月を、皇王陛下とやらは眉をしかめとても面倒臭そうに見遣ったのだ。
曰く、礼儀もなっていないのか、と。
(そんなもの知るわけないじゃない! こちとらバリバリの女子大生よ!? 偉い人との謁見なんか想定されてないわよ! せいぜいが就職後の社長さんとかじゃない!?)
少々、家が複雑で、下に四人いる弟の世話を結月が一手に引き受けている関係で、どこまでも所帯じみていまだに彼氏のひとりもいたことはないけれど。と、まあ、それはそれ、これはこれなので置いておくとして!
右も左もわからないなか放り込まれた女の子に、あの対応は本当にナイ。いくら偉い人だからって、ヨシとされてほしくない。
(というか、ほんと……こんどはどこに連れて行くつもりなの!?)
モヤモヤしたまま拝謁とやらが終わると、先ほどの男たち――宰相からは『祭祀官』と言われた――は、結月を先導してまたも長い廊下を歩き始める。
木でできた床を踏みしめる足が、まるで日本の神社を思わせて、少しだけ懐かしさに胸が痛む。
(たぶんコレ、異世界トリップ? とかいうやつだよね……)
今年高校二年生になったすぐ下の弟が、家のソファでそのような内容のライトノベルを読んでいたのを、チラッとだが見たことがある。いや、アレは異世界転生とかいうものだったかもしれない。よくは知らないが。
けれどまあ、要するにそういうこと、なわけで。
(……って、納得できるわけあるかー!)
そんなファンタジーな出来事が己の身に起こるこの理不尽さ! こういうのは創作だから良いのであって、現実世界でそんなこと普通に考えてあり得るわけがない。あったらおかしい。
(百歩譲ってもしかして夢オチとか……ない? ないかな? だってありえないでしょ!? というか、現実世界のわたしの存在はどうなったの?)
祭祀官という男の後ろをついて歩きながら、キョロ、と周りを見回してみる。
微妙に、日本の和のテイストと中華ファンタジーが混ざったような空間である。
そっと、手を伸ばして柱に触れてみた。ヒンヤリとした木の冷たさが、指を伝って手のひら全体に滲みてくる。
「……カグヤ様?」
背後にもいた祭祀官から問いかけられ、結月は首をふる。
(わたしは『カグヤ』なんかじゃない。絶対にちがう)
開けられた窓の隙間から、この世界の空が見えた。暗い夜空に、ぽっかり浮かんだ大きな満月。つい先ほどまで結月が見上げていたものと同じようでいて、どこかちがうような気がする、薄黄色。
(だれか……嘘だって言って……)
ヒヤリと冷えた指先で自身の頬を思い切り摘んで、結月は滲んだ涙を慌てたように指で払った。
絶望が、そこにあった。
◇◇◇ ◇◇◇
「入れ」と、聞こえた男の声は、なんだかとても重圧感と色気に満ちていたような気がする。
祭祀官に先導されるがまま、とある扉の前にたどり着き、応えの声に答えて扉が開かれた。先導するように先に入っていく祭祀官に続き、結月も扉の奥へと歩を進める。
その室内は整然としていた。右の壁一面に書棚が並び、天井にほど近いところから足元まで、ビッシリと本で埋め尽くされている。その手前にある応接用のものと思われるソファと背の低いテーブルは落ち着いた色合いの濃茶で統一されていて、高級感がある。左側にはアイボリーの丸い小卓と、揃いの椅子があるので、おそらく右側は来客用とかなのだろう。
そして正面には、大きな窓。それを背後に従えて大きな机が置かれている。艶のある机の面が、外からの月明かりを反射している。とても使い込まれている上に、よく手入れをされた良い机だと、結月は目を細めた。
そして、月明かりを背にした青年がふたり。
ひとりは、机の前に立ち片腕に書類を抱えた、黒髪に濃い青の瞳の男性。もうひとりは椅子に座り片腕で頬杖をついた、この世界の満月のような色をした長髪で、濃い緑色の瞳をした男性。
(あれって、柚葉色……とか言うのに似てる)
祭祀官のあとから入室した結月をちらりと見て、座っている男の月色の眉がかすかにしかめられる。だが、なにを言うでもなく結月から視線を外すと、その男は結月を先導していた男に向かって口を開いた。
「で? 祭祀官が俺になんの用だ」
クイッと顎を上げて、特におもしろくもなさそうに祭祀官を見上げる。見上げているはずなのに、まるで見下されている感が凄まじい。
この祭祀官と男性では親子ほどに年齢の差がありそうなのに、男性にはまったく相手を敬う気配が見られない。
(というか、さっきもこういう人に会った……この国の王とかいう人だった……。ということは、この人もしかして偉い人!?)
先ほど、ちらりと結月を見た瞳にはなにも感情が見えなかった。まるでそのへんに転がっている石ころにちょっとだけ視線を向けた、というだけの様子だった。石に感情を向ける人はそういない。要するに、この男性にとって、結月とは石と同じ認識なのだろう。
「なんの用とはあまりないい草ですな、サク様」
不愉快そうに男性の言葉に噛み付く祭祀官を眺め、柚葉色の瞳がスゥと細くなる。
「……祭祀官の身で殿下の名を呼ぶのはおこがましいのでは?」
「うるさいですよ、コクウの若造が」
「おや、私がコクウ家の者だとわかっていてその態度なんですね? 我が家があなたがた祭祀礼館に多額の出資をしていることはご存知だと思っていたのですが。さて……筆頭四家のうち我が家の今年の年貢はいかほどだったか……」
「……はぁ。やめろ、イツキ」
黒髪の男性が顎に指を当て、柔和に笑いながら祭祀官へと語りかける。その姿を忌々しそうに睨みつける祭祀官を、黒髪の男性はおもしろそうに眺めている。この男性――イツキさん、だかコクウさんだか――は、とても穏やかに笑っているはずなのに、結月はぶるりと肩を震わせた。そっと、二の腕をさする。
(こ、このひと……顔は笑ってるのに目がぜんっっぜん、笑ってない!)
こ、こわい。ぜったいこの黒髪の男性は敵に回したらいけない人だ。結月は頭の中のメモ帳にしっかり書き残した。
対して、黒髪の男性を止める月色の男性はとても面倒くさそうである。
手を払って黒髪を黙らせ、いいからさっさと要件を言え、と祭祀官に言い捨てる。
チッ、とかすかな舌打ちが聞こえた気がしたのだが、気のせいだろうか。先ほど黒髪の男性は、月色の髪の男性を『殿下』と呼んだような気がするのだ。それは要するに、あのもう二度と会いたくないと思った『皇王陛下』の息子ということなのでは……?
「まあ、結構です。貴方がたに我々祭祀官、ひいては祭祀礼館への信仰心がないのは今に始まったことではありませんから。それよりも――」
「え? わ、きゃあ!」
吐き捨てるように喋り始めた祭祀官が、振り向きざまに結月の腕を掴んで前方へと押し出してくる。先ほどまでの丁寧な所作からは考えられないような乱暴なしぐさだ。掴まれた腕が痛い。
「先ほど、この国に新たなカグヤ様が召されたのですよ!」
「…………は?」
「…………へぇ」
「ち、ちが……ッ」
ギリッと掴まれた腕に、祭祀官の爪が突き立てられた。服の上からギリギリと腕を圧迫され痛みに言葉が引っ込んでしまう。
――ちがう、わたしは『カグヤ』なんかじゃない!
そう言いたいのに、そう言おうとするたびに、祭祀官の爪は肌に食い込み、骨を折らんばかりに力を込められる。痛みに滲んだ涙を振り払うように結月は目を瞬かせる。その様子を、柚葉色の瞳がジッと見つめている。
「その女が、新たな『カグヤ』だと、貴様らはそう言うのか」
「ええ、そうです! ですので、皇太子殿下にもご挨拶に伺いました。皇王陛下には先ほどお目通りしたところです。これで、この国もまた豊かになりますねぇ。祈りが必要でしたら、ぜひとも祭祀礼館へ。ああ、ですが、それなりに誠意を見せてくださらないと。我々も慈善事業ではやっていけませんか……ぐえっ」
「……………………今のカグヤ様はどうなさるおつもりですか」
興奮したように滔々と喋り続ける祭祀官を遮るように、黒髪の男性がその襟元を両手で締め上げた。ギチギチと、首もとの布地が悲鳴を上げている音がする。
けれど、そのおかげで祭祀官の手が緩み、結月は慌てて男から距離を取った。
左側へ逃げて、アイボリーの小卓と同色の椅子にしがみつく。掴まれていた二の腕が痛い。左手でその部分を押さえ、結月は祭祀官を睨みつけた。
「まったく。アレは女の扱いもなってねぇのか。おい、女。貴様、本当にカグヤか?」
カタン、と音がして振り向けば、椅子から立ち上がり机を回ってきた『殿下』が、結月の目の前に立っている。
わずかに腰をかがめ、瞳を除きこもうとする柚葉色を目にして、慌てて視線をそらす。問われた内容には必死になって首を振った。
「ち、ちがい、ます。ぜったいに、ちがう」
「…………ふーん。なら、貴様はなんだ」
「し、知らない! でも、わたしはただの姫乃結月で、弟四人のお姉ちゃんで、『カグヤ』? だかなんだかなんて、これっぽっちも知らないわ!」
「…………へぇ。お姉ちゃん、ねぇ。おもしれぇ」
ポソリと呟いた男が、不意に結月の手を取った。椅子にしがみついて固くなった指先を一本一本ほぐすように引き剥がされ、握りこまれる。
そのまま引き寄せられ、ポスリと広い胸の中へと閉じ込められた。柑橘系の香りが、ふわりと、結月の鼻孔をくすぐっていく。
「おい、イツキ。あんまりやるとソイツ死ぬぞ」
先ほど黒髪の男性が祭祀官をギリギリと締め上げていたが、もしかしてアレからずっとその状態なのだろうか。
おかしそうな声が上から降ってくるが、結月は『殿下』と呼ばれていた男性に囲いこまれてしまい周りがなにも見えない。
(というか、離してほしいわ! なんでわたしこのひとに抱きしめられてるの!? って、待って。だ、抱き……!?)
ひえええと情けない声が結月の口から漏れ出した。慌てたように両手を男の胸に置いて押し戻そうとするも、ビクともしない。手のひらの下に感じる男の体温にドギマギしてしまい、なんだかもうどうしたらいいかわからなくなる。
家で弟たちの面倒を、遊ぶ時間もすべて捧げて見てきた結月には、男性に対する免疫がない。おっまえほんと所帯じみてるよなーと笑われたことはあっても、家事と育児と勉強に追われていた結月はおしゃれもしたことがないせいか寄ってくる男もいなかった。
だから、ちょっと、これは……よろしくない。本当によろしくない。
「おい、暴れるんじゃねぇ」
必死に距離を取ろうと、結月が男の胸板を押せば押すほど、囲う腕が強固になる。今やもう、最初にあった隙間すら微塵もなく、ピッタリと抱きすくめられてしまい、結月の息は絶え絶えだ。抱きしめる腕はやわらかく、結月に痛みを与えることはないのに、ふり解くことがまったくできないのである。
そのうえなぜか、抱きしめ方が最初と変わっている。腰と肩を抱くように腕を回され、さらには大きな手のひらが首の裏から後頭部を撫で、結月の肩までの髪をサラリとかきあげる。
うなじを這う指の感触に、ビクリと肩を震わせれば、ククッという抑えたような笑い声が聞こえてきた。
「…………イツキぃ。貴様本気でソイツを殺す気か? だとしたら俺の部屋でするんじゃねぇよ。どっかよそ行ってやれ」
「……殿下、貴方はなにをなさっているんです? よもやその女性を気に入ったなどと言い出しませんよね? だいたい新たなカグヤなどと、私が認めるわけないでしょう」
「ったく……貴様がアレをどう思ってるかなんざ俺には関係ねぇが、」
「関係ないわけないでしょう!?」
噛み付くように吠えた黒髪の男性の声に、はぁうるせ……という月色の髪の男性の声が重なる。
「ただ、この状況は、貴様にとっても悪くはねぇんじゃねぇか」
「くっ…………それも、そう、ですね」
なにかしらのやり取りがあった末に、ドサリと床になにかが投げ出されるような音がした。ついで、ゲッホゲッホと咳の音。ヒューヒューと息を吸い込む音もするので、きっと締め上げられ続けていた祭祀官が放り投げられたのだろう。たぶん。いまだ締め上げ続けていたという事実が恐ろしいが。
「なぁ、祭祀官。祭祀礼館に帰ったら、貴様らの大事な大事な祭祀官長に言っておけ。俺――このルナティリス月皇国の皇太子であるサク・ツキシロは、貴様らが連れてきたこの新たな『カグヤ』を認めねぇ、ってな」
(このひと、サク・ツキシロさんっていうんだ……)
その響きからすると、あの黒髪の男性はイツキ・コクウというのだろう。どことなく日本の様式を思い起こさせるが、名前の性と名は西洋のように逆になるらしい。
(ということは、やっぱりここは異世界……じゃあ、やっぱりわたし、あのとき階段から落ちて飛ばされちゃったのかな……)
ハンバーグが食べたい! と泣いていた末の弟の顔が脳裏によぎる。食べさせて、あげたかった。こんなことになるのなら、ひき肉も卵も、冷蔵庫に常備しておけばよかった。
後悔しても遅いけれど、買い物に出たっきり帰ってこない姉を、弟たちはどう思うだろう。おなかを空かせていないだろうか。でも、夕飯は冷蔵庫に作りかけがあるから、きっと上の弟がどうにかしてくれると信じたい。信じてる。
――帰りたい。
(もしかしたら、浦島太郎みたいに何年も過ぎちゃってる可能性もあるかもしれないけど……お姉ちゃん、絶対にみんなのところに帰るから!)
「陛下だってコイツのことはきっと認めねぇだろう。そして皇太子である俺も認めねぇなら、この女は『カグヤ』じゃねぇ。そうすると、祭祀礼館には置いておけねぇよなぁ? くくっ、まあ安心しろ、俺がこの女を引き受けてやる」
サクという名前の男の腕の中で、密かに意思を固めているうちに、なんだかおかしな方向に会話が進んでいる気がする。
「えっ」
と声を上げたのは、結月だったのか、何人かいた祭祀官のうちの誰かだったのか。それともイツキという青年だったのだろうか。
必死にもぞもぞと動く結月に仕方ねぇなとため息をついて、男の腕が少しだけ緩む。ぷはっと見上げた結月の間近に、皇太子だという男の綺麗な顔があった。口元はおもしろそうに弧を描き、ん? と首を傾げたその肩口から、月色の長髪がサラリと流れ落ちる。けれど、結月を見遣るその柚葉色の瞳には、なにも感情を見つけることができず、結月はひゅっと息を呑む。
「貴様は、俺が面倒を見てやる」
「へぁ…………?」
どうだ、嬉しいだろう。と言わんばかりに微笑まれ、結月の唇からは間抜けな声だけが空気のように抜けていった。
翌日、結月はまた、昨日と同じ皇太子殿下の部屋――執務室だったらしい――にいた。
昨夜、祭祀官から奪うように結月を囲った皇太子は、毒づきながらも去っていく祭祀官たちを見送ったあと、ペイッと結月を手放した。
そのうえで、「今日はもう遅いから、話は明日にする」と一言。もう結月に興味はありませんとばかりに執務机へと戻っていったのである。
唖然とする結月に手を差し伸べたのは、イツキと呼ばれた黒髪の青年だった。
手を差し伸べた、といっても、本当に手を差し出してくれたわけではない。今夜はもう遅いので部屋を用意します、と言いながらスタスタ室内を横切り扉を開けて待っているイツキを追って、結月はひとりで歩いたのだ。いちおう、部屋を出る前に部屋の主にお辞儀をしたが、目も向けられなかったのが少しだけ悲しかった。
なぜか扉を開けていたイツキがかすかに目を見開いて「あの殿下が……これはおもしろくなりそうだな」と呟いた言葉だけがなにやら不穏だったけれど。
イツキの後を追って案内された部屋は、とても広かった。結月の元いた家も、五人兄弟だということを除いても大きかったが、ここはそれ以上の広さだ。
室内を照らしているのは、壁や天井に備え付けられているランプのようなもの。火が入っているのか、ゆらゆら揺れてとても幻想的だ。
窓は観音開きで、窓枠の上部が半円形になっている。どこか中華な雰囲気を漂わせている。床は無垢の木板を敷き詰めているようで、今すぐ靴を脱ぎ捨てて裸足で歩きたくなってしまう。室内の中央にある背の低い椅子とテーブルは床板に合わせたキャメル色で、その下に敷かれているのは日本で言う花筵というものではなかろうか。
やはり、中華風と日本風が微妙に混ざりあった場所だな、と結月は室内をぐるりと見回して思った。窓際に置かれた猫脚のチェストも中華風だし、置かれたクローゼットは両開きの箪笥に見える。
そして、部屋の奥には、床とほとんど変わらない高さの寝具が置いてある。一応、ベッドのようではあるのだが、豪華な天蓋付きとかそういうこともなく、ただ洗練された置物のように美しくそこに整えられている。
『こちらです。すぐに手伝いのものを寄越しますので。ああ、着替えなどはベッドの脇のクローゼットにありますから。それと、明日は殿下の公務が一段落ついたらお呼びします。迎えを寄越しますのでお越しください。なにか、質問は?』
矢継ぎ早に話される内容をなんとか飲み込んで、「手伝いなんかいりません。できればもう少し狭い部屋だと落ち着くかもしれませんね!」と半ば投げやりな気持ちで告げた結月に、イツキはこれ以上狭い部屋はお客人用にはないのですが、と眉を下げる。困らせてしまったと焦って「わかりましただいじょうぶです!」と叫んだ拍子に、ぐぅぅぅ……と腹が鳴り、そういえば夕飯の支度前だったと、うなだれたのだ。
そして、その腹の音にフッと目元を和らげたイツキが、手伝いの侍女に加えボリュームの抑えた夜食を用意してくれたのには、本当に感謝してもしきれない。
家のことも自分のこともすべてひとりで担ってきた結月に、手伝いの侍女など不要かと思われたが、生活様式がまったく違うためひとりではどうにもできなかった、というのが大きかった。
おなかいっぱい食事をいただき、甲斐甲斐しくお世話をされ、現実への不安とともにすやぁと寝付いて、起きたのはなんとビックリお昼近く。
まさかの寝坊! みんなの朝ごはん! お弁当! と飛び起きて、室内を見回した末に再びベッドへと倒れ込んだのがつい二、三時間ほど前である。
だって、これは壮大な夢で、もしかしたら起きたら現実に帰ってるかもしれない……なんて淡い期待を、すやぁする前に抱いていたのだもの。
心許ない気持ちでため息を吐き、結月は目の前でほかほか湯気を立てるティーカップを持ち上げた。ひと口含めば、爽やかな香りが広がりホッと体から力が抜けた気がした。
その様子を見計らっていたわけではないだろうが、昨夜よりも幾分かやわらいだ表情のイツキが近づいてくる。
「すみません。お呼びしたのに殿下の執務が立て込んでおりまして」
「あ、いえ。だいじょうぶです。こちらこそ、お時間取っていただいてありがとうございます」
慌てて手を振って答えれば、黒髪の青年はまたかすかに笑みを浮かべる。昨夜、祭祀官を締め上げる前に見せていた底のしれないような笑みではなく、なんとなくふんわりとしてしまうような、やわらかい笑みだ。
サラサラの黒髪に、濃い碧色の瞳。切れ長で表情がないと鋭利な印象なのに、引き締まった唇がかすかにでも上向くと、それが崩れてふわふわした印象になる。さらには右目の下に二つ並んだほくろがとても色っぽい。
「殿下の仕事の区切りがつくまでに、ご挨拶させていただきますね。改めまして、俺……いえ、私は皇太子殿下付きの護衛剣士、イツキ・コクウと申します」
「護衛……剣士?」
結月が座らされた、皇太子の執務室にあったあの濃茶色のソファの脇に立ち、胸に手を当てて軽く頭を下げる姿は、まさに漫画で見たような騎士のもの。
ポカンと見やる結月におかしそうに微笑み、イツキはゆっくりと居住まいを正した。彼の腰元で、カチャリと音がするので視線を向ければ、それこそ漫画でしか見たことのないような『剣』が下がっている。
「ああ、これでも護衛ですので、殿下には執務室内での帯剣も許されています。あの…………もしかして、見たことがないのですか?」
不思議そうに問われ、コクコクと結月は頷いた。日本でそんなものを腰からぶら下げていたら、歩いただけで職質され、なおかつ銃刀法違反で即逮捕に違いない。あははは……と乾いた笑いを浮かべ、そっとその凶器から目を逸らす。
さっきから漫画漫画と思っているが、結月自体は漫画を読んだことはない。それよりも家事と育児と勉強が忙しかったからだ。ならばなぜそんな知識があるのかと聞かれれば、弟が読んでいた漫画を合間にチラ見していたからだ、としか言えない。
「さて、なにからお話を伺うべきか……おや」
「ふん、まずは名を聞くべきだろうが」
「殿下、先ほどの書類はもうよろしいのですか?」
「あんなもん、今やることでもねぇだろ」
ぞんざいな口調で吐き捨てて、どかりとソファに座るのは、この国の皇太子殿下とかいうひとである。
月色の長髪は首元で結わえられサラリと背に流されている。柚葉色の瞳をいちど閉じてから、軽く息を吐く。その表情にはわずかに疲労が滲んでいるような。
腕を組み、足を組み、気怠げな様子でイツキの淹れた茶に手を伸ばす姿を、なぜだか見ていられずに、結月はとっさに視線をそらした。
そんな結月を感情の見えない瞳で観察をして、男はフッと口角を上げた。座面に浅く腰掛け、ソファの背もたれに寄りかかって、腕も足も組んでのその笑みは、結月の胸をザワザワとざわめかせて落ち着かない。
(なんだろう……なんかこう……すっっごく、小バカにされてるような気がしてムカつくわね!?)
そう、アレだ。高校のときの同級生とかに似ている。化粧っ気も洒落っ気もなく、ただ、家事と弟たちの面倒と、成績を落とすもんかとがむしゃらに勉強にだけ打ち込んでいた結月を「所帯クセェ。近所のおばちゃんかよ」と笑ったアイツらに。
そんな二、三年前の黒歴史を思い出してしまった結月の、月色の男を見る目に険が宿る。ほんのわずか柚葉色の瞳を見開いて、男はまたクツリと笑った。そうして顎を少しだけ上げると「ほら、早く名乗れ」と促してくるのだ。
「……姫乃結月です」
「ヒメノユヅキ……? そういや、昨夜もそんなこと言ってたな。名前だったのか」
「それは……どこで切るんですか? それともヒメノユヅキさんでひとつのお名前です? 長いですね」
顎に手を当て、疑問を呟くイツキに結月は慌てて手を振った。
「あ、違います! 名前は結月です! 月を結ぶ……結う月、と書いて結月、です。姫乃は家の名前で……!」
「へぇ……姓と名が逆なのか。ユヅキ……月、ねぇ」
なにやら含みのある声で結月を見定めて、月色の男はまた不敵な笑みを口元に浮かべた。すかさず横から「殿下、少しは自重してください」とイツキの声が飛ぶ。
「あーあー。貴様は本当にうるせぇなぁ」
「まったく……いいから、あなたもさっさと名乗ってください」
先に進めないでしょう、と呆れた様子のイツキに嫌そうに目を向けて、男は居住まいを正――す、こともなく、口元の笑みを絶やすこともなく口を開く。
「俺の名は、サク・ツキシロだ。まあ、貴様も昨日聞いていたからわかっているな? 俺はこの国の皇太子だ。……はっ、良かったな。よくわからん祭祀礼館なんぞに連れて行かれず、俺に庇護されて」
どうだ、嬉しいだろう? と言外に問いかけられた気がして結月の口角がガクンと下がる。
(本当、この人やだ。なんでこんなにえらっそうなの!? 皇族……いや、皇子様ってこんなに偉そうなの!? やっぱり漫画は漫画で、優しい皇子様とかいないんだわ!)
そして、結月は気がついてしまった。この男は結月を見る目にやっぱりなんの情も浮かんでいない。昨日、チラリと石を見るようだと思ったのは間違っていなかったらしい。
隣に佇む黒髪の護衛剣士は、それとなく結月を気遣ってくれるというのに、この目の前の男からはなにも感じないのだ。
どんどん結月の機嫌が下降する。早くもとの世界に帰りたいのに。そのために、この国の皇太子だというサクの協力が必要かもしれないのに。その協力を仰ぐどころの話ではない気がする。
「とりあえず、昨夜祭祀官が言っていた『新カグヤ様』とやらは貴女には関係ないと、殿下は判断されています。そのうえで……ユヅキさん。どうしてそんなことになったのか、教えていただけませんか?」
眉を寄せてサクを見つめる結月を見て、深いため息を吐いたのは、傍らに控えていたイツキだった。
「イツキさん……その、信じてもらえるかわからないですが、あの、わたし、別の世界から来たようなんです」
「……はい?」
「あの、その……は、ハンバーグを作りたくて」
「………………は、ハンバーグ?」
そうそうハンバーグ。弟が食べたがって。満月を見ながら目玉焼きを乗せて月見にしてもいいかもなー、って思ったり。――て、ちがう! いや違ってないけどハンバーグはどうでもよかった。
ハンバーグという料理名がちゃんと伝わることに安堵ししつつも、なんでいきなりハンバーグの話をし始めちゃったのかなぁ!? と若干涙目になりながら、結月はこの国に現れたときのことを話した。皇王陛下のところに連れて行かれたことから、皇太子殿下の部屋に来るまでの経緯を。
「なるほど……階段から落ちて。となると殿下、これは――」
「ま、そうだろうな。ただ単純に、現れた場所が悪かっただけだろ……いやだが皇都のほとんどの祭祀官が祭祀場に集まってたのか……? まさか召喚術とか試してねぇだろうな?」
「――――では、やはり殿下が庇護して正解でしたね。祭祀礼館なんぞに連れて行かれるより何倍もマシです」
「だーかーらー。昨日っから俺はそう言ってんだろうが」
「…………いえ、伝わってないと思いますよ」
口元を手で覆い、なにやらブツブツと呟き始めたサクをちらりと見下ろし、イツキが淡々と口を開く。サクの呟きは大半が結月の耳には入ってこなかった。なにかよほどの懸念事項でもあるのだろうか。
よくわからない会話を始めたイツキとサクをきょとんと見つめていた結月を流し見て、黒髪の護衛剣士もまた考え込むように顎に指の背を当てる。
シン、と静まった執務室内の空気は、それとなく張り詰めていた。その空気を壊すようにサクがグシャグシャと自身の月色の髪を片手でかき回す。あっという間に整えられていた髪がボサボサになり、結月は口に含んだ茶を噴き出しそうになる。
「とにかく! 貴様は俺が引き受けた。この城の滞在許可も出してやる。好きに過ごせ。ただし、ぜったいに俺の足だけは引っ張るんじゃねぇぞ!」
俺は皇太子なんだ。それを邪魔するなら容赦はしねぇ。叩き出してやるから覚えとけ。
そんなふうに突き放したように告げられ、結月は手にしていたティーカップを荒々しくソーサーに戻した。カチャン! と硬質な音が響く。
それが、行儀の悪い行為だということは、もとの世界で行儀作法を習ったときに教えてもらっている。
日本で『姫乃』といえば、屈指の名家である。傍系で、姫乃の稼業の役員と秘書として働いている両親はめったに家に帰ってくることはなかったが、学校だけは良いところ――要するに金持ち学校と呼ばれるところに入れられていた。
たとえ、嫌な態度を取る同級生がいようとも、アソコはとりあえず社交界の縮図でもあったのだ。
結月がまだ小さい頃は実家に家事手伝いの使用人も何人もいて、幼い結月や、両親のどちらが親かわからない弟たちの面倒を見てくれていたが、結月が中学に上がる頃にはそれもすべて結月の仕事になった。
子どもが増えるごとに養育費が増え、使用人に支払う給金がキツくなったのだろうとは思うが。それとも数多いる愛人への貢物に浪費されていたのだろうか。それならお互いにどこの誰かもわからない相手との子どもなど作らなければいいのに。そう思わずにはいられなかったが、結月は弟だと送り込まれる子どもたちを放ってはおけなかった。
辛うじて、いちばん年の近い弟の親が父親だということはわかる。彼はあの男にソックリだから。そこから下は母親に似ているような気もするし、父親に似ているような気もした。いちばん下のわがままざかりの弟など、初めて家に来たときはまだ生まれて間もない頃だった。
なんでわたしが同級生に馬鹿にされてまで家事も育児もしなきゃいけないのか。そんなふうに思ったことなど数え切れないほどある。けれど、弟たちのどこかしら自分と似た面影と、唯一の安全な家族として慕ってくる様子に、突き放すことなどできなかったのだ。
――帰りたい。
やはり純粋にそう思う。
右も左もわからない、唯一言葉は通じるけれど生活習慣も違う、知っている人もいないこの世界に勝手に放り出されて、望んでもいないのに『カグヤ』だなんだと持ち上げられて、挙げ句の果てには『足を引っ張るな』と吐き捨てられる。
そんな……そんなこと。我慢できるはずがない。
震えながらティーカップから手を離した結月を、驚いたように見つめる男ふたりを、彼女は自分史上ないほどの勢いで睨みつける。
「ふ……っ、ざけないでくれますか?」
「は? お、おい……」
ガタン、とソファまで音を立てて結月はゆらりと立ち上がった。一瞬、イツキが身構え剣の柄に手を当てるも、戸惑ったように視線を揺らす。
片手で護衛剣士の所作を制した月色の男は、ツカツカと近づいてくる結月を少し戸惑ったように見ているだけだ。
その余裕すらもなんだか悔しくて、カチンとくる。こっちは、こんなに――こんな、に。
「わ、わたしは、勝手にこんなところに放り出されて、右も左もわからなくて! けれど、必死に状況をどうにかしたいと思ってるのに! 『足を引っ張るな』ですって!? ふざけんじゃないわよ! あ、あなたみたいな人に『貴様』呼ばわりされる筋合いありません! 皇太子だからなんだっていうのよ! 知らないわよそんなこと! ここがどこだかも知らないし、もう、わたし、なんにもわからない!」
いちど口を開いたら止まらなくなり、結月は言いたいことをぜんぶ言ってやるつもりでサクの座っているソファの背もたれを叩く。
「おい、ちょっと待て。落ち着け」
知らない! 馬鹿! そう詰りながら、立ち上がって腕を伸ばしてくるサクの、どこか中華風な衣装の胸元を拳で叩いた。
見た目とは裏腹に、意外と筋肉があって引き締まっている。
ドン、と肋骨を通して響く音は決して軽くはないのに、この男にはなにも響いた様子がなく、それすらも今の結月には癪にさわる。
「わたしはもとの世界に帰りたい! かっ、勝手にこんなところに連れてこられて、こんな暴言吐かれて、冗談じゃないわ! わ、わたしにだって……っ、か、家族が、いるんだ、から……っ!」
ジワリと、涙が滲んだ。いやだ、泣きたくない。こんなところで、こんな男の前で、ぜったいに泣きたくないのに。それでも涙が止まらない。
昨夜は混乱していた。一日経った今は絶望しかない。だって昨夜のあのときまでは結月はかわいい弟のわがままを受け入れて、騒がしくも温かい姉弟だけの世界で過ごしていたのだから。
それが急に無くなって、『引き受けた』『庇護する』といった男から突き放され、もうどうしていいのかわからない。
耐えきれなくてボロボロ泣き出す結月に驚いた皇太子が、胸を叩く結月をそっと腕の中に閉じ込めた。そのまま、顔を胸元に押し付けるように後頭部に手を回す。あふれる涙が、サクの衣装に染み込んで、濃く染め上げた。戸惑ったように、男が手を動かした。結月の肩につかないほどのショートヘアを優しい手つきで、少したどたどしく撫でてくる。
「あー……わ、悪かった。別に、暴言のつもりでは……いや、そうだな。お前……いや、あなた、は、勝手に呼び出されたんだものな……すまないな」
ぎこちなく頭を撫でる手のひらが温かく、囲われた腕が力強くて、結月の涙はどんどん流れ落ちてしまう。
それから、どれくらい時が過ぎたのかわからない。さんざん泣いて、もう涙も出尽くして、ヒックヒックとしゃくり上げる声が止むまで、サクは結月を抱きしめていた。
「落ち着いたか?」
しゃっくりもおさまった頃に、上から降ってきた意外にも優しい声音に、結月はコクリと頷いた。ぼんやりした頭でスン、と鼻をすすり、それからハッとする。いつの間にか体重を預けしまった男の腕から慌てて抜け出そうとするが、なぜか背に回った腕が離れない。
「え、あの……ご、ごめんなさい! わたし……っ」
――恥ずかしい!
また昨夜のように抱きしめられてしまった。結月は(昨夜のことは置いておいて)今までいちども男の人に抱きしめられたことがない。すぐ下の弟にすがりつかれたことはあるが、あれは男じゃない。家族だ。なんなら抱きしめられたのではなく「姉ちゃん、どこにも行くなよ」と高校生にもなってなんだか不安そうだったから抱きしめて頭を撫でてあげただけで……。
(あ、あたま……? そういえば、頭も撫でられた……! なんか昨日とちがった!)
ど、どうしたらいい。どうすればいい。先ほどとは違うパニック状態で、再度男の胸を押すがやはりビクともしない。
あーでもない、こーでもないと考えながら、ジタバタする結月を腕の中に捕らえたまま、サクはさらに腕に力を込めた。
「ユヅキ」
信じられないほど優しく名を呼ばれ、もがいていた結月の肩がピクリと震える。緩んだ抵抗にクツリと笑うと、サクは結月の頬に手を滑らせた。涙で濡れてヒリつく頬を、ゆっくりと撫でられる。親指が目の下に当てられ、とっさに片目を閉じた瞬間、残っていた水滴を払われた。
「スッキリしたか? おま……あー、いや。あ、あなた、は、俺がちゃんと庇護する。元の世界に帰る手段も、ちゃんと探してやる。衣食住すべて俺が保証してやる、から。だから、その……たのむから、あんまり泣くんじゃねぇぞ?」
わかったか? と念押しするサクの耳が、ほんの少し赤くなっていることに結月は気がついた。気がついて、しまった。気づいてしまったら、ジワジワと胸の奥が落ち着かなく騒ぎ始める。
「……その、だな。お、俺が悪かった。おま……いや、あ、あなた、を泣かせるつもりはなくて、だな……」
先ほどまでの不遜で横柄で堂々とした態度は微塵もなく、ただ、しどろもどろになって結月の機嫌を取ろうとしている。
言い難そうに「あなた」と発音する皇太子にどうしようもなく笑いがこみ上げて、結月はサクを見上げたままクスリと笑みを浮かべた。
真っ赤な目で、鼻も赤くて、けれど腕の中でへにゃりと笑み崩れるその表情に、男がなにを思うかなど結月には知る由もない。
真顔になったサクの柚葉色の瞳に常には宿らない熱が灯ったのを、茶を淹れ直していたイツキだけが下から見上げていた。
◇◇◇ ◇◇◇
「ユヅキさん」
ルナティリス月皇国の皇都中央都市にある皇王城は木造建築の横に広い建物だ。基本的には二階建て。王城中央には四階建ての塔があり、屋根瓦が月明かりに燦然と輝く姿は圧巻だ。
その四階建ての塔は、政治の中心となっており、政務官や執務官が上下を行ったり来たりしている。皇王への謁見の間や、公務を取り仕切る各皇子たちの執務室、来賓のための客間も、この建物にある。
そして、東西に広がる建物は、主に皇族や祭祀を司る祭祀官の居住区画となっている。東翼の一画から少し北側にあるのは祭祀官が祈りを捧げる簡易な祭祀場となっており、姫乃結月が異世界から現れたのもここだった。
西翼は東よりも広大で、皇王や皇太子、その他数名いる皇子の私室が点在している。
北の棟もあるが、そちらには主に皇王の配偶者である数多の姫、それから皇女が生活をしているという。人数が多いため、広大な敷地を擁しているとのこと。中央塔よりも奥に位置しているのは、男どもが入り込まないように……というだけではなく、入れられている女性たちが逃げ出さないように、という監視の面もあるらしい。いわゆる後宮というものだ。歴史の教科書でしか聞いたことがない。
その中でも西翼の中央塔に近い、皇太子の私室がある棟に、結月は部屋を与えられていた。
結月のように異世界から迷い込む人間は十数年にひとりはいるようで、この国では『迷い人』と呼ぶそうだ。迷い人を見つけたら、丁重にもてなし保護すること。それが、この国でのルールなのだとか。
そうして与えられた結月の待遇は、迷い人としては上の上だそうで。ゆえに変な勘ぐりなどをされ、皇太子棟を一歩でも出ればほかの皇子付きの女官や侍女にヒソヒソと嫌味を言われてしまう。いまのところ実害がないから放っておいてはいるのだけれど。
この世界はアストルディアという名前らしい。東西北に大陸を擁し、南に五十を超える島々が連立する異世界。その中でも東の大陸にある大国が、このルナティリス月皇国だという。この三ヶ月の間にイツキや皇太子棟の使用人らが結月にちょくちょくこの世界のことを教えてくれた。
ちなみに、八百万の国からやってきた結月には馴染みがなかったがこの世界には信仰する神がいるとのこと。それぞれ大陸で各三柱の主神を崇め奉り、その恩恵を得ているらしい。それに加え一柱の副主神、多数の複神、さらには一柱の闇神が存在しているとか。このルナティリス月皇国で信仰しているのは月の女神セレナリア。結月が最初に現れた場所に祀られていた像が、セレナリア神の摸しなのだと。
なお、『カグヤ』というのは、そのセレナリアから加護を受け、『月の力』というのを身に宿した特別な女性のことを言う、この国で唯一無二の存在のことだそうだ。それを聞いて結月は心からホッとした。なにせ、この世界の人間は多かれ少なかれ生命維持のために魔力を持っているらしいが、異世界から来た結月にはこれっぽっちもそんなものが存在しないからだ。この世界で魔力なしは体が弱いということだが、とくに今のところ結月に問題はない。
結月がこの異世界に飛ばされてから、すでに三ヶ月が経過していた。
はじめは慣れないと思っていたこの世界の習慣も、三ヶ月も経てばそれなりに身に馴染んでくる。早く実家に帰りたいという思いは変わらないけれど、皇太子棟の官吏や女官、結月付きの侍女はとても優しくて、うっかり『帰りたい』という気持ちを忘れてしまう日が何回かあった。
きっとこのまま年月を重ねれば、もっと思い出さなくなっていくのだろう。原因はきっと、優しいみんなのことだけではないはずで……。
そんな皇太子棟の東周りの廻廊を、ヒタヒタと歩いているときだった。後ろから呼ばれ、結月は振り向いた。
「こんにちは。イツキさん。珍しいですね、この時間にこっちの棟にいるなんて」
声から予想したとおり、そこには少しだけ表情を緩めた黒髪の青年が立っている。出会った初日には気にする余裕がなかったが、イツキ・コクウと名乗った青年は片耳に青い房のついた耳飾りをしていた。それが、首を傾げる際にシャラリと揺れる。
ところで、彼は皇太子の護衛剣士という立場だそうだが、主を放ってこんなところまで来て良いのだろうか。
「そう……ですね。ちょっと、ユヅキさんに会いたくて、抜けてきてしまいました。でも、たしかにあまり離れてはいられないんですよね。ですので、もしも緊急の用事がなければ、俺と一緒に棟から出てくれませんか?」
『会いたい』などと言われて、結月は目を瞬かせた。目の前で、ふんわり笑っている男は、どうにも剣士という感じがしない。外の噂では、決してこんな笑顔を見せるような人ではないらしいのだが。
そもそもこの男には、なにやら心に決めた人がいるようなのだ。それなのにこの結月に対する無防備さ。併せて結月が『男を手玉に取る性悪』と言われているのも、半分はこの男のせいで間違いないと断言してもいいだろう。
「……お客様として置いてもらってるのに、緊急の用事なんかあるわけないじゃないですか」
ため息を付きながら、結月はそのまま廻廊から地面へと降りた。後ろからイツキも静かについてくる。
「おや。お客様としてお迎えしているのに、あなたは料理はするわ、掃除も洗濯もするわ、なんなら使用人の子どもたちのお守りもするわ、と大変精力的だそうじゃないですか。俺も見習えって殿下に怒られたんですよね。理不尽ですね」
かすかに唇を笑みの形に歪ませながら、イツキが最後にボソリと愚痴を吐く。
(それをわたしに言われても……いや待ってこれ嫌味かしら!?)
あははと乾いた笑いを浮かべながら、結月はイツキとともに皇太子棟にある門をくぐった。途端に、道をゆく剣士や他棟の使用人の視線が突き刺さる。
ヒソヒソとなにやらお互いに内緒話もしているようだが、微妙に結月の耳には入ってこないのが、陰湿で頭にくる。用があるなら正面から向かってくればいいのに。
まあ、そうできない理由が、いま結月の後ろに立っているのだから、仕方のないことかもしれないが。
「さて、ではいつものように参りますか」
「わかりました。場所も、いつものところ……ですよね?」
そうですよ、とニッコリと笑うイツキが、結月に手を差し出してくる。「足元にお気をつけください、ユヅキ様」と慇懃に扱われ、ますます周囲の視線は鋭くなる。
いまのイツキの笑顔は、普段笑うとふんわりするような笑みではない。この世界に落ちた初日に、ユヅキが頭のメモ帳にしっかり書き残した、逆らっちゃいけない笑顔である。
その顔で周囲を見回せば、蜘蛛の子を散らすように不躾な視線を投げていた者たちが逃げていった。
「まったく……殿下を蹴落としたい連中が多すぎますね」
「いえ、アレたぶんわたしに難癖つけたいだけですよ……」
「そのうえで殿下を蹴落としたいんでしょうよ」
「……イツキさんて、殿下のこと結構好きですよね?」
皇太子棟から、大きく塀を周り中央塔までの道をゆく。その道中も、イツキにエスコートされるように、手を握られたままだ。
黒髪の護衛剣士は、結月のセリフに冗談じゃないとでも言うかのごとく、周囲に振りまいていた底の知れない笑みを向けてきた。ゾクリ、と思わず背筋に悪寒が走る。ゴメンナサイと小声で呟いて、決してそちらに視線を向けないよう、ひたすらに前だけを向いて歩を進める。こわい。
不用意な発言でピリピリしたまま、中央塔にある、皇太子殿下の執務室までたどり着いた。室内に招かれ、茶の支度をしてきますとイツキが出ていくと、緊張から解き放たれたせいでひどく疲れてしまった。
(さて、あの俺様皇太子殿下はどこに――)
三ヶ月前訪れてから、ほとんど変わらない室内をキョロ、と見回す。大きな窓の前にある執務机に人の姿はない。左側のアイボリーの椅子にもとうぜん人影がないのなら、もう右側のソファしかないだろう。ちなみに、少しだけ変わったところがある。アイボリーの椅子がこの部屋にもう一脚、増えている。
足音を殺しながら右側の来客用ソファまで向かえば、案の定、月色の髪がソファから流れ落ち床に付きそうになっている。その髪をそっと体の上に戻してやり、結月は穏やかな寝息を立てる男の頬に指先を押し当てた。肉のない、スッキリとした男性の頬だ。シミもシワも無く、陶器のように滑らかで、思わずため息が出そうになる。
ツツ……と上に指を滑らせ、こんどは目の下に触れる。滑らかな肌にそぐわないうっすらとしたクマが浮かんでいる。眉もまつ毛も月色で、肌も白いせいで、薄いクマも余計に目立って見える。
「お疲れなんですね、殿下」
イツキが結月を呼んだのはこのためだ。最初は、大泣きした十日後のことだった。まだ、慣れない皇国生活に四苦八苦していた頃、イツキから中央塔の執務室に来てほしいと呼び出しを受けた。
なんの呼び出しだろうと皇太子棟の使用人を伴って訪ねてみれば、『殿下の休憩に付き合ってください』と真顔で懇願されたのだ。
その真顔が怖くてコクコク頷いてから、七日に一度呼び出されるようになり、それが五日に一度。どんどん頻度が高くなり、いまでは三日に一度のペースで呼び出されている。
そういえば、使用人ではなくイツキが自ら迎えに来るようになったのは、ちょうど五日に一度のペースになってからだった。今日のような昼前の時間帯というのはとても珍しいが。
はじめは、休憩に付き合うといってもなにをしていいのかわからず、ただお茶を飲んでいただけだった。それから、ポツポツとお互いのことを話すようになり、最近ではこのようにずいぶんと無防備な姿を見せるようになった。
「殿下、起きてください。起きないと帰っちゃいますよ……きゃっ」
苦笑しながら、耳元で囁いて、それでも起きる気配のない男を見つめて立ち上がる。くるりとソファに背を向けた瞬間、後ろから伸びてきた手に腰を拐われ、結月はソファへと座らされた。その膝の上に重みが加わり、立ち上がることができなくなる。ぎゅっと腰に巻き付くように腕を回され、下腹部に温かな吐息が当たる。
結月がせっかく戻してやった月色の髪が、床に溢れて渦を巻いた。
「ちょ、殿下……!」
結月の膝に肩まで乗り上げて、寝ていたはずのサクが結月にしがみついていた。
「膝枕ならいくらでもしてあげますから! お、お腹に顔をうずめるのはやめてくださいって、何度も言って……っ、ちょ、あっ、殿下!」
「……………………サク」
結月の腹に顔をうずめたまま、不機嫌そうな低い声がくぐもった状態で耳に届く。けれど、そこで話されると、熱い吐息が腹に当たって落ち着かなくなるのだ。あと、運動量が少し落ちたせいで、腹周りを気にする乙女な心も結月にはある。
「や、っちょっと……いい加減にしてください、サク様!」
「”様”はいらねぇっつってんだろ」
「そ、そんなわけにはいかないでしょ!?」
本当に、この皇太子殿下は見た目を裏切る口の悪さだ。喋らないでそこに立っていれば完璧な王子様に見えるのに!
「……なんで、帰ろうとしてんだよ。おまえはまだ来たばっかりだろ」
床に垂れ下がった月色の髪をむぎゅっと掴んでひっぱった結月を、サクが拗ねたように見上げてくる。それでようやく下腹部への顔埋めが止まり、結月は安堵のために大きく息をついた。
「……サク様が寝てるからですよ」
「なんでだよ。起こすもんだろ」
「お、起こしましたよね?」
「あ? なに言ってんだ。ああいうときに起こすのは、キスだって相場が決まってんだろ?」
「は、い? き……? キ、ス……っ!?」
叫び出そうとした口をとっさに押さえる結月を、サクが横目で見上げている。その柚葉色の視線にはしっかりと拗ねた色が宿っていて、はじめて会ったときの温度の無さが嘘のようだ。
モゾリとサクが身動ぎをし、結月の膝の上で仰向けになった。
「しないのか?」
なにを、と問いかける結月の唇を、サクの親指がそっとなぞる。そこからゾワッと広がった痺れに驚いて、結月は目を見開いた。
「そ、いうのは、好きな人とするもんなんです」
「ふーん。なら、問題ないだろ?」
「いえ、問題ありまくりですよね? そもそも付き合ってない人となんてわたし無理だし……」
「……へぇ。おまえは付き合ってから、経験したいタイプ?」
キスも、ハグも、それ以上も? ニッと笑うサクの、掠れた声が耳に残る。どうなんだよ、と催促されて、結月は熱い頬のままコクリと頷いた。
「そうか。なら、結婚しても? 子どもができたらどうするんだ?」
待って。いったいこれはなんの質問なの。さっきっから、サクの親指はずっと結月の唇を撫でているし、ときおり頬や耳をくすぐってくるし。
結月を見つめる柚葉色の瞳にあった拗ねた色は鳴りを潜め、代わりになにか熾火のようなものが宿っている気がする。
ん? となんだか甘いような掠れた声音で問いかけられ、結月は魅入られたようにその柚葉色を見つめた。
「そりゃ、結婚しても、子どもができても、キスはしたい、と、思いますよ。たぶん。むしろ、それでしなくなったら、寂しくない……? 好きだからしたいし、好きだから、して欲しいんじゃ、ないの……?」
結月は男の人と付き合ったことがないからわからない。けれど、わからないなりにそんなふうに思う。ただ……結月は本当に好きな人とじゃないとそんなことはできないだろうな、とも思う。だって自分は両親とは違う。愛人を何人も作って、子どもができたら自分たちの子どもに世話をさせて、そしてまた別の愛人との逢瀬を楽しむ。そんな不誠実なこと、結月にはできない。……ああ、でも、そこに――”愛”はあったんだろうか。
だから――わからない。だからこそ、結月にはわからない。
(好きって、どういうことなんだろう……)
誰かを愛するって、どういう気持ち?
弟たちを想う気持ちとはきっと、違うはず。たしかに愛情はあるけれど、それは家族愛であって恋愛ではない。
ふと、高校の同級生を思い出し、アレはぜったいあり得ないと胸中で舌を出す。なんなら、親指を立てて下に向けてもいい。アレはぜったいにあり得ない。
ならば、イツキはどうか。いや、ないな、とこちらもすぐさま内心で首を振る。別にイツキのことは嫌いではない。むしろ好きな部類だ。けれどイツキとキスをしたいとは微塵も思えない。むしろあの人には、想い人と幸せになってほしいとさえ思う。
ならば――と、結月は思考の海から現実へと帰ってきた。目の前には熱を灯した柚葉色。この人との、キス、は――。
頬を撫でていた手のひらが後頭部に回り、グッと引き寄せられる。目の前で、サクがわずかに上半身を起こした。
「ぁ……」
掠めるように奪われた唇に淡く熱が宿る。呆然とサクを見つめていた結月が、ぶわりと顔を真っ赤にする。
(いま――っ、き、キス……っ)
「好きで付き合ってないとできないんじゃ、なかったのかよ」
不意打ちのように結月の唇を奪った男がクスリと笑った。皮肉な笑みでも、不敵な笑みでもない、あの日泣きじゃくる結月を宥めてくれた優しい声色のような、そんな笑み。
――ドクンと心臓が高鳴った。
(ど、しよ……う)
どうしよう。どうしたらいいの。なんで、わたし。わたし、もしかして……。つい今しがた、”好き”がわからないと自問したばかりだというのに。
どうしたらいいかわからない。顔が熱いくらい真っ赤な気がする。逃げたい。今すぐここから逃げ出したい。
サクの顔を見ていられず、彼が上半身を起こしたのを幸いと身を捩り、結月はソファのアームレストへしがみつく。けれど、それはどこまでもサクの予想通りだったようで。
背後から大きな体を寄せられてしまい、結月はピクリと肩をはねさせた。
「結月……こっち向けよ、なぁ、結月」
ふるふると首を振る。この三ヶ月で肩を過ぎるくらいまでに伸びた栗色の髪がふわふわと踊る。それを指に巻きつけて、サクがクイッと引っ張ってくる。痛くはない。痛みを与えない絶妙な力加減だ。逆に触れられた髪からゾクリと全身に痺れが走る。髪の毛に感覚など、ないはずなのに。
いま、後ろを向いたら、結月がどんな顔をしているのか、この男にバレてしまう。
けれど、サクはとても忍耐強かった。頑なな結月の態度すらも楽しむように、いつまでも彼女の髪を弄んでいる。
髪を撫で、指に巻きつけ引っ張って、ときおり首筋に触れて、熱い耳へ口づけを落とす。
「も、や……! サク……っ」
耳の縁を唇が辿るに至って、耐えきれないと結月が思わず振り仰げば、我が意を得たりとばかりに笑みを深くするサクが小憎らしい。
「結月……嫌だったか?」
耳に吹き込むようにサクが問いかける。真っ赤に染まった頬にサクの唇が押し当てられる。チュ、という音が聞こえてますます結月の頬に熱がこもる。
その悪循環でもう、結月のキャパシティはオーバー気味だ。ダメ押しのように「なぁ」と甘く囁かれ、結月はとうとう小さく首を振った。
「ぃ、や……じゃ、ない」
小さく小さく呟いて、潤んだ瞳で覆いかぶさる男を横目で見上げた。嫌じゃ、なかった。むしろ、嬉しい気持ちが勝っていた。こんな感情、結月は知らない。知らない――と、思っていたかった。
かすかに息を呑む音が聞こえ、すぐに頤に指がかかる。
「んっ……ふ、んんーっ」
ちゅ、ちゅ、と啄むようなキスをされ、結月はそっと目を閉じた。受け入れるように上を向き、けれど苦しくなって、口を開けてしまう。
そこにすぐさま入り込んだのは、サクの舌だ。探るように深く深く口付けられ、息継ぎのために離れてもまた、塞がれる。
何度も何度も貪られ、ようやくサクが離れた頃には、結月はくったりとソファに身を投げだしていた。
「結月……好きだ。愛してる」
頬に、額に、顎先に……顔中に優しいキスの雨を降らせながら、サクが囁く。
ホロリと、結月の瞳から、透明な雫が溢れて滑り落ちていく。止まることのないそれを何度も唇で受け止めながら、サクはギュウと結月を抱きしめる。
「好きだよ。結月。…………だから、帰らないでくれ」
このまま、俺のそばにいろ。優しい声音で傲慢に囁くけれど、見上げた柚葉色にいつもの自信あふれるものはどこにも見当たらない。不似合いなほどに不安を色濃く乗せて、それでも優しい口づけを降らす。それなのに、逃さないとばかりに腕は結月をキツく抱きしめてきて、結月はふふっと笑ってしまった。
(おかしな、人。強引で、傲慢で、横柄で……それなのに優しくて忍耐強くて、でも、寂しがりやで……ああ、もうどうしよう)
脳裏で、上の弟から下の弟までの顔が順繰りに巡っていった。
ラノベや漫画が好きで少し寂しがりやのいちばん上の弟。高校も二年生になったのだから、もしかしたら彼女ができていたかもしれない。
中学二年生になった次の弟。最近は反抗期なのかあまり口を利いてくれなかったけれど、それでも優しい子だって、結月は知っている。
小学校三年生の三男は、元気いっぱいのやんちゃな子。姉がいなくてもちゃんと宿題をやってから遊びに行ってくれていると嬉しいけれど。
そして、十四歳も年下の、今年、保育園の年長さんに上がった四男。お迎えがお母さんじゃなくてお姉ちゃんで、園の子からいろいろ言われてずっと不安だったのを知っている。だけど、どうにもしてあげられなかった。いっぱい抱きしめてあげるしかできなかった。だから、ワガママを言いたかったんだよね。ハンバーグ、作ってあげられなくて、ごめんね。
――お姉ちゃん、初めてワガママを言ってもいいかなぁ?
(みんな、ごめんね。わたし……帰れない。帰らない。だって、わたし、この人が――)
「好き……」
密やかに零れ出た想いは、本当にささやかな声音だったが、それでも結月に口づけを落とすサクにはちゃんと届いたらしい。
驚いたように動きを止める月色の人を自分からぎゅうっと抱きしめて、結月はひっぱった。ほんのわずか体制を崩した男に自らも唇を押し付けて、結月はふんわりと微笑んだ。
それで、こんどはちゃんと言葉にする。だって、結月はどうしても手放したくない人を、見つけてしまったから。たった一度のワガママをどうしても通したくなった人を見つけてしまったから。
「好き、サク。好きよ。わたし……帰らないわ」
「ゆづ、き……!」
再び塞がれた唇は、先ほどよりもずっとずっと熱かった。
◇◇◇ ◇◇◇
クタリと身を預けてくる愛しい重みを、サクは大事そうに抱えた。すやすやと眠る彼女は本当にかわいい。口づけのしすぎでぷっくりと腫れた唇が、やたらと艶めかしい。その真っ赤な果実を指先で撫で、むずがるように眉を寄せる結月にふと笑みが溢れる。
まさか、おのれがここまでこの女に執着するとは思わなかった。
はじめて彼女に会ったとき、ずいぶんと洒落っ気のない女を祭祀官は連れてきたもんだと思った。肩に付くか付かないかという短さの栗色の髪。ふわふわとしているが、手入れはされていないようでパサついていた。化粧っ気のないあどけない素顔。栗色のぱっちりとした大きな瞳。どんな子どもを連れてきたんだと思ったが、体の発育は大人に近いようで、そのアンバランスさが気になった。実際、成人もした立派な大人だったが。
また祭祀官から良からぬ女を送り込まれるのかと思いきや、彼女はどうやら迷い人のようで、保護対象だった。このままだと祭祀官の株上げのために利用されるのが目に見えているし、いい加減、祭祀礼館に力をつけさせるべきではないという打算から引き取った女だった。
それなのに、イツキはなにを思ったか、サクの休憩のたびに結月を執務室へと送り込む始末。いちどなに考えてんだと問い詰めたら『殿下はあの方がお気に召したようなので』とかのうのうと抜かしやがる。
要するに、ここ最近結月がサクの部屋に送り込まれていたのは、見合いの一環だったと言っても過言ではない。
(そしてそれに、俺はまんまとハマったわけだが……でも、まあ、悪くはねぇな)
ここ三ヶ月ですっかり綺麗になった結月の髪を、そっと撫でる。小さくて軽いこの存在を、サクはこのままずっと、腕の中に閉じ込めていたくなる。
(さっきの結月の『好き』はマズかったな……理性が利かなくなりやがる)
真っ赤な頬も、潤んだ瞳も、上目遣いもどうにもクるものがあるのに、安心したようにふんわり笑っての『好き』はもう、サクの心臓のど真ん中を剣でグサグサ刺されるようなかわいさだった。
どんなに横暴なことを言っても、不遜な態度をとっても、結月に窘められたらすぐにでも従ってしまいたくなるほどに、サクは結月に溺れていた。
「おや、ユヅキさんは寝てしまったんですか? お疲れだったんですねぇ」
「……イツキ、護衛のテメェがどこほっつき歩いてたんだ」
「いやですね。お茶の支度をしていたんですよ」
「ずいぶんと長え支度だなテメェ」
「俺のことも『貴様』はやめてくださいと言いましたが、『テメェ』もどうかと思うんですよね、殿下」
シレッと返してくる男にサクは鋭い視線を向け、けれどそんな睨みが効く相手ではないと諦めて息を吐く。
「ほんと、いい性格してるなお前は」
「……ありがとうございます。で、首尾はうまくいったようでなによりです。あとはあの件を片付けて……それから、お父上を言いくるめませんとね」
「言いくるめ……って、お前はいったいどこに仕えてんだよ」
「俺はずっと、サク様に仕えています」
迷うこともなく、きっぱり言い切ったイツキを見据え、サクはニッと口端を片方だけ持ち上げた。
「はっ、よく言うぜ。アレのために、俺に結月を宛がおうとしたくせによぉ」
「まあ、否定はしませんが……結局サク様は落ちたじゃないですか。ユヅキ様に」
ああもう、ほんとお前やだ。そう言って視線を逸らすサクを見つめ、イツキはふわりと笑った。
用意してきた茶器に、茶を注ぎ、サクの前へ差し出す。その際にチラリと眠る結月を見遣り、小さくため息を吐いた
「……嫌われないようにほどほどにしてくださいよ」
「あーうるせぇ。……けどまあ、今回は感謝してやる」
シッシッと手を振る主に一礼をすると、イツキはまた執務室を出ていった。だから、護衛剣士が外に出ていってどうするんだと詰りたいが、いま腕の中にある温もりを、サクはまだ手放したくはなかった。
どうせ、外で待機しているのなら、仕事を再開するまでもうしばらく、この柔らかな温かさを堪能しようと、結月を抱く腕に力を込める。
――ぜったいに、離さない。
そう、誓って。
◇◇◇ ◇◇◇
「あの、いまなんとおっしゃいました?」
「ですから、晴れてサク様と恋人同士になられたユヅキ様にお願いです。あなたと私、とても気が合うと思うんですよ。ですので、サク様の婚約破棄に、ぜひともご協力をお願いします」
ふんわりとした笑顔で爆弾を落としたイツキを見つめていた結月は、飲もうと持ち上げたティーカップがどんどん傾いていっていることに気が付かなかった。
ハシッと彼女の手首を捕まえたのは、いつもは対面でカップを傾けているはずの皇太子殿下。先日の告白大会以降、サクの座る位置が対面から隣に代わり、ついには腰に腕を回してティータイムを過ごすようになってしまった。とても近い。落ち着かない。
それよりも、零れそうになったティーカップを、結月から取り上げソーサーに戻すサクは先日からとても甲斐甲斐しい。今も目が合えば、包み込むように笑い顔を返してくる。それにふにゃりと微笑みそうになり、結月は慌てて頭を振った。
「ま、待ってください……こ、婚約者? え、お相手がいたんですか!? サク様……っ」
「結月、これは北の大陸の菓子だそうだ。食ってみるか?」
「え、あ……おいしそう…………って、そうじゃないです! 相手がいるのにわたしにす、す、好き、とか言ったんです!?」
どうしよう。婚約者がいるなんて知らなかった。そうしたら、告白なんてしなかったのに……!
思わず涙目になる結月を見つめ、サクは大きくため息を吐く。それにビクリと肩を揺らす結月をそっと抱きしめて、彼はふわふわの髪を弄び始めた。
「婚約は、俺が二十歳のときに父皇が勝手に決めたんだ。相手はその時十歳のガキだぞ。俺が了承してるわけねぇだろ。ガキに興味なんかねぇよ。それにアレは――」
「俺のなので、アレとか言わないでください。アオイのなにが不満なんですか。俺はあなたがアオイと婚約してることに腹しか立ちませんが」
「つっても、お前……六年前はまだアレと会ったことすらねぇだろうが。せいぜいが一年と少し前だろ?」
「……しかたないじゃないですか。出会ってしまったんですから。殿下がさっさと婚約を破棄してくれればなにも問題はなかったんですよ」
「それが簡単にできたらこんなに苦労はしてねぇんだよ」
腹立たしげなイツキの言葉に、サクがハァとまたため息を吐く。そんなにため息ばかり吐いたら幸せが逃げてしまうと心配になるが、それよりも婚約だ。婚約者だ。
まさか異世界トリップの末に王道の婚約破棄まで体験させられるとは思わなかった。それも、婚約破棄をされる側ではなく、する側で……される側のお相手が婚約破棄の協力を求めてきていて……。いや、おかしいわね。なんなのそれは。
「まあ、そういうことですので、ユヅキ様。サク様と円満にご結婚なさるために、ぜひともサク様の婚約破棄にご協力ください。ええ、俺のためにも、ぜひ」
「イツキさんのため……」
「はい。なにせ相手は皇王陛下と祭祀礼館。この国の二大権力が相手ですから。いろいろ準備して、じわじわ追い詰めて、そのうえで瓦解させるくらいの気持ちで、お願いします。ええ、是非とも俺とサク様のために」
「俺はオマケか」
ニッコリといい笑顔のイツキに若干引きつつも、結月は大きく頷いた。それが、イツキのためなら、そもそもが結月とサクのためでもあるのだから。
わかりました! と意気込む結月の握りこぶしの指を、一本づつほぐしながら、サクが結月をさらに腕の中へと閉じ込める。
「なぁ、結月。今夜はいっしょに皇太子棟の中庭で夕飯を食べよう」
「な、中庭、で?」
チュっとほぐした指の先にゆっくりと口づけながら、サクが結月を見て甘く微笑む。
「ああ、今日は満月なんだ。俺はおまえとともにに、この世界の満月を見たい」
「サク、様……」
「きっと、今日も月が綺麗だと思う。おまえといっしょに眺めたら、きっと、もっと」
再度指先に口づけを落とし、サクは結月の伸びた髪を耳にかけた。
まるで、もとの世界の文豪のような台詞に、結月の顔が真っ赤になった。その熟れた頬に口づけを落とし、月色の男は幸せそうに微笑むのだ。
(ああ、もう、敵わない)
きっと今日の夜、結月も満月を見ながら伝えるのだろう。
――わたしもあなたを愛しています、と。
サクちゃんがどこで結月を「迷い人」だと気づいたかとか、「お姉ちゃん」発言のなにが面白かったのかとか他にもいろいろ……いろいろすっ飛ばしちゃったところある…!
あと、サクちゃん(ちゃん言うな)が振り回されるところとか結月に従順に躾けられるところとか入れたかった…