91.落ちる涙は安堵か、悲しみか
「ギ、ィ?」
蝶のような羽が、突如としてずるりと斜め落ちる。
「ギィイイイイイイッ!!」
奇声が辺りに反響し、思わず耳を塞いだ。
「アリス!!」
耳を塞いでいたのにも関わらず、聞こえたその声に驚き、顔を上げる。
(この、声は)
それはここで、聞こえるはずのない声だった。
「グレン様···!」
「怪我は!?」
そう叫んでこちらへと駆けてくるグレン様を見た瞬間、私の目には自然と涙が浮かんできた。
「っ、」
反射的に彼に手を伸ばそうとして、急に目の前が黒に染まる。それが何を示すのか、すぐには理解できなくて。
すぐ側から聞こえてくる心音で、抱きしめられているのだとようやく分かった時に、今度は別の意味で体が動かなくなった。
だが、瞬時に別のことが頭を過ぎる。
「グレン様···!セリンダさんと、グロリアーナが···!」
その言葉にわずかに目線を動かした彼が、ポツリと呟く。
「あの女に、君は殺されかけたんだろう?」
「っ···!」
目線を上げた私の頬に、グレン様の手が触れる。アメジストとオニキスを混ぜたような紫苑の瞳が、私を射抜いた。
「ここに来るまで、魔物寄せの香水の匂いがしていた。外にも同じものが撒かれ、風により散った匂いのせいで砦にいた魔物がこちらに移動してきたんだ。あの女が使用した毒のせいで」
「そ、れは、」
その言葉は、どこまでも冷え切っていた。いつもの彼から感じる温かさや、優しさはどこにも感じられない。
「君のことを邪魔だと言って罵り、挙げ句殺そうとした。なのになぜあの女を気に掛ける?」
「っーーー」
彼から感じたのはとても静かなーーーだが、どこまでも深い怒り。
「アリス。俺はたとえ君が許せと言ってもあの女を許すつもりは一切無いし、助けるつもりもない」
そう言い切った彼に、一切の迷いはなかった。
「···悪行を行ったのであれば、その罪を明白にした上で、正式な形で罰を望む私は······甘い、のでしょうか」
(···心の何処かでは、分かっていたわ)
自分の考えが甘い事。
今の自分の立場を考えれば、正式な形で罰を与えることが、どれだけ難しいのかと言うことも。
(···それにもう、グロリアーナは、)
胸に開けられた、大きな穴。
息ができなくなるほど深く突き刺された腕をいきなり引き抜かれて、どれほどの血を流したしただろう。普通に考えれば、生きている確率の方が低いと分かっているのに、口に出さずにはいられなくて。
「···グロリアーナは自ら呼んだ魔物のせいであんな目に合ったんだ。俺には自業自得だとしか思えないし、君にしたことを考えればあのまま放っておけばいい」
ゆっくりと頬をなぞる手が、酷く冷たい。いつもの彼では無いようで、心臓が酷くうるさかった。
「君が優しい事は知っている。目の前で死にかけた人間がいるならそれを放置できるような人ではない事も。だが一歩間違えればアリスは死んでいた」
「分かっています」
「だが、それでもーーー正式な形で罰を望むというなら。それが君の考えなら、否定する事はできない」
「···え?」
「セリンダは気を失っているだけだ。グロリアーナは···あの状態では、生きているかどうかは分からないが···」
そう言って彼が私の頬から手を離し、何かを取り出そうとした時。グレン様と自然と距離ができて視界が拡がった私は、奇妙な事に気がついた。
魔物が消えていない。
羽を切り落とされ、地面に落ちたまま血溜まりにいるギョロリと見開いた真っ赤な瞳と、目があう。酷く恨みがましいその目は、ハッキリとこちらに敵意を持っていた。
すぅ、と息を吸う音がやけにはっきりと聞こえる。
その音に、時が止まった気がした。
グレン様が何かを取り出して、こちらに渡そうとする。だが、その魔物の行動を伝えようとした私が避けてと声を出す前に。
『それ』は、何の前触れもないままグレン様の背中に向かい、無情なまでに放たれた。
伝えることはおろか、止めることもできない。
気が付けば私は、その炎から庇うように抱き締められていた。
(なぜ私はいつも、どうして大切な人を守れないの)
凄まじい衝撃と、熱を感じる。
私があんなことを言わず、早くここを離れていれば。いや、もっと早くに気が付いていれば。
グレン様1人なら、きっと避けることだってできたはずなのに。
私がここにいたせいで、グレン様は。
ーーーいつだって私は、役に立たない。
人形でいるべきだったのだ。
何も言わず、いつだって相手に従っておけばよかったのだと。
それならきっと、こんなことは起こらなかった。
私が。
私のせいで。
押し寄せるような後悔が、感情が、狂ったように溢れ出す。
いつの間にか熱は消え、ブクブクと泡立つような音に、魔物が力尽きて消えたのだと分かった。
聞こえるのは、彼の酷く荒い呼吸だけ。
「私のせいで···っ!!!」
泣き叫びそうになった私の唇に、グレン様の親指が触れる。優しく慈しむようなその手付きに、今にも口から飛び出しそうになっていた言葉はどこかへ消え失せてしまった。
「···君の、せいじゃない」
そう呟いた掠れ声が聞こえて。
体にかかる重さに、グレン様の意識がなくなったのだと分かった。
「グレン様!!!」
なんとか腕の中から抜け出し、グレン様の姿を見て言葉を失う。
(う、そ、)
目の前の光景が、自分の目が、信じられなかった。
いつも羽織っていた黒いコートは溶け落ち、背中一面に火傷の痕が残っていた。真っ黒に変色するまで焼け焦げたそれは、火傷などと表現するにはあまりにも酷いもので。
「···っ!!」
手首に巻かれたブレスレットが、焼け付くように痛い。その熱は消え去ることはなくて、温度を増すばかり。
ミシリ、とプレートがまるで割れる前兆のような音が響く。
それは彼が死んでしまうことを指していた。
「い、や、」
君のせいじゃない、なんて。
(ちがう。私のせいだ)
止めて、お願い。
死なないで。
頭の中が真っ白になりかけた時、床に転がっていたのは一本の小瓶だった。
その中に揺れたのは、どろりと濁ったような緑色の液体。それが何かを頭で理解する前に、私は反射的に床に転がるその瓶を掴んでいた。
(早くっ···!!)
瓶の中身を、全て自分の口に流し込む。目を開ける様子のない彼の頬に手を伸ばしてーーー触れたその熱に、気が狂いそうになる。
私は、急き立てられるようにグレン様へと口付けた。
自らの口に含んでいた薬を少しずつ、彼の口の中へと移していく。
(お願い、飲んで···っ!!)
「っ、」
わずかに、彼の反応があった。飲み込んだことを確認し、再び薬を流し込む。息をすることすら忘れ、口の中が空になるまで何度もそれを繰り返し続けた。
死なないで。
また、目を開けて。
お願い、お願い、お願い。
ーーーどうかまた、私に話しかけて。
全てを飲み込んだことを確認し、ゆっくりと唇を離す。名残のように引いた銀糸が、ぷつりと落ちた。
「···グレン、様···?」
話しかけても、彼から帰る声は無い。
ドクドクと心臓が激しく脈打つ。
まさかーーー間に合わなかったのではないか、と。
祈るように、呼吸の状態を確認する。その呼吸が穏やかなものに変わっていることを確認すると、気が付けばあれだけあったプレートの熱はもう感じなかった。あれだけ酷かった背中の熱傷も、何事もなかったかのように消え失せている。
「···良かっ、た···」
ぽたり、と一粒の涙が腕に落ちた。
それはとどまること無く、何度も頰を伝って下へと落ちていく。
安堵からか全身の力が抜け、私は崩れ落ちるように床に座り込んだ。
止まらない涙を隠すように、手で顔を覆う。
「···よか、ったぁ······」
その後私はまるで涙腺が壊れてしまったかのように、その涙が止まることはなかった。




