90.毒蛇の執着じみた恋と、その末路
息が、できない。
どうやら胸に開けられた穴は、自身の肺を貫通していたらしかった。息を吸い込みたいのに、息ができずに溺れているような。
水中にいるわけでもないのに溺れ死ぬだなんて、どんな馬鹿げた話なのか。
胸に深く突き刺さった魔物の腕が、徐々に上がっていく。
重力に逆らうこともできず、胸の穴は大きくなった。もう、何の声も出ない。
自身の視線の先には、真っ青な顔をしてこちらを見ているのは、アクアマリンのような青い目をした、真っ白な女。なぜか先ほど会った時とは目の色が違うが、今はそんなことはどうでもよかった。
ただ、なぜ今ここにいるのがあの女では無いのだろうかと思うだけ。
(···いつから、かしらぁ?)
この女を傷付けるのではなく、殺そうと思ったのは。
最初にこの身の程知らずの人形女と会った時は、さっさとグレンの婚約者という立場からご退場願おうと思っていた。
だから傷付けた。
言葉で、行動で、この人形のような女を。
グレンの気が引けるなら何をしても良いと思っていたが、最初は誰かを傷つけることはしても殺すつもりなんてなかった。
だってもし、この女やルードルフ、隊員の誰かが死んだら。
グレンが、悲しむから。
(···そうよ。アタシ、グレンを悲しませたいわけじゃなかったはずなのに)
いつからこんな風になったのか、と考えてみる。
音だ。
変な、音がして。
それからなぜかもう、そんなことはどうでも良くなったんだ。
たとえ誰かが死んでも、自分の手を汚す事になっても、グレンがアタシを見てくれればそれで良かった。それまではグレンが悲しむことだけはしたくないと思っていたはずのに。
好きの反対は、『嫌い』ではない。
好きの反対は『無関心』なのだと、いつか、誰かが言っていた。
だからアタシはグレンから興味を持たれなくなることが怖かった。アタシと同じ思いを返してくれないなら、嫌いっていう感情でも、憎いでも疎ましいでも面倒くさいでも、とにかくなんでもいいからグレンから感情を返してほしかった。
(アタシはグレンから向けられる感情なら、憎しみでも良かったってだけ)
好きという気持ちは持続しにくいからこそ、その分気持ちに使うエネルギーはいらない。反対に、憎しみ続けたり、嫌いという感情は持続しやすいけれど、その分エネルギーを使う。
(だからそれで良かったのに。そのはずだった。なのに、)
それなのに、グレンは私には絶対にくれなかった感情を、いとも容易くあの女は奪っていった。
グレンから貰える感情なら、どんな感情でも構わない。その気持ちに嘘はない。
だが、それでも憎かった。
たかが婚約者という肩書だけで、自分がどれだけ努力しても得られなかった物を手にした、あの女が。
羨ましかった。
妬ましかった。
グレンに愛されている事が。
だから、あの女を害したかったのだと、ようやく分かった。
だって、彼女に手を出せば。
(グレンが、アタシを殺してくれる)
自分の末路がどんな形であれ、あのグレンのことだ。自分の手で殺せばきっと生涯、忘れ去ることはできないだろう。運が良ければ、あの女を見る度にアタシを思い出すかもしれない。
だから、なんとしてもあの女を殺したかったんだ。結果的に、殺すことはできなかったけれど。
腕を引き抜かれ、床へと叩き付けられる。
あまりの衝撃に目の前が白く点滅し、ふと、いつかの記憶が走馬灯のように思い出される。
グレンのことが、好きだった。
初めて貴方に会った時、グレンは今にも倒れてしまいそうなほど酷い顔色をしていた。
今よりも貴族らしい顔立ちをしていたけれど、そんなものはどこかへ置き去りにしてしまったのか、目すらロクに合わせてくれることすらなくて。見目もよく、人気だったのにも関わらずグレンは誰一人として女を相手にすることは無かった。
英雄だなんて呼ばれているわりには、まるで病人のようだ。そんな風に感じたのを、未だに覚えている。
あの頃は皆くたびきっていて、怪我人だらけで、隊員の統率もままならない、酷く荒れた場所だった。毎日魔物と命懸けで戦うのに、何の娯楽も癒やしもない。そんな中、突如として派遣された私達の扱いなんて今からは考えられないほどに酷いものだった。
こちらの状況を把握し全ての情報を流せと王からは命令されている為、密偵のようなものではあったが、命令された時は私達の職種のせいで酷く軽んじているのは嫌でも分かった。
死人が何人出ようが、情報が手に入れば構わない。口で言わないだけで、その態度からそう思っていることは嫌でも伝わってきたから。
元々そういう職種なこともあり、ロクな扱いは受けないだろうと覚悟はしていたけれど、文字通り休む暇もなくて体調が悪かったのが悪化し、酷い熱が出ていた。
あまりに気持ち悪くて、とても誰かの相手をする余裕がないのにも関わらず、それでも相手をしろと1人の隊員にしつこく迫られた時。
(···グレンはもう、覚えていないだろうけど)
あの時アタシの手を掴んで、助けだしてくれたのはグレンだった。
「止めておけ」
「っ、た、隊長!?」
「お前には彼女の顔色が見えないのか」
「そ、そんなこと言ってもコイツらの仕事ですよ!?それを放棄するのはおかしいでしょう!!」
「仕事だろうがなんだろうが、関係ない。体調が悪い女性に無理を強いるな」
「···っ、クソっ!!」
「···あ、あの。グレンさん、ですよね。助けてれてありがとうございます」
「···こっちへ」
「え?」
軽く手を引かれて、そのまま上の方に連れて行かれる。あぁ、助けたお礼にしてほしいと言う事だろうか。女性は相手にしないと聞いていたけれど、気が変わったのかもしれない。
だが、これだけアタシ好みの見目麗しい男性なら多少具合が悪くても我慢は効きそうだ。そんなことを思いながら、ベッドの前まで連れて行かれて。
ぽん、と肩を押されて座らせられる。
「あの、お礼をしたいのですが」
「礼なんていらない。謝るのはむしろこちらの方だ」
「そうは言っても···あ、するよりも、される方がお好みですか?好みがあるなら話してもらったほうがやりやすいので、教えてもらえます?」
「ちょっと待て。君は何の話をしているんだ」
「え?何って、夜伽の話ですが」
「······あのな···」
なぜか頭を抱えだしたグレンに、熱でぼうっとしていた頭では理解が追いつかなかった。
「グレンさん、アタシ好みですし。体調はよくないけど、別に手を抜いたりはしないので安心してください」
「そんなことをさせるために連れてきたわけじゃない。さっきも言っただろう、体調が悪い女性に無理を強いるなと」
「それはそうですが···」
「先ほどはこちらの隊員がすまなかった。酷い顔色だ、少しでいいからここで休んでいくといい。体調が悪い時に、無理はするべきじゃない」
そう言って何もせずに部屋を出ていったあなたの背中に、恋をしたんだ。
あの日以来、アタシはグレンの為にこの王家の褒美の情報を伝えるリーダー役にまで成り上がった。そうすれば、無言の刻印を解除してもらえるから。
どうして王族がそこまでこの場所の情報に固執しているのかまでは分からなかったが、きっと理解できる日は永遠に来ないのだろう。
だからせめてもの王族への意趣返しとして、ポーションのことは口にしなかったのだ。
初めてポーションのことを知った時は、この件でグレンを脅して抱いてもらおうかとも考えたけれど、なんとなく気乗りせずにそれはしなかった。
脅すのではなく、選んで欲しかったから。
それにあんな物のことを王族の輩が知ったせいでポーションが奪われてグレンが死んでしまったら、元も子もないだろう。
(···やっぱりあの時、脅してでも抱いて貰えばよかったわぁ)
そうすればあの女を絶望させることは容易だったろうし、グレンを手に入れたいという支配欲も収まっただろう。
何の未練もなく、逝けたはずなのに。
ズルズルと引きずるような未練のせいなのか、息もできないのに、アタシはまだ生きている。
だがそれも、時期に終わるだろう。
そんな中、見慣れた愛しい黒が目の前を過った。
「グレン」
いつものように名前を呼ぼうとして、呼べないことに気がついた。口から出てくるのは声ではなく、大量の血だけ。ごぼり、と口の中が自身の血で真っ赤に染まる。
死ぬ時は彼のことだけを考えて死のうと思っていたのに、最後に目にするのが『そのグレンが他の女の所へ走っていく様子』だなんて、なんて皮肉なのか。
もう息ができなくなった事も忘れて、ただただもう一度触れたくて、彼に手を伸ばす。
(···最後まで、優しくないのねぇ)
もうこちらは息を引き取る寸前だと言うのに、こちらを殺そうとすることもなく、その愛しい背中が振り返ることもない。
あの時も、今も変わらない。
アタシはずっと、グレンの背中しか見ることができなかった。
ーーーきっとそれが、この執着じみた恋の答えなのだろう。
重くなった瞼に逆らうようにして最後の足掻きとばかりに、彼の姿を焼き付ける。
こちらには一切気がつく様子どころか、目もくれないまま、グレンは魔物に向かって剣を振りかぶった。
自身が愛した女を、助けるためだけに。




