74.千切れた足枷
しまった、と思ったときにはもう手遅れだった。
一刻も早く逃げて欲しいのに、声が出ない。体が重たく。枯れた喉の奥からは、ヒュー、ヒューという呼吸音しか出てくることはなかった。
(このまま、育ってしまったら)
金の目をした人は少しの間驚いているような素振りを見せていたが、その瞳は唐突に獰猛な光を宿した。
「アンタ···アンタ、人間じゃなくて化け物だったわけ!?」
(···バケ、モノ?)
人の皮を捨てた私は、この20年の間にバケモノに成り果てていたのだろうか。口から魔物を吐く生き物なんて、人でない事だけは確かなのだから、そう言われたっておかしくないはずなのに。
酷く悍ましいものを見ているかのような表情をした彼女が、大声で何か叫び、吐き出したものを避けながらこちらへと近づいてくる。
襟元を掴まれ、立てなくなった体は無理矢理上を向かされた。
「っ、」
「死にたいんでしょう。なら殺してあげるわ!!」
笑いながら、首を両手で締め上げられる。ギリギリと食込む爪が皮膚を裂いたのか何かが伝う感覚がして、少しずつ、少しずつ息が出来なくなる。
ーーー今度こそ死ねるだろうか、とぼんやりとした頭で考えた。
優しくしてもらうことが、辛かった。ずっと、本当のことを知られたらそんなふうに詰られるのだと、殺してしまえ、早く死んでしまえと言われるのだと分かっていたから。
こうあるべきだと分かってたのに、理解していたつもりなのに。ずっと前から自分自身も分かっていたはずで、その上で死にたいと願っていた、そのはずだったのに。
「こ、の···化け物の分際でっ···!よくもグレンの婚約者を名乗ってくれたわねぇ!やっぱりグレンは騙されていたのよ!!アンタなんかあのまま魔物に殺されていれば良かったのに!!」
ーーーなぜかどうしようもなく、涙が溢れた。
(なんて、身勝手なんだろう)
投げつけられた罵詈雑言に、傷付く資格など無いのに。ぼんやりと霞んできた視界の隅で、何かが蠢いた。
彼女の後ろにいる蠢いた黒い何かは凄まじい勢いで手が生え、翼が生え、足が生え始めた。『ソレ』は見る間に大きくなり、形どられていく。
「あっ···ぁ···」
ギチギチと不愉快な音を立てて大きくなるソレに、彼女の目がようやくそちらを向く。そしてその先にいた異様な物に気がついたのか、彼女が金の目を見開いた。
「···何、よ、これは、」
するり、と手から力が抜け私の体は床に叩きつけられる。口から入ってきた空気にむせ込んでいると、今度は涙が止まらなくなった。酸欠なのか、頭がくらくらする。
ーーーあぁ、育ってしまった。
「に、げて、」
掠れた声は、誰にも届かない。
育ったそれは、この場所が崩壊するのではないかと勘違いしてしまいそうになるほどの雄叫びをあげた。
「ギシャアアアアァッ!!!!!」
そこにいるもの全てを威圧するような声が、ビリビリと鼓膜を突き抜けていく。赤い目に黒い体。大きく広げられた、角張った黒い翼。
(ドラゴン、だ、)
この20年間、あの日以来1度も吐き出したことがなかったはずなのに、どうして。
「ドラゴン···!?な、なんでっ、そんなお伽噺にしか存在しないような魔物が出てくるのよっ!?」
先程の咆哮のせいだろう。バタバタと廊下を走る音に、警鐘のような鋭い鐘の音が響き渡った。
「ヒッ···!?」
彼女が一歩後ずさると同時に、勢いよく部屋の扉が開く。灰色の髪に、鮮やかなオレンジ色の目をした彼は。
(ルードルフさん!?)
「っ、冗談だろ···?」
「副隊長、冗談じゃないですよ!早くアリシアちゃんを助けないと、」
「ヴェリア様!?無事ですか!?ひっ、ド、ドラゴン!?なんで部屋の中に···!?」
(だめ、この魔物はまだ成長する)
バキリ、ミシリと異様な音を立ててドラゴンの体は更に変化していく。
打ち込まれる弾や切りつけられた箇所をものともせず、ドラゴンは血を流しながらも体の形を変えていった。
「この女が生み出したのよ!!」
そう声を上げられ、もはや俯いたままま顔を上げることが出来なかった。私のせいで、またこんなことが起きてしまったのだから。
「アンタさえ、アンタさえいなければ···っ!!」
「っ···!!」
彼女のどこにそんな力があるのか、無理矢理立たされてすぐ後ろにあった壊れた窓枠に押し付けられた。このまま少しでも後ろへ押されたら、私の体は真っ逆さまに落ちていくだろう。
誰かが、何かを叫んでいる。
でももう、その声を聞き取ることはできなくて。
ぐらりと視界が回る。
回って、ゆっくりと落ちていく。
見えたのは、真っ白な雪だ。
そのまま落ちていくと思ったのに、ガツリと何かが引っかかったような感覚がして、足首に痛みが走る。
ギリギリと締め上げられるような痛みに、もうでないはずの悲鳴を上げそうになる。体は完全に逆さまで宙吊りになっており、上手く足元がなぜ痛いのか分からなかったものの、壊れた窓枠にアンクレットが引っかかっていることが分かった。
だが元々が皮膚に食い込むほどにしめられていたものが引っかかっているのだ。相当な力が集中しているのか、足首の感覚がなくなってしまいそうな痛みが走る。逆さ吊りになっているせいで頭に血がのぼっているのか、頭がクラクラする。
ポタポタと垂れる赤い雫は、自分の血液なのだろうか。ギィ、ギィと揺れる体は吹雪に当てられてあっという間に白く染まっていく。
魔物の咆哮。
弾丸のような音。
誰かが何かを、叫ぶ声。
色々な音がごちゃまぜになったそれらを聞く限り、きっとまだ彼らは戦っているのだろう。
自分なんかのせいで、血を流して。
「ごめん、なさ、い、」
寒さに悴む唇からは、掠れたような謝罪しか出てくることはない。
どうかもう、このまま終わってしまえれば。
ブチリと千切れたのはアンクレットだったのか、それとも自分の意識だったのだろうか。突如として体がガクン、と大きく揺れて。私は宙吊りになっていた状態から落下した、ように感じた。もしかすると、アンクレットではなく自分の足首が千切れてしまったのではないかーーー。
そんな錯覚なのか、ただの妄想なのかもわからないままに真っ暗な空と壊れた窓が遠くなっていく。白い雪が、自身の体に叩きつけるように辺りを舞った。
「アリシアっ···!!」
それまで白と黒しか見えなかった世界に、突如として灰色と鮮やかなオレンジ色が飛び込んでくる。
「姉妹、揃って!落ちることはないだろうが!!!」
「な、んで、」
このまま死ぬのだろうと、そう思ったのに。私があのドラゴンを生み出したと、彼女から言われて知ったはずなのに。
なのにどうして、彼が見えるのだろう。
「間に合えっ···!!」
それまでスローモーションに見えていた世界は瞬時に色を取り戻し、そのまま下へと落下していくのは、一瞬のことだった。
思わず目を瞑ると、何か柔らかいものに埋まるような感覚がして。
思ったよりも、その衝撃は少なかった。
「······っ?」
恐る恐る、目を開ける。
どうして痛くないのかと辺りを見渡そうとすると、自分が下敷きにしていたのは、助けてくれた彼だった。
「っ、···いってぇ···いつも固くするばっかで柔らかくなんかしたことなかったから調整ミスった···」
私達が着地していたのは、固くなった雪ではなく柔らかな茶色の土の上で。唖然としたまま呆けていると、私の下から起き上がって向き合うように座った彼から、瓶の中身を痛む足首にバシャリとかけられた。痛いという間もなく空になった小さな小瓶の変わりに、あれだけ痛かった足首の痛みが不思議と引いていく。
他に怪我は無いかと尋ねられるが、動くこともままならない体では唇を動かすことも難しくて。
あのまま殺してしまえとは、思わなかったのか。
上はどうなっているのか。
ドラゴンは。
どうして、助けたのか。
何もかもわからないことだらけだった。
だが、ドクドクと煩いほどになっているこの心臓が音を立てているから、自分はかろうじて生きているのだろうとわかって。
「アリシア」
あぁ、そうだ。
この人は、昔もこうやって助けてくれたことがある。小さな頃、木から落ちた私を自分が下敷きになって。
それで、お母様とお父様にしこたま怒られたんだ。
「おい、大丈夫か?」
鮮やかなオレンジ色の瞳が酷く心配そうに揺れているのを見て、血で張り付いたままの唇を開け、私はなんとか声を絞り出す。
「···なんで···いつも助けてくれるの?」
「···なんで、って···」
「あの木から落ちた時、だって。今だって。ルードルフさんが、怪我するかもしれないのに、」
「···え?」
「どうして貴方は、いつも、」
ーーーつぅ、と温かい何かが頬を流れた。
この人はいつだって、こうやって私を助けてくれるんだ。私がどんなことをしたって、今も昔も変わらずに。
「おい、やっぱりどこか他にもーーーー」
私は目の前の彼へ、倒れ込むようにしてしがみつく。倒れ込んだ先は、酷く温かい。
そんな優しい、貴方だから。
いつでも助けてほしいと、あの小さな頃のように、縋りつきたくなってしまうんだ。




