72.忘却の代償と怒りの矛先
カチリ、と時計の針が夜の22時を回った頃。
「殿下!!」
静寂は騒音に遮られた。
「なんだ、こんな時間に騒々しい。静かにしろ」
「た、大変です!マリアナ様が主催されて祭りの業績が···!このままでは不合格になってしまいます!」
「不合格だと?ちょっとまて、それはどういうことだ」
「そのままの意味です!だからあれだけ書類を確認してくださいと言ったのに···!何も目を通されなかったのですか!?警備兵が少ないのを良いことに、盗人や強盗、揉め事が多発して最終的には祭りどころでは無くなったんですよ!?」
「その書類を貸せ」
部下から奪い取った書類には、何にどれくらいの予算を割り当てるのかが書かれていた。その中でも警備費が大幅に削減され、装飾費にかなりの額をかけていることが分かる。
「···なんだこれは?」
「マリアナ様が提出なさった書類ですよ!だから何度も書類を見直すようにとシリル様が進言していたではないですか!」
それだけではない。必要なものは全てカットされ、余計なものが大量に発注されているのだ。思い出してみれば書類を見直すようにと言われていたような気もするが、マリアナと喧嘩していたこともありほとんど気に留めていなかった。どうせまた、マリアナのことが気に食わないシリルが反発しているだけだと思い込んで。
それが、この結果だというのか。
「···今すぐにマリアナを呼べ」
「呼んでどうするおつもりで···」
「良いから今すぐにマリアナを呼んでこい!!!」
「ヒッ···!」
力任せに机を叩くと、怯えた表情で男は去っていく。
「一体どうなってる!?そもそも一体なんだ、このわけのわからない書類は!?マリアナはこんなにも使えない女だったというのか!?これだったらまだアリスの方がマシだった!」
書類を握りつぶし、マリアナに対して今までに感じたことのないドス黒い感情のようなものを感じた。
ただ髪色や顔立ちが似ているだけのアリスよりも、ずっと『彼女』を感じさせるあの珊瑚のような瞳に惚れ込んでいたが、やはり目玉だけだったのか。
僕に対して興味を引くような言動の裏には、どこか危うさがあったマリアナ。なぜならいつも僕が期待する100の答えではなく、80の答えばかりを用意していたからだ。
始めは面白いと思った。期待している答えばかりをくれるのではなく、少しズレた答えを返してくるというのも。
ーーーだが、なぜか酷く興味を惹かれながらも心の何処かでいつも思っていた。アリシアはこんな事を言わない、と。
結局僕は、アリシア以外の女性を求めていないのだろう。だが、この身分ではそんなことばかり言っていられない。だから、彼女の穴埋めが必要だと思ったのだ。アリシアが蘇ったのかと思うほど生き写しだったアリスなら、少しはその穴埋めになるかと思って側に置いてやったのにーーー婚約者になってからというもの、アリスは何もかもが変わっていった。
自分が持つのに相応しくない無惨な刺繍を渡され、ダンスの練習では血を流し、これ見よがしに怪我をした手で運ばれた料理を渡されるなど、冗談じゃない。
アリシアによく似ていた生き生きとしていた活気は消え、まるで病人のような憔悴しきった様子ばかり見せるようになっていって。アリシアによく似た無邪気な笑顔もいつしか見せなくなり、笑えと命じて、彼女が作るのは酷く薄気味の悪い『作られた』笑顔だけ。
最終的に残ったのは、アリシアの要素は全て消え失せた、アリシアに似ているだけの役立たずの女だけだった。
アリスが僕の名前を呼ぶ度に虫唾が走るようになって、何度あのアリシアに似ていない青い目玉をくり抜いてやろうと思っただろうか。あの醜い青い目玉さえ無ければ、アリシアによく似ている器なのに、と。いっそあの時、海に落ちて死ぬぐらいなら目玉をくり抜いてアリシアに似せた義眼を埋め込んだ『人形』を作って閉じ込めてしまえば良かった。
そうすれば少しは気が晴れたのに、アリスはもういない。
「どいつもこいつも···!!!」
ーーーあぁ、憎い。
『彼女』に似た容姿のくせに、彼女よりも何もかもが不出来な『ただアリシアに似ているだけ』のアリスも。
『彼女』のような珊瑚に似た目を持っているくせに、『役立たず』のマリアナも、その女によく懐いていた弟も。
『彼女』にハンカチを渡されたテオも。
最後まであの『彼女』に関する魔法を止めたシリルも。
『彼女』の棺桶の前で泣き叫んでいた、灰色の髪の男も。
ーーー何もかもが。
「で、殿下!」
バアン、と騒々しく扉が開かれる。ありったけの苛立ちをぶつけながらそちらを見ると、ここに来るはずの女がいないことに更に苛立った。
「マリアナはどうした!」
「マリアナ様が、見当たらないのです!部屋から忽然と姿を消したと···!」
「こんな夜中にいなくなったと?警備は何をしていた」
「扉を見張っていましたが、出てくることはなかったと話していて···!」
ここにも役立たずがいたのか。
(後で警備は処分しておかないと)
警備といえば、1人の男が頭に浮かぶ。どこまでもアリスを庇い、いつでも肩を持っていた、あの目障りな男が。大方身の程も知らずにアリスに惚れていたのだろうが、あの女に興味が無くなったからただ見逃してやっていたというのに。
(そろそろテオも処分するべきだな)
マリアナが自分の騎士にと欲したから処分しなかっただけで、本来ならば既に殺していたはずのあの男は、まだのうのうと生きていた。仮にも僕の婚約者であるマリアナと二人で今回のイベントを回ったという。
ーーーこの僕を、差し置いて。
「テオを呼べ」
剣を捧げた者も守れない騎士に用はない。前から目障りだった男をようやく正当に消すことができると考えながら、椅子に座る。慌てて再び部屋を出ていった男を見ながら、ぐしゃりと前髪を握り潰す。
その瞬間、つう、と何かが垂れるような感覚がした。
「···なんだ?」
違和感を感じた鼻に手をやると、何かが濡れている感触がある。そのまま手を離すと、そこにあったのは真っ赤な血だった。
「なっ···!?」
ーーー殿下。魔法をかける規模が大きいほど、『誰かが1人でも思い出した時の代償』は大きくなります。
「ま、さか、」
誰かが、アリシアを思い出したとでも言うのか。
そんなはずはない。僕がかけた魔法はそんなものでは解けないはずだ。だって僕以外が、彼女を覚えていてはいけないのだから。
目まぐるしく動く思考の中、ポタポタとその血が止まることはない。
「誰が、思い出したんだ?」
ーーー1人残らず、記憶は消したはずなのに。
その思い出した人間を消せば良いのだろうが、如何せん対象が多すぎる。彼女の死体は焼かれてしまった。本当なら、ずっと僕が保管しておくはずだったのに。棺で眠る彼女のことは、まだ昨日のように鮮明に覚えている。
ポタリ、ポタリと流れる赤い血は、留まることを知らずに服も床も汚していく。
アリシアの、少しずつ無くなっていく呼吸音も。血の気のない、真っ青な顔も。何もかも鮮明に思い出せるのは僕だけのはずに。
「ハイシャドウ」
「···お呼びでしょうか、殿下」
すっ、とどこからともなく真っ黒な服に身を包んだ男が1人、目の前に現れる。
「答えろ。マリアナは今、どこで何をしている?」
「マリアナ様は現在、『ピンク色の目をした銀髪の女性』を探しておられるようです。場所はシリル様の所に向かったものかと思われます」
「···ピンク色の目に、銀髪?」
「同じような外見をした民衆も何人か処刑されているようです。名前は、申し訳ありませんが分かりませんでした」
名前が分からないのは、僕がかけた魔法のせいだとすぐに気がついた。だがなんで、あの女が彼女のことを知っているのか。
「そうか。もういい。失せろ」
音もなく消えたその存在に見向きもせず、ふらりと僕は立ち上がった。
今すぐにでも、シリルのところへ行かなくてはいけない。そして、今すぐにでもマリアナを殺さなくては。
ようやく目が覚めたと言えば良い。
僕のことを誑かしていた女だと、あの女は僕の后になるには何もかもが足りないと今気がついたのだと言って殺してしまおう。
止まらない血を手の甲で拭うと、手首にも血が飛び散った。固まった血が不愉快で、袖で血を擦り落とす。
(どうして僕がこんな目にあうんだ。どうして。どうしてどうしてどうして、)
ギリ、と奥歯を噛む。
溢れ出る血が不愉快でたまらない。
ーーー僕がこんな代償を受けているのは、あの女がアリシアのことを思い出したからに違いない。
どうして。
どうして、どいつもこいつも。
「アリシアは僕だけのモノなのに」
テオを殺そうとしていたことも、呼びつけたことすらも忘れ、ルーカスはそう呟き部屋を出ていった。
後に残されたものは、床に無造作に投げ捨てられ、真っ赤な血で汚されたマリアナの書類だけだった。




