7.冠を欲する者
ガチャリ、と扉の開く音にも女は振り返る事なく、ただ呆然とバルコニーの先の真っ暗な闇を見つめていた。
「マリアナ!?どうして君がここに」
「ルーカス、様…?」
声をかけると、まるで魂が抜けたかのような顔をして彼女はようやく振り返る。ルーカスの姿を見た瞬間我に返ったかのように、彼女は涙を流してルーカスに縋り付いた。
「ルーカス様!わ、わたし、わたし…」
「何があったんだ!?それに、アリスはどこに…」
「アリスから…謝りたいと言っていると、聞いて…ここへ来たのです。そしたら、私を海に突き落とそうとして…」
「なんだと!?」
彼の美しい青い目が吊り上がった。あぁ、怒りを宿した彼の顔も実に美しい。まるで芸術作品、いや、ビスクドールのようだと思いながら私は涙をはらはらと落として、か弱い令嬢を演じる。
「わ、たし、怖くて、」
「もう大丈夫だ、マリアナ。守ってやれなくて…すまない」
そう言って私の事を抱きしめると、温かな体温に包まれる。
ほどよくしなやかな彼の体に身を預け、うっとりとしながらも声だけは悲しみを乗せて声を紡いだ。
「アリスは、どうなるのですか?私…まだ生きているのだとしたら…今度こそ、殺されてしまうかも…」
カタカタと小さく震えると、それを庇うかのようにルーカスが強く抱きしめ返す。
「大丈夫だ。マリアナ、今度こそは僕に君を守らせてくれ。」
―あの女は君を殺そうとして、死んだことにするから。
だから心配いらないよ、と彼は美しい顔で微笑んだ。
「見つかりしだいマリアナを殺そうとした罪で、今度は処刑台に送ると約束しよう。だから安心して?僕の愛しいマリアナ」
ドクン、と胸が高鳴る。見つけ次第アリスを処刑台に送ると言う約束は、何よりも私を高ぶらせた。
「本当、ですか…?」
「あぁ、勿論だ。…今まで苦労をかけた。でも、僕の隣に立っているのは君が良い。愛してるよ、マリアナ。だからどうか、僕の為に冠を乗せて貰えますか?」
「…!!ルーカス様っ…!」
ー僕のために冠を乗せて貰えますか?
この言葉は、このゲームの最後の告白イベントでしか聞くことのできない特別な台詞。つまり、私は今。
(やった…やったわ!ついにルーカスルートをマリアナで攻略できた!)
もしここが現実の世界で、本物の国ならば、小さな頃から決まっていた婚約者がいなくなったというのは大きな痛手である。しかも王子が連れてきた次の婚約者は、身分は釣り合うとしても、妃教育など受けていない。
王子と婚約者が本来ならば結婚するという大切な時期に、一体何をしでかしているのか、これから一体どうするつもりなのか?
その責任を取れと身分を剥奪されたりと、こちら側が断罪されてもおかしくないほどの出来事だが、私には大丈夫だろうという確信があった。
だってここは、現実だが現実ではないー【ゲームの世界】だ。
イベントで決まった出来事なのだから、面倒なことなど『何も起こらない』に違いない。
(だって、そういう風に作られているんだもの)
全て、私の都合が良いように。
そこでふと、私は思い出した。この【冠を乗せる】という台詞が、話題に上がっていたことがあることを。
「…マリアナ?」
返事が無かったことが心配になったのか、彼が優しく頬を撫でてくる。その瞬間、考えていたことなど全て忘れてしまった。
「あ、ごめんなさい、私、嬉しくて…夢かと思って、呆然としてしまいました」
「ふふっ、可愛い。大丈夫、これは夢じゃないよ。」
「私で良ければ喜んでーー冠を頂戴致します。」
「あぁ、良かった。嬉しいよ、マリアナ。」
「私も…夢を見ているみたいです。嬉しくて…どうにかなってしまいそう」
「僕もだよ。あぁそう言えば、そういえばもう一つ聞きたいことがあったんだ。アリスーあの女が君に謝りたいと言ったと話があったけど、誰に聞かされたのかな?」
ふいに彼の声が酷く冷えた気がした。その声につられて顔を上げると、サファイアのような青い瞳が細められている。彼のビスクドールのような顔は、こんな風に歪んでいても美しい、などど考えてしまった。
(しまった。そこまでは考えていなかったわ)
アリスの声を拾い上げて、なおかつ私の元へ届けられて違和感のない人物はーと慌てて頭を動かし、ここの扉の前に立っている見張りを思い出した。どちらにせよ私があの女に無理矢理会いに来たのだ、面倒な話を少しでも聞いた人物は消してもらった方が確実だろう。
「え、っと…ここの見張りをしていた騎士の方に、聞きました」
「…なるほど。ではその騎士は処分しておこうね。私のマリアナをこんな目に合わせてー大罪だ」
早くこんな部屋から出よう。そういった彼は優しげな顔をしたまま、マリアナを支えるようにして扉を開く。まるでついでとばかりに、扉の前に立っていた見張りの哀れな騎士は、彼女の一声で消されてしまった。
冠をのせる。
正しい表記は冠を載せるだが、このゲームではどのルートでも【冠を乗せる】という表記が使われていた。
つまりただの【間違い】ではなく、【意図的】に間違われていたということになる。
その事実を彼女が思い出すことは、もうなかった。