67.貴方の名を呼びたくて、
温かい。
ポロポロと溢れて止まらない涙に気が付き、私は目元を擦った。涙なんて、一体何十年ぶりに流しただろうか。なんだか気恥ずかしくて、強く目を瞑る。
「無理に泣き止まなくて良い。怖かっただろう」
とん、とん、とまるで子供をあやすかのような背中を叩く感覚が心地良かった。
(なんだかデルフィランズ様には、情けない姿ばかり見せているわ)
今までなら嫌われるのが怖くて、そんな姿を見せてもいいだなんて思わなかったのに。
「そうだ、怪我は!?今は冷えているようだが、」
「冷えている?」
そう言って首を傾げた私に、デルフィランズ様が手首につけていたブレスレットを見せてくれた。彼の腕についていた物は私が今持っているものだから、もう1つのルードルフ様の物だろうか?説明を聞いたところだと、どうやらこのプレートは相手に死が迫ると熱を帯びるのだと言う。
(もしかして、さっきの足の···?)
そう思って、だがなぜか少し違和感が残った。足を怪我したのはついさっきの事だし、デルフィランズ様がそれなりの距離を走ってここの中に入って来たという話では、なんだか矛盾している気がする。
(私が思ってるよりも、ここに登ってくるまでの間に時間を使ってしまったのかしら)
暗闇の中は、思ったよりも人の感覚を狂わせるものなのだと知った。あの日から3日も立っていたというぐらいなのだから、自分の中の時間の感覚がおかしくなっていても仕方がないのだが。
「使い方を説明するのをすっかり忘れていてすまない」
「いえ、そのようなことが分かるものだったのですね。教えてくださってありがとうございます」
「···前も言ったかもしれないが、君はもう少し俺に対して怒るなり意見したりしていいんだぞ?」
「知らないことを知らないままに、無知のままでいることのほうが悪いことなのですから、頂いた時に私から聞くべきことなのでは?デルフィランズ様に対して怒ったり、意見するのとは違うかと···」
「···そうか、ヴェリア嬢はそういう風に考えてしまうタイプか」
「······」
「どうした?」
「い、いえ。なんでも···」
今また、私は彼からそう呼ばれることに寂しいと感じた。ということは、裏を返せば私はデルフィランズ様から『アリス』と名前で呼ばれることが嬉しいということで。少し前もそんなことがあったと我が身を振り返る。名前を呼ばれることに、なんで私はそんなに固執しているのかと少し前なら不思議に思っていただろう。
(私はデルフィランズ様にそう呼んでほしいのね)
だが今なら分かる。大切に思う人から特別な想いが欲しいという感覚と同じなのだろう。呼んでほしいなら、そうお願いすれば良い。頭では分かっていても、なんだかいざ言おうとすると、なんだか気恥ずかしくて口には出しにくかった。
好きになると、臆病になるらしい。昔どこかで聞いたことがある言い回しだが、本当にいざ自分がそうなってしまうとは思わなかった。
「とにかくどこかに怪我をしただろう。手当をするから見せてくれ」
「は、はい···でも先程ポーションを使ったので、だいぶ痛みはないのですが」
少し名残惜しく思いながらもデルフィランズ様から離れて、ドレスの裾を持ち上げる。
噛み傷は消えていたものの、左足は不自然に腫れ上がり右足はポーションがかかりきらなかった部位からまだ出血していた。それを見た彼はすぐにポーションをかけ、ゆっくりと怪我が治っていく。
「···左足は魔物に噛まれたのか?」
「そうだと思います。本当は目が覚めた時にポーションを使用したかったのですが、灯りがなくて真っ暗だったので···ついさっき使用しました」
「目が覚めた時についていたなら、3日はそのままだったのか···」
酷く心配気に腫れた足を見つめる彼の言葉に、思わず目を向けてしまう。
「3日?そんなに時間が立っていたのですか?」
真っ暗でまったく時間や曜日感覚が分からなかったとはいえ、そこまで立っているとは思いもよらなかった。
「あぁ。ヴェリア嬢はどうやってここまでこれたんだ?食料や水はどうして···」
「ええと、このドレスが実は少し変わった物でして。フィンから頂いたものなのですが、あちこちに収納できるスペースがあるのです。もしかしたらそのまま外に放り出される危険もあるかと思い、防寒具や食料等の思いつく限り色んな物を服の中に忍ばせておきました。その、今回は懐中時計と明かりを忘れてしまったのが反省点ですね。そもそもの持ち合わせがなかったのもありますが、思いつきませんでした」
「·······そ、それは···すごいな」
目を白黒させている彼の珍しい表情に、思わず笑みが浮かぶ。
「すごい、ですか?」
「普通はそこまで思いつかないというか···そうか、とにかく飢えていたり、寒さで低体温症になっていたりしなくて良かった」
「はい。デルフィランズ様は、プレートが熱くなかったということはどこにもお怪我はしていないんですよね?」
「あぁ、俺はどこにも怪我はしていない。···君が生きていてくれて本当に良かった···」
そう言って目を瞑った彼は、なんだか泣きそうな表情をしていて。
「···探し続けて下さって、ありがとうございます。デルフィランズ様がいなければ、きっとあのまま落下して···死んでいたかもしれませんから」
もしも彼が来てくれなかったら、確実に死んでしまっていただろう。そう考えると、背筋がゾッとした。
「今度こそ間に合って···本当に良かった」
今度こそ?
まるで始めて助けることができたと、消え入るように言われたその言葉に首を傾げた。
「いつもデルフィランズ様は助けて下さるではありませんか」
「···いつも、なんて保証はどこにもない。今だって···もしも間に合わなければ目の前で君を死なせていたかもしれないのに。頼れと口では言いながら、頼り甲斐の無い男だと自分でも思うよ」
「でも、私は生きています。たった今、デルフィランズ様が助けてくださったから、です。頼り甲斐が無いだなんて言わないで下さい」
「···君は、優しいな」
聞いたことがあるその言葉に、一体前は何と答えただろうか。
「そう、でしょうか」
彼にそう言われると、本当に自分が優しい人になれたような気がしてしまう。
ーーーそれこそ、ありえないのに。
「···ヴェリア嬢、何かしてほしいことはないか?」
「え?」
その、彼から唐突に出てきた言葉にドキリとした。
(突然、どうしたのかしら)
「いや、なんだかいつもヴェリア嬢からはもらってばかりな気がして。ふと前にも歌を歌ってもらった事を思い出したから···まぁここで出来ることも、俺ができることもたかが知れているから、思いついたらでいいんだが」
「してほしいこと···」
それならば、自分の事を名前で呼んでほしいとすぐに思いつく。だがそれを口にするのはやはり気恥ずかしいし、何より今言ってしまうと帰る道中ずっと呼ばれ続けることになるのだ。
(···呼ばれるたびに緊張して何かやらかしてしまいそう。想像しただけで砦に帰るまで確実に私の身が持たないわ···)
婚約者同士なら、名前で呼び合っている事はなんらおかしいことではないけれど、彼にそう呼ばれるのは嬉しいが照れてしまう。
ーーー婚約者と言ってもどうせ名ばかりでしょう?家名で呼んでるぐらいだものね。
ふと、いつだったか言われた言葉が頭を過ぎる。彼とはつり合わないとわかっているけれど、高望みだとも分かっているけれど。
それでも近付きたいと思う。
(···好きになると、我儘になっていくのね)
でも、少しばかりは貪欲になってもいいのではないだろうか。今までは耐え忍ぶことだけを教わってきたけれど、たとえ耐えたって我慢したって、伝えない限りは何1つ相手に伝わらないのだから。
(お願いしてみよう)
名前で呼ばれたいと思うぐらいに、デルフィランズ様の名前を呼んでみたいと思うから。
「デルフィランズ様。その、今度からは、お名前で呼ばせていただいてもよろしいでしょうか···」
「っーーー」
ドキドキと流行る感情を抑えながら、彼の返答を待つ。
だが、いつまで立っても返事は無くて。
声が小さくて、聞き取れなかったのだろうか。それとも今お願いする内容としてはあまりにおかしかっただろうか。そう思って盗み見た彼の表情は、喜怒哀楽のどれでもなく、何の表情も浮かんではいなかった。
強いて言えば、驚きと恐怖が入り混じったような瞳ーーー。
「···すみません、こんな時に。砦に帰ったら、返事を聞かせて下さい」
思いがけない反応に、反射的に謝罪を口にする。
(···どう、して?怒らせてしまったの?それとも···)
何か名前で呼ばれることに抵抗があるのだろうか。でもルードルフ様も確か名前で呼んでいたはずだ。
ーーーそれに、彼女だって。
(あの人は良くて、私は駄目なの?)
彼のことが、好きなのに。
じわりと目元が熱くなるのを感じて、また強く目を瞑る。今はこんなことをしている場合じゃない。
貪欲になると決めたのに、相手の態度一つでその決意が一瞬で揺らいでしまう自分が嫌になる。
「···砦に、戻ってからじゃなくていい」
「······え?」
「今からで構わない。そう呼んでくれ」
「···あ、あの。怒っていないのですか?」
「怒っているように見えたか?」
「え、えぇ。その、突然黙ってしまわれたので。私が不愉快な事を言ってしまったのかと」
「···いや、それは···とにかく、違うんだ。怒っていないから、そう呼んでほしい」
「···はい」
「誤解させて悪かった。君にそう呼んでもらえるなら、嬉しいよ」
そう言って微笑む彼を見て、息が止まりそうになって。
ドクドクと心臓が早鐘を打つ音が聴こえてくる。こんなに早いと、彼に、グレン様にバレてしまいそう。
「は···い。改めてよろしくお願いします、グレン、様···」
始めて声に乗せた彼の名前は、どこか甘い響きを持っていて。
名前で呼んでいるだけなのに目眩がしそうで、私はそう答えるだけで精一杯だった。




