58.魔を惹く香水
ふらり、と明らかにおかしな足取りで女が階段を登っていく。先程唐突に大掛かりな敵襲があったにも関わらず、薬を使ったせいか相手の男が動かなかったために無理矢理逃げてきた。そのせいで時間がかかってしまったが、ここまで深夜、しかも大掛かりな敵襲でここが空になったのは丁度良かったかもしれない。廊下に人影はまったくなく、そのせいで女を咎めるものは誰もいなかった。
デルフィランズ卿とルードルフ様は敵襲の対応に追われているはずだから、戻ってこないはず。とある扉の前に辿り着くと、鍵を開けて中へと忍び込んだ。
静かな寝息が聞こえる。私は窓に忍び寄ると、重たいレースカーテンを無理矢理にこじ開けようとした。だがそれは思ったよりもずっと重労働で、私は額に浮かべながらカーテンを開ける。
「ここで何をしているのですか」
「っ···!!!」
その声に振り返ると、いつの間に目覚めたのか一人の女性が立っていた。白銀の髪に、アクアマリンのような淡い空色の瞳。思わず息を飲むようなその美しさに、カーテンを開けていた手が止まる。
「敵襲を知らせる音がしているのに、寝ているとでも思ったのですか?」
「そうね、お姫様は寝ていると思ったわ」
「あなたは···」
彼女が何かを言いかけた途端に、思わず私はあの香水を彼女に向かって振りかけていた。
「っ!?」
何かをかけられるとは思っていなかったのか、彼女が驚き、怯んだ隙を狙って私はようやく開いたカーテンはそのままに、隙間から窓を開け放って扉へと走った。
「ま、ちなさ···!」
「貴方は逃げられない」
甘ったるい匂いが辺り一面に広がり、彼女がむせ込むのを聞きながら一目散に部屋を抜け出したのだった。
「ケホッ、ケホッ···な、に、これ?香水···?」
(この匂い。どこかで···)
妃教育の中で、毒に関する勉強をしていた時。かなり珍しい毒で、入手方法がかなり難しくほとんど出回らないはずだがーーーやたらと甘い匂いのする物があったことを思い出し、必死に記憶を辿ろうとした時。冷たい風と共に、ふわりと白い物が部屋を舞う。
雪だ。
慌てて窓を見ると、魔物よけのカーテンが開き、窓が少し空いていることに気がついた私は窓へと駆け寄って雪が入り込んでくる窓を閉め、鍵をかける。続いてカーテンに手を伸ばすが、とても重たくて動かせるものではなかった。
(さっきの人はどうやってこれを開けていたの!?)
本当に人が開けられるものなのか、と疑ってしまうぐらいにそれは鉛のように重たい。必死に閉めようとしていると、後ろからガタン、と扉が乱暴に閉じる音がし、そちらをみると男性が1人立っていた。
「あはは、扉を開けっ放しにしちゃ駄目じゃないですか、ヴェリア様ぁ」
どこか焦点のあっていないその瞳は、理性などどこにも見当たらない。
「っ···!」
その見たことのあるものが灯った瞳に、思わず体が凍り付いた。
(い、や、)
「なんかさっき相手してた子がいなくなっちゃってて。まだ足りないんですよ。だからヴェリア様の体を貸してくれません?どうせ隊長ともうしてるでしょ?」
「こないで、」
「怯えてるヴェリア様も良いですねー。美人はどんな顔しても奇麗なんて得だなぁ」
そう言って、無理矢理に後ろから抱きつかれて拘束される。恐怖のあまり、体が動かない。
「白い肌ですねえ。いいなー、隊長は今まで独り占めしてたわけでしょ?羨ましい限りですよ」
「やめて、はなして···!」
怖い。
(嫌っ···!!!)
このままじゃ、何も変わらない。何も、あの頃と変わっていない。
だが、弱いままで助けられるのが当たり前だなんて、そんな甘えたことを思っていられないから。
(怯えている場合じゃないの。強くなると決めたのだから)
だから、もう私は負けたりしない。
「っ、」
怖さを飲み込み、手に力を入れて動かす。この期間中は薬を使う人もいるから、と万が一に何かあった時にとフィンに繰り返し教えてもらった動きを何度も何度も頭の中で反芻しながら、胸の前で組まれた相手の手を逆に自分の手で固定する。
『いい?中途半端な力だと相手に逆上される場合もあるから、こういう時は容赦なく思い切りやりなさい』
その言葉通り相手の人差し指を自分の手で掴むと、関節が曲がる方とは反対の方にひねった。
「いっ···!!!?!?」
一瞬拘束が緩んだその隙に自分が出せるありったけの力を込めたせいか。バキリ、と酷く不慣れな感触が手を通して伝わってきた。
「ひっ、」
「ぎゃあぁぁあああ!?」
大声の悲鳴が響き渡る。私は慌ててその痛みに悶える男から離れ、距離をとった。そのまま扉へ走ろうとして、私はまだカーテンを閉じていなかった事を思い出す。一瞬だけそちらを見ると、そこには目を疑うような光景が拡がっていた。
赤い色をした巨大な花に生えているように存在しているのは、真っ白な肌をした女性に見える何か。何も纏っていないその背中には、大きな蝶の様な羽がついていた。魔物は、図鑑でしかみたことがない。だが、この魔物は何年も報告がなかったはずなのに。
「···ヴェアー、ラズ···」
にっこり、とその魔物が窓越しに微笑んだのが見えた。だが笑っているのは口元だけで、血のように赤い目は笑っていない。
(こんなことをしている場合じゃないわ、早く逃げないと···!)
だが、カーテンを開けっぱなしにしていたらここから砦の内部に魔物が入り込んでしまうのでは?そうなったら、どうなるの?
(そもそもあれは開けられることが前提ではないとすれば、構造上どうしても脆くなる窓のような部分を隠すために存在している···?)
魔物から目が、離せない。こんなことを考えている場合じゃないのに。
逃げれば良い?
閉めれば良い?
その迷いが、状況をさらに悪化させてしまうことにも気が付かず、私は魔物に縫い留められたかのように動けなくなった。
「よくも、やりやがったなぁ···!」
「っ!」
(嘘、指の骨を折った筈なのに···!)
何かおかしな薬を使用しており、痛みが鈍くなっているのだろうか。とにかく逃げないといけないと分かっているのに、どうしてか足がここから動かない。
ーーー分からない。どうして逃げられないの?
あの時と、同じだ。
煌びやかな会場。色とりどりのドレス。豪華な光を放つシャンデリア。そして向けられた、悪意のある言葉と視線の数々。一方的に婚約破棄されているのにも関わらず、言いたいことは何一つ話すことができなかった、あの会場。
あれは断罪イベントなのだと、決められたお芝居と同じでストーリーはどう進むのか決まっているのだと笑ったマリアナ。
ーーー私はまた、自分が知りもしない決められたストーリーをなぞっているのだろうか。
その時、バタバタと廊下を誰かが走ってくるような音がした。
「アリシアちゃん!!?」
悲鳴のような声を上げ、弾かれるようにその扉は開かれた。その扉の先にいた人物のラズベリーのような瞳がこちらを捉え、柔らかな淡い緑の髪が揺れる。
「フィ、ン、」
助けに、きてくれた。
見慣れたその姿に、心からの安堵を感じてするりと足が軽くなった瞬間、
「っ、伏せて!!」
その声の通りに咄嗟にしゃがみこむと、窓ガラスが吹き飛び、雪が散って辺りに鱗粉のような粉が舞う。
それは吹き荒れる雪なのか、砕けたガラスなのか、魔物の鱗粉なのか。
酷く幻想的なその光景に、一瞬目を奪われる。そんな中に、ぐしゃりと1点の鈍い赤が飛び散った。
ーーーこれは誰の、何の赤?
思考が、言葉が、思いつかない。
(おか、しい、)
誰かの叫びが聞こえる中、私の体は突然宙に浮いた。部屋が、叫びが、遠ざかる。広がるのは、黒い夜空と遠くなる地面。自分が今どうなっているのか考えることができず、目を開けていられない。そのまま目を閉じると自身にかけられた甘ったるい臭いが、ふと鼻につく。
「この毒は、珍しいものから作られています。相手の思考を上書きして乗っ取るような毒で、一度噛まれたら絶対に助からない猛毒の蛇から作られている為、ほとんど出回ることがない品です。甘い匂いが特徴なので、すぐに分かりますがかけられたて思考を上書きされたら、よほどの精神的な安心を得られない限りは戻れません。あとはかなり珍しい効果なのですが、」
ーーーこの毒は魔物寄せの効果を持ちます。
最後に私の視界に捉えられたのは、魔物の住む黒い森だけだった。




