56.溶かされた思考回路
「痛っ···」
つぅ、と赤い線が頬を伝って落ちていく。思わず耳を抑えると、右耳からは音が聞こえなくなっていた。
「···やっぱり、婚約者の部屋に仕掛けるのはリスクが高かったか···でもこれで確信が持てたわ」
間違いなくアリシアと呼ばれる女性はルーカス様の元婚約者のアリス・ヴェリア様なのだと。
(でも、これは依頼人に頼まれたことじゃないわ。やっぱりアリシア・ヴェリアなんて女性は存在しないんじゃないの?)
耳から流れる血もそのままに、ため息をつく。ハンカチで血を拭いながら、私は彼に定期連絡をしようと左耳にイヤリングをつけた。
「···マスター、聞こえますか」
ーーーザザザザザ。
「マスター?」
ーーーザザザザザザ。
おかしい。
「なんで···雑音しか聞こえないの?」
ドクン、と心臓が嫌な音を立てる。
そんな訳がないと思いながら、私はもう1度彼を呼んだ。
「···マスター。セリンダです」
その声に反応するものはなく、帰ってきたのは雑音だけだった。やはり、この依頼は引き受けてはいけないものだったのかもしれない。
デルフィランズ卿の婚約者の名前がアリシア・ヴェリアである事、髪色こそ違うもののピンクの瞳を持っていること。それを依頼人に伝えてくると言ってから、まだ終了連絡はきていなかった。だから今の定期連絡でマスターに連絡をとろうとしていたのに、とらないということは。
依頼人の名前を聞いたときからなんだか嫌な予感はしていた。依頼人の名は、ルーカス王子の婚約者であるマリアナ・リーディアス。ルーカス王子の婚約者である彼女がなぜその女性を探しているのかは分からなかったが、もっと分からないのはどうしてこんな庶民が活用するような小さな情報屋に依頼をしてきたのかということだった。彼女ほどの立場があれば、もっと優秀な情報屋を雇うことが可能だろうに。
(もしかして、誰も知らない情報屋なら消しやすいと思ったからじゃないの···?)
そんな訳がない、ただ今は連絡がとれないだけだと自分に言い聞かせ、私は自分の荷物の中から指輪を探し出した。
それは彼から貰った、緊急用の指輪。彼が死に直面した時にマスターがとある言葉を告げるとその指輪についた石は赤く光るのだと言う。そして、その後に死んでしまっていたなら石は黒くなっていると。黒くなっている場合は、何があってもすぐに逃げろと言われたことを思い出す。
もしも、黒くなっていたら。
マスターの次に消されるのは自分ではないのか?そんな想像に駆られ、ぞくりと背中に悪寒が走る。
(それに、私は盗聴に失敗した。あれを誰が壊したか分からないけれど、デルフィランズ卿にはもう伝わっているはず···)
恐れか、それとも別の何かか。震える手で私は指輪が入った箱を開けた。
「···そんな···」
中の金色の指輪には、天国を意味する『セリア』という文字が刻まれている。中の指輪についた石は、真っ黒に淀んでいた。石が黒くなっていたら、すぐに逃げろと言っていたマスターの言葉を思い出す。
「···逃げなきゃ···」
しかし、どこへ?
ここは雪に囲まれた地。どこにも逃げる場所など存在しない。
死神と呼ばれる人がいるこの場所からどうやって逃げだすの?あとここに最低でも1週間もいなければいけないというのに?
ぐるぐると回る思考に、どうしていいのか分からないという焦り。
(情報を焦るあまり、やりすぎた)
でも今更後悔しても遅い。ふと時計を見ると、夜中の約束の時間が近付いてきていた。慌ててイヤリングを外し、指輪の箱を閉めて荷物に隠す。同室者はまだ帰ってきていなかったが、急いで身支度を整えた。
「···どうしよう」
ポーションが手に入れば良いのだが
、あれはそう簡単に手に入る代物ではない。応急処置をして、できるだけメイクで目立たないようにカモフラージュをしたが見る人が見たら分かってしまうだろう。
だが、もう時間もない。扉を開けると、眼の前に誰かが立っていることに気がついた。
「っ!?」
慌てて扉を開ける手を止め、相手を確認する。
「グロリアーナさん···」
「あらぁ、セリンダ。なんだかくたびれてるみたいねぇ?」
「いえ、そんなことはないですよ。グロリアーナさんこそくたびれているのではないですか?」
「···ふ、ふふっ。くたびれている。くたびれている、ねぇ」
フラフラ、と彼女の視線が不自然に動く。
(···何?何かおかしいわ)
早くこの場から離れたほうがいいと頭の中で警鐘が鳴る。
「くたびれているなら、少しお休みください。では、私は仕事があるのでこれで···」
「待ちなさい」
彼女の隣を通り過ぎようとした時、酷く強い力で手首を掴まれた。容赦なくギリギリと爪が食い込み、皮膚を食い破ろうとする。
「ねぇ、その耳の傷はどうしたの?」
見抜かれた。
ぞくりと背筋が凍るような悪寒が走る。
「か、噛まれたんです」
「噛まれたぁ?ふふふふふふ、セリンダの耳に噛み付くなんて随分と不躾な奴がいるのねぇ」
そういって嗤う彼女に、いえ、と適当に返事を返す。
「誰にやられたの?一応これでもアタシリーダーだから、情報共有しなくちゃいけないのよぉ」
「そ、れは。お相手の方に失礼ですから」
「ふふふふ、大丈夫よ?興奮して噛みついてくるなんて輩は他にも何をするかわからないもの。だから答えなさい」
金色の狂った瞳が、こちらを見る。
「セリンダ。貴女に噛みついたのは、だぁれ?」
逃げないと。
「す···少しだけ目を瞑ってもらえませんか?」
「えぇ···?駄目よ、そんなの。それにしてもおかしいわねぇ」
耳に、指が這っていく。
隠すために塗った化粧を落とすように、指が動いた。
「っ、」
血が、ポタリと流れ落ちる。
「噛みついたにしては不自然な傷跡。そうねぇ、まるで魔力が逆流でもしたみたいな跡に見えるわぁ」
ーーーガリガリガリガリ。
傷口を抉るように爪が蠢き、眼の前に突き出されたのは緑色の液体が入った小瓶だった。現物を見たのは初めてだが、これはおそらくポーションだろう。だがどうして彼女がこんなものを持っているのか。
「こ、これはポーションじゃないですか。どうしてグロリアーナさんが···」
「ふふふっ、それはどうでもいいじゃない?それよりもその傷口がグレンにバレたらどうなるかしら。これ、使いたいんじゃないの?」
「···」
確かに、これがあれば確実に傷口を隠すことが出来るだろう。
「あげてもいいのよ?ただ、いくつかやってもらいたいことがあるの」
「やってもらいたい、こと?」
「えぇ。別に何もそんなに難しいことをお願いするわけじゃないわ。やる?やらない?」
「···な、内容によります」
「ふふふふ、疑り深いわねぇ。簡単よ、今から仕事でしょ?この香水をつけていってほしいだけだから」
それは、透明な小瓶に入った香水。ただその中身は泥のように濁りきっていて、漂ってくる匂いは、胸焼けするほど甘い香りがした。
(な、に、この、臭い)
「ねぇ、セリンダ」
死神に会ったら、死んでしまう。
ここから逃げる術もない。
全ては自分自身が、捨て身の行動をしてしまったせいで。カチ、カチと時計の秒針が進んでいき、耳から血がゆっくりと垂れた。くらくらするほど甘い匂いに、思考が鈍っていく。
ーーーこの香水はおかしい。
プシュリ、と音がした。
この世のありとあらゆる甘いお菓子を詰め込んで腐らせたような、甘い臭い。
「この香水、あなたにあげるわ。あと、仕事が終わったら貴女が盗聴していた部屋のレースカーテンを開けておいてくれる?」
「な、んで、そんな、こと、」
まるで決定事項のように告げられた言葉に、私に拒否権はなかった。
ドロドロに溶けた甘いお菓子の臭いで、頭が、思考が、おかしくなっていく。この砦につけられたレースカーテンは、何かの役割があったはずなのに。
(思い、出せない)
「やってくれるわよね?」
そう言って顔面にかけられた香水。
甘い。
逃げなきゃ。
甘い。
ドロドロに溶けたキャンディに飲み込まれるように、もはや考えることもせず私は操り人形のようにカクリと頷いた。
それを見てニッコリ、とまるで描かれた笑顔で目の前の女が嗤う。
「よくできました。耳は治してあげるわ。頑張って動いて頂戴ねぇ、『実行犯』さん?」
ジュウ、と耳に何かの液体がかかって痛みが引いていく。だがもうそれが何なのか、私に考えることはできなかった。




