55.狂った毒蛇
耳を怪我した人物が、医務室へ向かうとは思えない。医務室を利用すれば必然的に俺の耳に入ってしまうのは確実。それは相手もよく分かっているはずで、自分が犯人だと自ら名乗るような真似はしないだろう。だとすればバレないよう、証拠が残らないようにきっと内々で処理するはずだ。
だが、魔力が耳に弾けるというのはかなり痛手のはず。それこそ、鼓膜が破れていてもおかしくはないだろう。
「グレン!やっと帰ってきたのね!もう、探したんだから!」
暗がりの廊下を歩いていると、耳障りな女の声が自分の耳に入ってきた。
「近寄るな」
「え?グレン、一体どうしちゃったの?やっぱりあの婚約者になにか言われてるの?」
そんなことを言いながら、女が甘ったるい臭いを振りまきながら側へと歩いてくる。わざとらしく髪をかきあげ、耳元の大振りなピアスが揺れた。嫌悪感しか抱けないその行動に苛立ちをそのまま声に乗せる。
「近寄るな、と言っているんだが聞こえないのか?」
「ねぇ、さっき婚約者とやらに会ってきたけど随分と大人しそうな子じゃない?人形みたいっていうか、随分とつまんないお子様なのね。その上平民だなんてグレンと身分も釣り合ってないじゃない。あんなので夜は···」
「今すぐその口を閉じろ。俺の婚約者を侮辱する事は許さない」
「侮辱だなんてアタシは事実を言ったまでじゃない。そんなに怒らないでよ。ねえ、グレン。アタシは貴方に3年も会えなくて寂しかったのになんでそんなに冷たいのよ、寂しいじゃない。アタシはずっとグレンが欲しかったのよ?」
猫撫で声に、虫酸が走る。
「っ···!?」
持っていた剣の先が、女の首元を舐める。薄皮が切れたのか、わずかに首元に赤い線が出来た。このまま切ってしまえたら、どれだけ鬱憤が晴れるだろうか。
(この女に、彼女の何が分かる?)
何も知らないくせに、見た目だけで人を判断し侮辱する。
人形?お子様?
勝手な想像だけでアリスを馬鹿にするのもいい加減にしろ。
「黙れ、と言っている」
今すぐにでもこの女の五月蝿い舌と首を切り落としたかったが、先程の彼女の言葉を思い出して踏み留まった。それに、この女を殺してしまえば後が面倒だと言い聞かせ、既のところで衝動を堪える。
「次、もしも彼女に手を出したなら」
「···っ、···!」
「お前の体と首は繋がっていないと思え」
真っ青になったグロリアーナは何も言葉を発すること無く、ただはくはくとその口と体を震わせた。この女をこれ以上視界にすら収めたくない。
そう思ったグレンは身を翻し、グロリアーナを1人置き去りにしてこの場を去った。
しばらく女は動くことができなかった。
グレンが去り、どのくらいの時間が立ったのか。未だに収まらない震えもそのままに、狂ったように女は口を動かした。
「な、によ、何、なのよ、あの婚約者は。どうしてグレンに執着されているのよ。グレンに執着されるのもしていいのもアタシだけなのに」
あれはあきらかに、明確な殺意だった。今までそんなものをグレンから向けられたことはなかったのにと女は嘆いた。
「どうして···グレン?3年も会いたかったのに、ずっとずっとこの日を待ち望んでいたのに」
ーーー黙れ、と言っている。
グレンのあまりに明確な殺意を滲ませたその言葉は、深くグロリアーナの心に突き刺さった。
「今まで、どんな我儘だって聞いてくれたのに」
グレンが帰ってこないと王都に帰らない、と言えば彼は必ず帰ってきてくれたのに。いままで1度も仕事をさせてくれたことだけはなかったけれど、それは遠慮していただけのはずなのに。
それなのに。
「なんで、今更拒絶するの」
彼に変わった出来事は、婚約者ができたことだけ。ならば、その婚約者が彼を変えてしまったのか?どうして、と壊れたレコーダーのように女は繰り返し呟く。
「どうして、どうしてどうしてどうして?どうして私が愛されないの。あの婚約者が、平民風情がグレンに何かしたに違いないわ。人形のくせに···なんで執着されてるの?」
だとしたら、悪いのはグレンではなくあの婚約者の女だ。好きな人を取られるわけにはいかない。
「許さない」
ふらり、と女は不自然な動きで立ち上がると階段を降りていく。あまりに不自然なその姿に何人かの男が驚いていたが、女は気にもせずに階段を降りていった。
グレンに殺されるのも悪くないが、アタシの首が飛んでしまったらもうグレンの事を愛せなくなってしまう。だからそれは嫌だし、死ぬのならグレンと一緒に死にたい。
ーーーそうすれば彼は誰にも取られないから。
「あんな女に、グレンはあげない」
彼の事を生きながら愛したいとなると、方法は1つだ。1段、また1段と女は踊るように階段を降りていく。
ーーーミシミシ、ミシミシ。
階段がやけに音を立てる。
「階段がうるさいわねぇ」
ブツブツと呟く女に、周りの男達が大丈夫なのか、と視線を送っていたことにも気が付かず。
「···おい、あいつグロリアーナだろ。階段がうるさいとかなんとか言ってるけど、大丈夫なのか?」
「知らねぇよ···というか階段から音なんてしてねぇし。あいつ頭大丈夫か?」
「聞こえるって!」
「待っててね、グレン」
グロリアーナは自分の足に触れ、何かに触れた。それは小さな小瓶。チャポン、とまるで泥のように濁った液体が瓶の中で揺れる。
そのわずかな振動を感じながら駒が欲しい、と女は思った。
情報を集めて、手駒を探す必要があるだろう。
アタシがあの婚約者に手を出したら首と体が繋がっていないと思えとグレンが言ったから、アタシの手を汚す必要がないように。奇麗なままでいないと、グレンに切られてしまうから。
なら、アタシが直接手を出さないと良いのよね?
ここには『ちょうど良いの』がたくさんいるから、『それに襲われた』ならグレンも文句はないでしょうねぇ。
「ふ、ふふふ。あははっ、」
どっちがいいかしら。
男か、魔物か。
無理矢理襲われても面白いし、魔物にズタズタに引き裂かれても面白い。他の男に抱かれた女でも、顔面が潰れた女でも、どちらにせよグレンの興味は薄れるはずだ。とにかくあの女が一刻も早くグレンの元から消す為には自ら死にたくなるように仕向ければ良い。
あれだけ執着している存在から殺してくれとお願いされたら、きっとグレンは断れないから。どちらがより良いか、と考える。
やっぱり男?自分の婚約者が他の男に妊娠させられたらグレンはどうするのかしら。きっとそんな婚約者はさっさと捨てるに違いない。
「なんだったら、両方でも良いわねえ」
自然と女の口元が歪み、気味が悪いほどの笑みの形を作った。とにかく一刻も早く、グレンの目を覚まさせてあげないといけないと、本気で女は思っていたのだ。
ーーーだってグレンのことはアタシが1番好きなんだから。




