52.それは歪んだ夢か、現実か
ーーー穏やかな、歌が聞こえる。
優しいそれが遠ざかると、酷く物足りない気持ちになった。もう少しだけ、その優しくて穏やかな歌を聴いていたいと。それが聞こえなくなった頃、ふいに熱い風が頬を撫でた。
真っ赤に燃え盛る炎。
肉が焼け爛れたような臭い。
真っ白な雪の中に赤黒い血飛沫と共にあちこちに転がった『部下だった何か』。
「隊長!砦が崩されました!!もう持ちません!!」
「アリスは!?」
「さ、先程隊員に連れられて怪我人とともにシェルターに向かわれました!」
「シェルター!?あっちにはヴェアーラズのネームドがいたと報告があった筈だが!?」
「ネームドが、い···ぎゃあぁぁあっっ!!?」
どこからか飛んできた氷柱が、部下の体に突き刺さると、辺りの雪は赤く染まっていた。瞬時にルードルフが怪我をした部下を庇い、氷柱を飛ばした魔物を消し飛ばす。
「グレン、早く行け!!」
ルードルフのその声に、弾かれるようにアリスがいる場所へと走っていく。頼むから間に合ってくれ、と願いながら。雪を踏みしめ、魔物が溶け落ちた残骸や瓦礫となった砦を踏みつけながらとにかく走る。ここからシェルターはそんなに離れていない。なんとか間に合ってくれ。少しばかり空いた距離が、永遠のように長く感じられた。
(いた···っ!)
「!!」
目に飛び込んできたのはブレスを吐くために大口を開けているヴェアーラズのネームドと、座り込んだままのアリスだった。彼女の頬は魔物に引き裂かれたのか、頬から顎にかけて真っ赤な鮮血が溢れ出ている。おそらくあまりの痛みに耐えきれなかったのだろう、もしかしたら他のところにも怪我をしているかもしれない。
そう思うと、眼の前が赤く染まった気がした。
もうブレスは吐かれる直前で、それを止めようと剣を振りかぶる。背中から真っ二つにすれば止まるはずだと空へと飛び上がって、腕の痛みも忘れ剣を振り下ろそうとした時。
ーーーこのままアリスが大怪我をしたら、彼女を邪な目で見る奴は誰もいなくなるのではないか。
ほんの一瞬。
そんなことが頭を過り、彼女に襲いかかっている魔物への反応が遅れた。周りから見れば、腕に負った怪我のせいで動きが鈍ったようにしか見えなかっただろう。だが、実際はそうではない。違ったのだ。俺が一瞬でも、アリスに大怪我を負ってほしいなんて考えてしまったから。
「きゃぁああああっ!!!!」
魔物の炎のブレスが彼女を襲い、アリスの悲鳴が聞こえた瞬間、俺はようやく手元の剣を動かすことができた。
「アリス!!!」
魔物を背中から真っ二つに引き裂いた先に見えた光景は、地獄のような光景だった。
半分は焼かれ、半分は顎の下まで引き裂かれた顔。焦点の合わないガラス玉のような瞳。髪は焼けただれ、煤で真っ黒に変色していた。皮膚も服も黒く焼け焦げ、真っ白だった彼女は『黒い何か』へと変貌を遂げていた。
「··グレ、ン···」
こちらへと縋るように手を伸ばしていたアリスがそう、呟いた気がした。ブレスをもろに食らい真っ黒に焦げた彼女が、ぐらりと重心を失い、白い雪の中へ倒れ込む。
一目見たときから真っ白な、あまりに白い彼女は、雪に埋もれて消えてしまいそうだと思っていた。だが、今は血塗れで、真っ黒に染まっていて。
「あ、あぁ···」
ーーー俺が、剣を振り下ろすのを一瞬でも躊躇ったから。
その結果がどうなるかなんて今までに嫌というほど経験して、頭では分かっていたはずなのに。
「アリ、ス」
真っ黒に染まった彼女を抱え込むと、おそらく顔を庇ったのだろう、一層酷く焼け焦げた左手の薬指が抱え上げた衝撃でぼろりと崩れ落ちた。
「俺の、せいで、」
アリスは。
「グレンッ、なにぼけっとしてんだ!!さっさと砦に運べ!!!」
「っ!」
血みどろになったルードルフから怒声が飛ぶ。ルードルフ自身も酷い傷を負い、片目からは光が失われていた。アイツがそこまでして守ろうとしたものを、俺は裏切ったのだと知って心が壊れそうだった。
ミシミシ、ミシミシ。
奇妙な足音のような音が、心のどこかで聞こえた気がした。
幸か不幸か、彼女は生きていた。
辛うじて呼吸をし、全身の激痛にもがき苦しみながらも言葉を発することができたのだ。
火傷を負ったあちこちが包帯で巻かれ、その姿は酷く痛々しい。
炭と化した左腕。
半分以上が火傷で覆われ、引き裂かれた顔。
動かなくなった両足。
こんな状態で生きているのは奇跡だ、と医者から言われるほどにボロボロになった彼女。
そんな姿なんて見たくなかったはずなのに。
誰も、ルードルフですら、アリスを助けられなかったことを責めなかった。
ーーーアリスはお前のせいでこうなったのだと言われたほうが、きっと楽になれるのだろう。
誰もそう言わないのは、皆が自分も彼女を守ることが出来なかったと心のどこかで思っているからだろうか。
自分自身、罪悪感があるのかないのかすら、もうよく分からなくなっていた。
「アリス、薬を持ってきた。飲めるか?」
「い、たい、たすけ、て、もう、やだ、」
酷い高熱にうなされながら、アリスが呻く。
かつてこうなる前。
砦が崩される前、真っ白だった彼女が頬を染め、気恥ずかしそうにこう言った。
「デルフィランズ様。貴方のことが好きです。その、今度からは、お名前で呼ばせていただいてもよろしいでしょうか···」
嬉しかった。
一目惚れした彼女からの告白。自分から言えなかった事を後悔したぐらいには、嬉しかった。
すぐにでも返事をしたかったが、本当に自分で良いのかと酷く悩んでしまって。
「···すみません、こんな時に。遠征から帰ったら、返事を聞かせて下さい」
そう言って、とても美しく微笑んだ彼女。俺はその後遠征に出て、しばらくしてから突然砦からの報告を受けた。
砦が奇襲を受けた、と。
こうなることが分かっていたなら、あの時すぐにでも返事をしていれば良かった。
後悔してもしきれない想いに蓋をして、薬の封を切る。俺は薬と水を自らの口に含むと、アリスへと口付けた。こんな形で、彼女にキスをしたかった訳じゃない。だが、心の底から歪んだ喜びのような何かが湧き上がってくるのが分かる。どういう理由であれ、彼女に触れられることが嬉しいのだと。
(俺は、何を)
痛みからか、嫌がるように身をよじるアリスを優しく押さえつけながら薬を全て流し込んだ。こくり、と喉が動いたのを確認してから口を離す。彼女の口の横に流れた水を拭いながら、薬が効くのを待った。少しだけ穏やかになった呼吸で眠る彼女を見ながら、頭を抱える。
「···なんで、」
部下が皆死に絶えて、心が裂けてしまいそうなのに。アリスが自分のせいでこうなってしまって、悔やんでも悔やみきれないはずなのに。
彼女を邪な目でみる奴らは皆死に絶えた。
自分の意志では、もう彼女はどこにも行けない。
そんな風に思ってしまい、その事実がどうしようもなく、嬉しいのだ。
ーーーこんなのは狂っている。
そう分かっているのに、どうしてもその考えを振り払うことが出来なかった。
1時間ほどすると薬が効いてきたのか、アリスがぼんやりと目を開く。ガラス玉のような瞳がゆっくりを誰かを探すように俺の方へと向けられた。
「グレ、ン、様」
「···どうした」
「殺し、て、下さい」
ーーー殺して?
今、彼女は殺してくれと言ったのか?
「···冗談は止めてくれ」
そうだ、こうなった人を何人も見てきたじゃないかと頭の中の冷静な部分が囁く。痛みから逃れるために、殺してほしいと懇願してきた部下を何人も切ってきたはずなのに。
「こんな、姿で、生きていきたく、ない」
ーーー私は、貴方の荷物になりたくないのです。
「嫌だ」
愛する人が死にたいと、殺してくれと懇願しているのにもかかわらず、嫌だなどと。そんな子供じみた言葉しか、自分の口からは出てこなかった。死なないで欲しい。側にいてほしい。始めに願ったのはただそれだけだったのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
「死なないでくれ、アリス」
「···グレン、様、」
包帯から覗く片目だけになった曇ったガラス玉のような瞳から、一粒涙が伝い落ちていく。彼女の薬指が失われた左手を見て、アリスの俺に対する愛情のようなものは、この崩れ落ちた薬指のようにとっくに枯れ果てているのだろうと思った。
そう、思っているのに。
ーーーこんな状態になっても、まだアリスを美しいと感じるのだ。
そんな風に感じる俺は狂ってしまったのかもしれない。彼女が、何かを俺に伝えようとしてゆっくりと口を開く。
ミシミシ、ミシミシ。
だがアリスの何かを伝えようとしたひび割れた綺麗な声は、何かの足音にも似た煩わしい音で掻き消された。
だから俺は、返事の変わりにこうなる前に告げられなかった言葉を告げた。まるでそれは、呪いのように。
「···愛してる、アリス」
たとえ君が、どんな姿になろうとも。




