46.毒蛇の女
「あ、アリシアちゃん。この書類、グレン隊長の執務室に置いてきてもらえる?」
「はい。いってきます」
そう言ってフィンに手渡されたのは思ったよりも枚数の多い書類。落とさないようにとしっかり抱え込みながら、私は席を立った。
(デルフィランズ様に会うのは久しぶりね。···どこも、怪我をされていないかしら)
事務室から彼の執務室はなかなかに遠い。私は3階まで続く階段を登りながら、反射で窓に移る自分を眺める。
焦げ茶の髪に、ピンク色の瞳。
白銀の髪に水色の目をした自分とはとても対象的な色味だった。ようやく見慣れてきたその姿から目を離し、再び階段を登っていく。まだ早い時間だが、彼はもういるだろうか?
(朝食の時、遠征の隊の方が帰ってきているようだったから···今回は薬草を見に行くのだと話していたし。もしかしたらいつもよりも早いかもしれないわ)
デルフィランズ様のことを考えていると、どことなくいつもよりも心音が早い気がする。
(···気のせい、じゃない)
デルフィランズ様に、婚約者だと言われた時もこんな速さの心音だった。どうして、彼に会う度にもっと彼に認められたいと、役に立ちたいと思うのだろう。
(···優しく、してもらったから?)
それもあるのかもしれないが、それだけではない気がする。
「···この、気持ちは」
考えるだけで心音が早くなって。
もっと役に立ちたくて。
もっと、認められたくて。
(···あぁ、そうだ)
ーーーなんだかそれは、遠の昔に忘れてしまった感情によく似ているような気がした。
そんなことをぼんやりと考えていたせいか。私はいつの間にか執務室の前に立っていて、ノックもすること無く無意識に扉を開いてしまっていた。
「グレンッ!!」
やってしまった、と私が思うよりも先に思わず固まってしまったのは、甲高い女性の声が響き渡ったと同時にすさまじい勢いで何かが私に向かって突っ込んできたからだ。
「きゃっ···!?」
バランスを崩し、持っていた書類が手から離れていく。雪のように書類が舞い散る中、私は思い切りそのまま後ろに倒れこんだ。
ーーーバタンッ!!
「っ···たた···」
幸い頭は打たなかったものの、咄嗟についてしまった手首がズキズキと酷く痛む。尻もちをついたせいか、腰や背中まで痛みが這い上がってきた。なんとか痛みを堪え、一体何が起こったのかと目を開けると、飛び込んできたのは見たことのないーーーだが、おそらく知っている女性がそこにいた。
紫の短い髪。深いスリットの入ったロングスカートからは白い足が覗いていた。そして、一度見たら忘れられないような吊り目の金色の瞳。
(この人は、もしかして)
「···はぁ?グレンじゃない?てかアンタ誰よ」
「···人に名前を尋ねるときは、自分から名乗るのが礼儀だと思いますが 」
「なんですってぇ!?」
「人にぶつかっているのですから、名前を聞くよりもまずは謝る方が先では無いのですか?」
「知らないわよ。アンタが勝手に倒れたんじゃない。なんでアタシが謝らないといけないわけ?いつまでも地べたに座り込んで···何?私は被害者ですってでも言いたいの?か弱い人は大変ねぇ」
「···あなたは私に対して名前も名乗る気は無い、謝る気もないのですね」
「しつこい人。そういうのって嫌われるわよ?」
ーーーバキッ!!
「いっ······!!?」
そういうと彼女、グロリアーナは座り込んでいた私の手を思い切り足の踵で踏みつけた。
ぐりぐりと踏みにじられ、まるで甲を貫かんとばかりにそれは酷く重たい。
「名前を名乗れば良いんだっけぇ?アタシはグロリアーナ・ディアスよ」
「っ···!!」
ピンヒールのように高く、尖った踵は全体重を乗せられているらしく、ミリミリと手の甲に食い込んでいく。なんとか全力でそれを振り払って立ち上がると、足をわざとらしくプラプラと振りながら、私の血が滲んだ手を見て整った顔が歪んだ笑みに変わる。
「あらあら、綺麗なお手てが台無しぃ。ごめんなさいね、あなたみたいな人と違ってアタシは踵が高い靴しか履かないから、間違えて踏み付けるとそうなっちゃうみたい」
鮮やかな紫に彩られた爪が、口元を隠すように動く。踏みつけられていた手の甲はあまりの圧力に皮膚が耐えられなかったのか、裂けて血が滲んでいた。
(···フィンが、気を付けなさいといった意味がやっとわかったわ)
怪我をしてから分かるようでは遅いのだろうけど。
「それでアナタの名前は何かしら?名乗ったのだから教えてくれるのよね?」
「私はアリシア・ヴェリア。デルフィランズ様の婚約者です」
「···なんですって?」
ピクリ、と形の良い眉が引きつったように動く。
「···アナタ、髪の色からして平民よね?貴族ですら無い平民風情が、グレンの婚約者ですって?グレンは何をとち狂ったのかしら。それはアナタの妄想じゃなくて?」
「妄想ではありません」
「···あら、そう···」
ゆらり、と彼女が不自然に揺れた。まるで蛇のような金色の瞳から一瞬光が消え、ぞくりと何か冷たいものが背中を這っていく。まるで毒蛇にでも睨まれているようだ。
「まぁいいわ。婚約者と言ってもどうせ名ばかりでしょう?家名で呼んでるぐらいだものね。どうせまだグレンと寝たことないんでしょうからそっちはアタシに任せると良いわ。プロだから少なくともアナタよりは良い思いをさせてあげられるだろうし」
「······は、い?」
私とデルフィランズ様は、まだ結婚していない。だから、そういうことはまだしていないのは確かだ。
だが、グロリアーナに任せるうんぬんというのは私は一体何を聞かされているのだろうか。
「···言っていることが、理解できないのですが」
「あら、生娘には早かったかしら。それとも頭が悪いの?アナタが出来ないことをアタシが変わりにしてあげるって言ってるの。こんななにもできない生娘じゃグレンが可哀想だわ。アタシはグレンの為なら愛人でも別に構わないし」
愛人?変わりにしてあげる?
(···まったく話が通じないわ)
「アナタ知ってる?何もできない女はすぐに飽きられるのよ?」
頭ではそう冷静に思っているのに、彼に触れられた瞬間に酷く恐怖を感じたことが生々しく思い出されて。
(デルフィランズ様と結婚した時。私はそういうことができるの?)
今はそんな事を考えている場合ではないのに、嫌でも考えさせられてしまって。
「相手に任せておけばいいなんて考えているなら、それは傲慢」
まるでジクリ、と心の柔らかい部分が削り取られるような。
「若さだけが取り柄のアナタなんてどうせ、すぐに飽きられちゃうわよ」
ーーーだから、アタシが貰ってあげるから。
「早くグレンのことは諦めてね?お嬢ちゃん」
「···嫌です」
「若さゆえに無謀なのねぇ。何回でもまた踏み潰してあげるから楽しみにしててね?」
カツカツ、とやけに響くピンヒールの音が去っていく。ジクジクと痛むのが、血の滲んだ手の甲なのか、胸なのかもわからなくて。
冷えた廊下に1人取り残された私は、撒き散らした書類を拾い集めることも忘れたまま呆然と廊下に立っていることしかできなかった。




