32.優しい声色
私がそんなことを考えている間にも彼はあっという間に階段を上がり、廊下を越え、いつの間にか私の部屋の前に辿り着いていた。私を横抱きにしたまま器用に扉を開けてから閉め、抱えていた体をそっとベッドの上に下ろしてくれる。私の体が強張っていたのか、自分の動きはなんだかぎこちなく見えた。
「···断りも得ず、勝手に君に触れてすまなかった。立て続けで悪いが、靴を脱いでくれ。手当しないと悪化するぞ」
「い、いえ、デルフィランズ様にそこまでしていただくわけには···」
ここまで運んでもらっただけでもご迷惑をおかけしているのに、手当までしてもらうなんて。恥ずかしくて、情けなくてどういう表情をしたら良いのか分からなくなり、私はただただ俯くことしかできなかった。
「いいから。すまないが、君の足に触れていいか?」
真摯な声につられて顔を上げると、彼の瞳がまっすぐにこちらを見ている。
「···は、はい···」
迷いに迷って、私の口から出た声は消え入りそうなほど小さな声だけ。それでもデルフィランズ様は私の返答をきちんと聞いたあとに、足首と靴に手を伸ばした。靴擦れの手当をしようとしてくれたから。
それは分かっていたのに、彼の手が伸びてきた瞬間、なぜか殿下に無理矢理押し倒されたときの記憶が生々しく蘇ってーーーゾクリとした寒気と震えが私を襲った。
怖い。
「···ヴェリア嬢?」
触れられるのが、怖い。
「っ···!!」
彼とデルフィランズ様は違う。今だって、私の足を気遣ってわざわざここまで運んで下さったのだ。彼はただ、治療をしようとしてくれただるけ。触れていいか、と許可もとってくれた。頭ではそう分かっているのにーーー怖いと、触れられたくないとばかりに体が大げさな程震える。
(ちがう。ちがうのに)
殿下ではないと分かっているのに、なぜか私の体は拒否反応のようなものを見せた。私の様子がおかしいことに気がついたのか、デルフィランズ様の手は私に触れる前にぴたりとその動きを止め、手を引いた。
「あ、ちが、···ごめ、な、さ···」
「···っ、すまない」
怖い。こんなにも、男性に触れられることは怖い事だっただろうか。震える指を握りしめながら、どうしていいか分からなくなってしまった。なんで怖いの。彼は違う人なのに。そう思っても、震えが止まることはなくて。
「···っ、て、手当は自分でやりますから···大丈夫、です。これ以上、ご迷惑をおかけしたくありません···」
(···どうして、上手くできないの)
迷惑をかけたいわけでも、心配をかけたいわけでもない。ただ、誰にも不快に思われずに過ごしていたいだけなのに。
ーーー機嫌を損ねたら嫌われてしまう。人に合わせなければ見限られてしまう。弱味を見せたら付け込まれてしまう。
昔はそういう世界だった。だから弱みなんて見せられなかったし、相手の顔色を伺って過ごしていた。体にそう叩き込まれているんだから、いつだってそう過ごさなければならないのに。
「···迷惑なんてかけられてない。ヴェリア嬢はこうして誰かに心配されるのは嫌か?」
「···嫌、ではありません。ただ、どうしていいか分からなくなるのです」
心配する事や優しくする裏には、まったく違う気持ちがあるから。ずっとそんな風に生きてきた私には、裏の無い優しさというものがよくわからなくなってしまっていた。
「そうか。···俺からしてみれば、貴族の生活というのはどうにも生きにくくて仕方がなかった。俺でさえそう思ってたんだから、それは上に行けば行くほどなおさらなのだろうな」
「······」
何も言えない私に、デルフィランズ様は見たことのない1本の瓶を目の前に差し出した。
「これは···?」
「ポーションだ。ただかけるだけで軽い傷なら塞がる。これを使って傷口を直すといい」
「っ、でも、」
「いいから使ってくれ。そんなに高価なものでもないし、日常的にも使うものだから」
「···分かりました。ありがたくいただきます」
彼の手から薄い緑の液体が入った瓶を受け取ると、デルフィランズ様は軽く頷く。ふと気が付くと、もう先程までの体の震えは止まっていた。
「···あの、このポーションは何で作られているのですか?」
「これか?とある薬草から出来てるんだ。森にしかならない薬草だから、定期的に取りに行っている」
「森にしか···ということはその薬草は栽培はできないのですか?」
「あぁ。なぜかは知らないが栽培しようとすると必ず枯れる。魔物が世話をしている、なんて話もあるぐらいだ」
「魔物が、薬草の世話を···?」
聞いたことのない話だ。魔物にも知性があるものがいるとは聞いたことがあるが、もしも本当に薬草を育てているのだとしたら、それは一体なぜなのだろうか。
「あぁ。実際に薬草をとりにいった隊員が、ローブを被った生き物が薬草に何かをやっているところを見たのだという。ローブを被った生き物はすぐに逃げてしまったから、本当に魔物だったのか、はたまた人間だったのかも定かではないらしいが」
「そう、なのですか···」
「そのやっていた何かも、未だに何だったのか分かっていないからな。薬草についてはあやふやな話ばかりで、どこまでが本当の話なのかもわかっていないんだ。たまに報告書が上がっているが、あまり目ぼしい話はない。もしそのローブを被った生き物が何かをやっていたという話が本当なら、薬草を育てるのには何かしらの条件か、水以外の特定の栄養が必要なのかもしれないが」
「そうなんですね···。未だにその薬草は育てているのですか?」
「何度やっても枯れてしまうが、一応研究は続けている。···ヴェリア嬢は興味があるのか?」
「はい。その薬草が安定して取れれば、ポーションも作りやすくなるのですよね?」
「そうだな」
「···お役に立てるかは分かりませんが···」
「なら、時間があるときにでも外れの研究室をたずねてみるといい。メルがきっと喜ぶ」
どうやら、薬草を研究しているのはメルさんという人らしい。今度はそこにいってみよう、と心に決めながらいつ行こうかと考えていると、ふと視線を感じた。
「デルフィランズ様、あの···どうかなさいましたか?」
「行くのは構わんが、足を治してから行くように。あと、近いうちに歩きやすい靴を送ろう」
「靴ですか···?ありがとうございます。今日はご迷惑をおかけし···」
「迷惑なんて思ってない、と言ったはずだが?」
「わ、分かりました。必ず足を治してから行くことをお約束致します。···あの、このポーションは使い切りでしょうか?」
「いや?残ったら蓋を閉めておけばしばらくは使えるはずだ」
「わかりました。···本当に、ありがとうございます」
「そうだ。ヴェリア嬢、あの後書類整理してくれたんだな。帰ってみたら綺麗に分けられていたから驚いた。助かったよ、ありがとう」
「い、いえ···。デルフィランズ様のお役に立てて良かったです。···これからも、時折させていただいてもよろしいでしょうか?」
「あぁ。ヴェリア嬢の負担にならないなら頼めるか?」
「分かりました」
「ありがとう。助かるよ」
そう言って柔らかく表情を崩した彼は、とても優しい声色をしていた。
お礼を言われたのなんて、いつぶりのことだろうか。私は彼の役に少しでも立てたのだと、そう思うだけで心が少し軽くなる。
「どういたしまして」
決して無理はしないように。そう言って彼が部屋を出て行ったあとも、私はしばらくデルフィランズ様の優しい声色を忘れることができなかったのだった。




