3.断罪イベント
眼下の先には、真っ黒な海が広がっている。
(ここは2階、なら助かるかもしれない…!)
柵を握りしめ、乗り越えようとする。しかし重たいドレスを着ているせいで、酷く動きにくく、とても乗り越えられそうにない。
「こんなことしている場合じゃないのに…!」
しかし自身の姿を改めて見ると、今着ているドレスで海に入ったらそのまま沈んでしまうのではないか、とふと気が付いた。服を着たまま海になど入ったことはないが、水に濡れた衣服は驚くほどに重たかった経験が過去にある。
せめてもっと軽い服があれば。なにか他に服はないのか、と先ほど見たクローゼットを開くと、なぜか簡素なワンピースが一着入っていた。
「これなら…」
少なくとも、ドレスよりはマシなはずだ。本来ならばこのドレスは人に手伝ってもらわないと脱げないような仕組みになっていたが、胸元が大きく裂けていたため一人でも簡単に脱ぐことができた。
(早く…早く!)
アリスは急いでドレスとコルセットを脱ぎ落とすと、ワンピースに腕を通した。
体の締め付けがなくなり、とても身軽になる。
急いでバルコニーに戻り、柵を乗り越えようとした時―。
コンコン、とノックの音がした。
「アリス、いるかしら?」
(マリアナ…!?)
なぜ、彼女が。
驚きの余り、私は柵を乗り越えることも忘れて開かれる扉を見ていた。
「あぁ、いたいた。良かったわ。ふふっ、さっきは驚いたでしょう?あれは断罪イベントだからね。あなたは何も話せないようになっているのよ」
「断罪…イベント…?」
「そう、断罪イベント。だって、ストーリーはどう進むのか決まっているんだもの。お芝居と同じよ。ただ、立場は逆なんだけどね?でも私、マリアナの外伝を読む前だったからあなたがこの後どんな風に扱われるのかよく分からなかったのよねぇ」
どんな風に扱われるか、知らなかった?そもそもマリアナの外伝とは、なんの話だろう?
「何の話をしているの?」
「あぁ、ごめんなさい。ふふっ、おバカなアリス。あなたにはなーんにも分からないわよね。あなたは何も苦労しなくても、幸せが自動的に手に入るようになっているんだもの。そう、『決まっているストーリー通り』にね。…なのにマリアナときたら…あんなに優しくて良い子なのに、貴女に頼られてばかり。しまいには追い詰められて、毒に手を出して…特にルーカス殿下のルートでは不憫で仕方がなかったわ。貴女は知っているかしら?元々、ルーカス殿下の婚約者になる予定だったのはこの私だったのよ。」
つらつらと淀みなく話す姿に、背筋が寒くなる。
知らなかった。殿下の婚約者になる予定だったのは、マリアナだったなんて。
そもそもこの婚約は、幼少期に殿下が決めたことで、ほとんど王命のようなものだ。ただの公爵家の令嬢である私に、断る術などなかった。
「私、貴女が大嫌いだったから貴女が断罪されるルートはないのかって色々と調べたの。まぁ、見つけられなかったけど。…でも、ここに来たら私のもの。本来マリアナが使うはずだった毒を、アリスが使ったことにすれば…断罪ルートの完成。貴女が『話せなかった』ってことは、やっぱりゲームの中にこの『断罪イベント』は存在して、ルートがあったんだわ!」
一体、彼女は誰なのだろうか。アリスの目にはもはや、マリアナが同じ見た目のまったくの別人になってしまったようにしか、見えなくなっていた。
「…マリアナ…あなたは一体、誰なの…?」
その言葉に、ニィッと歪んだ笑みを見せた彼女は、どう見ても私の友人であるマリアナ・リーディアではなかった。
「私?私はマリアナ・リーディアスよ。ふふふ、おっかしい。私ね、何回このゲームをクリアしてもどうしても、主人公であるアリス・ヴェリアが好きになれなかったの。全然感情移入できやしない。どのルートをやっても、あなたはただ流されるばかりで、自分から行動しようとしない。ただひたすらに、優しいだけ。まるで綺麗事しか言わないお人形みたいで大嫌いだった。なのになんであんなに人気があるんだかさっぱりだったもの」
「そ、んな…」
「というか、何よその服?なんでドレスなんか脱いで…」
(まずい)
私が何をしようとしているのかバレたら、騒がれてそのまま捕まってしまうかもしれない。そんなことをされたら、私は…どうなるかなど、考えたくもなかった。
『まるで綺麗事しか言わないお人形みたい』『自分から行動しない』
彼女に言われた言葉の端々には聞いたことのない言葉がたくさんあり、全てを理解することはできなかったが、ただ1つ理解できたのは『マリアナは私のことをとても憎んでいる』という事実。
言われた言葉に、ずくりと胸が痛む。私はマリアナに、そんな風に思われていたのだろうか。
だが、傷ついている場合ではない。とにかく、殿下が戻ってくる前になんとしてもここから脱出しなければいけないのだ。
「なによ、お人形みたいにすましているくせに、そんなに辺境伯に嫁ぐのが嫌なの?なら海にでも身を投げたら良いんじゃない?ふふっ、でも貴女は誰のルートでも自分は安全圏にいて、必ず相手だけを送り出していたものね。自分の身を危険に身をさらす真似なんて、できやしない。相手が死んでしまうことだってあったのに、貴女は呆然とするばかりで腹が立ったわ。こんなことをいわれたって、どうせ貴女は理解できないんでしょうね。だって貴女は所詮、一人じゃ何にも決められない『ただの人形』なんだもの。結局貴女はいつだって、1番自分だけが可愛いのよ!」
「…は、」
「え?何?聞こえないわ」
「私は…っ!人形なんかじゃないっ…!!!」
私は柵を握りしめると、体を外へと―海へと、投げ出した。
「なっ――!!!?」
マリアナの驚いた声が、部屋から漏れる明かりが、一瞬で遠くなっていく。
耳に残るのは、風を切る音。
私の体はどこまでも、落ちていって―水飛沫と共に、真っ黒な海へと沈みこんでいった。