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ノクティノス

作者: 倉科さき

 人間に仲間を殺された月が静かに浮かんでいる。

 早く寝なければ眠れなくなると分かっていながらついつい夜更かしをしてしまうのは、きっと人間の性という奴なのだろう。

 あと5分、ここが終わればを繰り返し、気がつけば時計の針はてっぺんを通り過ぎてしまっていた。


 喉の渇きを感じてリビングに降りるが、案の定家族は寝ているようで父のいびきが時折聞こえてくる以外は物音一つしない。

 緩やかに体温を奪う秋のひんやりとした空気に対抗するように熱々のホットミルクを作る。私は猫舌なため熱々にする必要はないのだが、白い丸の輪郭をぼかす湯気のせいで朧月のように見えて、手の内に暖かい夜を持っているようで好きなのだ。……結局は氷を入れて冷ましてから飲むのだが。


 秒針が動く音だけが響く薄暗い部屋でぬるいミルクを啜る。こうしていると世界に私一人だけなような気がして、無性に寂しくなってしまうのだ。



 ――夜更かしをした者は、孤独感と名付けられた監獄に入れられる。


 囚人が無事に釈放されるには眠りにつく必要があるのだが、今日の看守は随分と頑固なようだった。刑期を縮めようと何匹もの羊を柵の反対へ追いやったところで、悪足掻きを嘲笑うように眠気は一向に訪れなかった。


 仕方がないとため息をつく。今から行うのは寝て気を紛らわせるなんて健全な方法では無く、言わば脱獄だ。看守をなぎ倒して無理やりに孤独感から解放されるための常套手段。後で結局後悔することにはなるが、刑罰に苦しむよりはマシだろう。

 教科書と参考書が並ぶ本棚の端。異質な空気さえ醸し出すその本の表紙にあるのは、優しいタッチで描かれた水面から月に手を伸ばす少女の絵と、「やさしいよる」の文字。

 端はよれ、開きぐせも着いていて、紙が日焼けをしてボロボロな有様でありながら大切にしまい込んであったそれをそっと取り出す。


 窓をあけると冷たい風が頬をなぞる。せっかく温めた体が冷えるのもお構い無しに、むしろ火照りが鎮まることに心地良さすらも感じて、窓枠に腰掛ける。名前も知らない虫がリリリと歌う。いつの間にか小さくなった表紙を捲り、そらで言えるほどに繰り返し読んだ物語の始まりをなぞる。


『夜は、私の神様だ。

 夜は、ありのままの私でいることを許してくれる。

 人に気を使って、自分を殺さなくてもいい。

 輪郭を持たない不安を、闇に溶かして見えなくしてくれる。

 ただ、幼いままの感情で泣くことを許してくれる。

 でも、夜は恐ろしい。深く深く暗い空はふとした瞬間に全てを飲み込んでしまいそうで、大切な物を奪って行ってしまいそうで、底の見えないどこまでも続く黒を、私は畏れているのだ。

 優しくも恐ろしい、そんな夜が大好きだ。  夜に包まれていれば、同じように笑顔の裏で泣いている人も救われるはずだから。

 夜は、みんなを繋げてくれるから。


 ある三日月の夜、私は気づいてしまった。あの月は、誰かに笑いかけている。夜は、私だけの神様な筈なのに。どうして、私の方を見てくれないだろう。


 いやだ、頭に浮かんだのはその一言だった。夜を、神様を、独占したい。誰よりも近くにありたい。初めて抱いた衝動は熱がこもり過ぎていた。ドクドク、心臓が思いを消化するために血を送り出すものだから全身が熱くて、焼け焦げてしまいそうだと感じた。


 そうだ、夜に溶けてしまおう。水面の夜に身を投げて、空に浮かべば、きっと。


 そうして、1番大きく夜を映す海の元に走った。

 夜に飛び込んだら、夜が揺れた。無駄なことをって笑うようにさざめく。夜が、見えなくなってしまう。こんな私に追い打ちを掛けるように雨が降り出して、夜がいなくなってしまった。

 ざあざあ、雨音は頭を伝って脳にノイズとなって響く。体温を奪う雨と海のせいで思考がまとまらなくて、そのくせ頭だけはやけに熱くって、苦しくて逃げ出したくて、胸の奥に感じる嫌な塊を置き去りにしたくて、もがくように足を進めた。


 ずぶ濡れになりながら陸に上がる。灰色の雲が夜を隠してしまっていた。夜が姿を隠すならば、と諦めて帰ろうとしたその時、突然の波に足を取られてしまう。


 ぱしゃ、と音を立てて尻もちを着く。濡れた砂が手に張り付いて、何となくそれが「行くな」と言っているようだった。


 その予感に従ってしまったせいだろうか。今度は大きな波に呑まれてしまう。沖合に引きずり込まれて、焦ってもがくほどに体が沈んでいく。息が上手く出来なくて、思い浮かんだのは月の見せた笑顔。


 初めから、月は……夜は、私だけの神様ではなかったのだろう。そう気がついた時には、夜空とは違う全てを飲み込もうとする昏い海に沈みこんでいた。


 溶けるように深く海に沈むなか、私は海の中に夜を見た。


 海底から立ち上る気泡が、いつの間にか顔を出していた陽の光を反射して煌めく。その中にひとつ、私の口からこぼれる息が合わさって、私は思い出す。独り、感情を閉じ込めた雫がせめてこぼれ落ちないようにと上を向いた時、濡れて歪む視界を眩しいほどに照らした星空。その星空の美しさに心を奪われたのだった。


 どうやら海は、私を連れ去ろうとしたのでは無く、タイムカプセルのように閉じ込めた私が初めて夜に恋をしたあの日を見せようとしてくれたらしい。

 海さんは言った。


「夜は変わってしまった」


「誰にでも公平に、太陽のない時を恐れず済むようにと優しく皆を包み込んでいた夜は、一等輝きの強い星々を月の周りに集めて、そのまま居なくなってしまったんだ。

 後任の夜も悪いやつじゃないんだろうけど……やっぱり僕は前任こそ夜に相応しいと思う。

 それに、君が恋しく思ったのも、前任の方の夜なんだろう?」


 海さんは一拍置いて、私に提案してきた。


「どうだろう。君が望むと言うなら、前任の夜を探すのに協力するよ。君には縁があるみたいだし。ただその代わり、1つお願いがあるんだ」


 海さんは真剣な顔をして「お願い」の内容を言う。


「ミツキという少女を探して欲しい。ふわふわした見た目でかるい喋り方をする子なんだけど、夜が代替わりをする時にいなくなっちゃったんだ。彼女も夜に焦がれていて、それで探しに行ったのかもしれないんだけど…… 

 もしも彼女に出会えたら、そして彼女が望むのなら、ここに連れて帰って欲しいんだ」


 私が頷くと、海底から地響きのような音が聞こえた。

 海は渦を巻いて高く高く登ってゆき、そして私を空高く打ち上げた。


 先程まで私を包んでいた海の匂いすら置き去りにして、どんどん空に、月に、夜に近づいて行く。少しずつ速度が落ちる。そうして月に手が届きそうな程に近づく頃には動きが止まり、足元を見て驚いた。私は、夜空に立っていた。


 空の上には不思議な世界が広がっていた。辺り一面全て、自分すらも見失いそうな程の暗闇と、遠くに浮かぶ星々。そして、目の前にはたくさんのスワロフスキーをあしらったアクセサリーのように星に取り囲まれた月が照らされ、煌々と輝いていた。


 神秘的な光景に見とれていると、何も無かった暗闇に人が現れる。昔どこかでみた天女様が着ているような服装をした女性は、こちらを見ると問いかける。


「あんた、どこの子?なんでここに来たわけ?

 ここは夜の、月と夜空の星々を司るあたしの領域よ。用がないならとっととあるべき場所に帰って。迷い込んで帰れないなら帰してやるから」

「貴方が夜なのですか?」

「そうだけど……あたしに何か用?あ、もしかしてあのひとからの使者とか?」


 語尾を弾ませて問いかける後任さんに首を横に振ることで答える。


「いえ、前任の夜さまを探していて。どこにいらっしゃるかご存知ですか?」

「なんだ、ちがうの。てか、前任の居場所とかあたしの知ったことじゃないわよ。急に引退するとかいっていなくなっちゃったんだから。太陽なら知ってるんじゃない?性格は真逆なくせして仲良かったみたいだし」

「では太陽さんを尋ねてみます。ありがとうございました」


 ぺこりと一礼して、その場を去ろうとすると、さらに後任さんが声をかけてくる。


「太陽に会いたいなら明日にしな。そしたら彗星便ですぐだよ?てか、あたしも前任に用あるし着いてく」

「そう、なのですか?では、よろしくお願いします」


 それから後任さんは寝床に招待してくれた。かに星雲をモチーフにしたベットはふかふかで、顔を埋めてみると、かにだからなのか水のにおいがする。可愛らしいベッドを堪能していると、後任さんが話し出す。


「あたしさ、大事なひとがいるんだよね。大好きで、いつもそのひとの事考えてて、ついつい目で追いかけてて……なのに、顔も名前も、どんなひとだったのかさえ思い出せないの」


 では、先程言っていた「あのひと」とは誰なのだろうか。疑問に思うと、顔に出ていたのか後任さんが答える。


「『あのひと』は、あたしの大事なひと。あたしはあのひとの事覚えてなくても、もしかしたらあのひとはあたしの事覚えててくれて、それで迎えに来てくれたらいいな……なんて都合のいいこと考えてただけ。忘れといて自分勝手なハナシだよね」

「いえ、その……愛しい方に焦がれる気持ちは分かりますから。迎え、来るといいですね」

「うん、そうだね。あのひとにまた会えたら嬉しいなって思う」


 後任さんは寂しげに俯いて、話題を変えるためにか、それから思い出したように尋ねます。

「聞きたいことがあるんだけど」

「なんでしょうか」

「あんたは一体何者?少しでも縁がなければどんなに願ってもここには来られないはずだし、もし来れたとしても何かしら体に不調をきたすはず。私が初めそうだったみたいに。それなのにあんたは、まるで初めからここにいたみたいに平然とここに立ってる。おかしい。なんで?」

「それは……私にも分からないんです。気がついた時には私は野原にいて、夜空を見上げていて。それ以前のことを思い出そうとしても、どこかに落としてしまったみたいに思い出せないんです。言いしれない不安を溶かしてくれた夜への憧憬と、大切だったはずのなにかの喪失。それ以外に、私が私について分かることはないんです」


 お互い、大切なものが見つかると良いねと後任さんが言って、私がそれに頷いて。それから後任さんの愚痴を聞いていたら、気がつけば翌日になっていた。ここは太陽も登らなければ月も沈まないが、代わりに定期的にくる彗星便で時間を知るらしい。


 朝焼け色の彗星に2人で乗り込めば、滑るように流れ出す。見渡す限りの星々は視界の黒を塗り替えるように線になり、まるで流星群の中にいるようだと感嘆の声を漏らす。逆だよ、と笑う後任さんの声すら置き去りにして、ぐんぐん大きくなる太陽へと向かって行く。


 それからしばらくして、という程の間もなく太陽に着いた。太陽なのだから暑いと思ったけれど、日向のように暖かさがあるだけだった。太陽さまはどこにいらっしゃるのだろうと尋ねようとして後任さんの方を向いた直後、肌を刺すような熱に襲われた。何事か、と顔を前に向ければ赤とオレンジの燃え上がるような服を着た男性が立っていた。


「あんたら、何の用だぁ?もしかして監視役が来ちまったのか!?い、一応ちゃんと仕事はしてる、ぞ?」

「いえ、そうではなく」

「なんだよビビらせやがって。んで、監視じゃねぇってのなら何の用だ?」

「私、夜さまを探していて」

「夜?夜ならそこにいるじゃねぇかよ。恋する乙女の夜さんがよ」


 太陽さまは、なんと言うか話を聞いているようで聞いてくれない方だ。話の途中で答えてしまうから最後まで言い切ることが出来ない。上手く伝えられなくて困っていたら、後任さんが私の代わりに要件を伝えてくれた。


「この子が探してるのは前任の方よ」

「前任?ああ、あいつは引きこもっちまったからなぁ」

「あの、夜さまはどうして夜をやめてしまったのでしょうか」

「なんだ嬢ちゃん、あいつに興味があんのか?」

「はい。夜さまのこと、ちゃんと知りたいんです」


 そんなら教えてやるよ、と前置きして太陽さまは語りだしました。


「あいつはとにかく優しいやつでな?困ってるやつはほっとけねえし、誰よりもみーんなの幸せを願ってる奴だったんだよ。でもなぁ、いや、だからって言うべきか。暗い夜の時間を自分の分身とも言える月自身が照らしてやれない事をすげぇ気にしてたんだ。俺は優しい月明かりもいいと思うぞって言ったんだが、納得行かなかったみたいなんだ。

 それでこの前、星月夜だった日に夜を辞めちまったんだ。あいつがあまりにも思い詰めたカオしてたから、俺も止められなくてな」


「それであたしが後任ってことにされたって訳ね」

「ああ、そういうこった。嬢ちゃんはこれで満足か?」

「そう、ですね……なんだか、軽い気持ちでやって来てしまった自分が恥ずかしいです。でも、夜さまに会いたいと、私の思っていることをきちんと伝えたいと、そう思いました」

「そうかい。じゃあ、あいつの居場所を教えてやるよ。あいつは今、エータ・カリーナに居る」

「エータ・カリーナ……ですか??」

「俺よりも何万倍も明るい星だ。あいつらしいっちゃらしいけどな。だが、あの星はしょっちゅうガスやらで隠れちまうから探すのも大変だと思うぜ?」

「構いません。教えてくださり、ありがとうございました」

「おうよ。そうだ、ついでと言っちゃあなんだが、あいつにあったら『お前がいなくてもこっちは平気だ』って伝えといてくれ。これでちったぁあいつの肩の荷も降りんだろ。」

「そうはいかないでしょ。前任からちゃんと仕事のやり方聞かなきゃなんだから。……でもまぁ、引き継ぎが終わったら今まで頑張ってた分位は休んでもいいんじゃない?」


「……!ありがとうございます」


 一瞬、おふたりの言葉の意味がよくわからなかった。いなくてもいい、とかそうはいかない、とか厳しいことを言っているけれどその声色は柔らかで。しかし、おふたりの優しい表情からおふたりが夜さまを大切に思っていることは、出会って間もない私にもよく伝わってきた。

 緩んだ空気に思わず私も緊張が解けて笑顔になって、太陽さまの持つ温もりに送り出されて夜さまの方へ向かい出した。


「居場所がわかったとは言え、そこら中にある星の中からどうやって探せばいいのでしょうか」

「あ、それならあたしにまかせてよ。良い案があるんだ」

「それは…」


 どういうことですか、と訪ねようとした時、後任さんの雰囲気が変わる。

 一つ息を吐いただけ。たったそれだけの事しかしていないにも関わらず「目の前にいるのは同じ見た目の別人だ」と錯覚してしまうほど、目の前の女性は今までの後任さんからかけ離れていた。しかし、この雰囲気には覚えがある。私の焦がれてやまない前任の夜さまが生み出す夜空。美しく、昏く、暖かいのに冷たい印象を受けるその姿は、本来の「夜」らしい彼女の姿なのだろう。


「夜に属する者よ。闇を照らす数多の光点よ。わが呼び掛けに応えよ。闇夜の化身たる吾が呼びかける。雲隠れの星、エータ・カリーナ。其の姿を現せ。其の元へ導け」


 桃色の唇から紡がれる言葉は呪文のようであり、命令のようでもあった。彼女の呼びかけに応えるように……いや、実際に応えたのだろう。星々は集まり、道のようになった。


「天の川って言ったら恋人を引き離すものだけど、2人とも一生懸命頑張ってるんだから引き合わせるために使ってもいいじゃん?」

「すごい……」

「そんな興奮するほどのことでもないと思うけど」


 思ったことが口からこぼれただけですと言うと、夜さんは顔を背けてそのまま早足で前を歩きだしてしまった。夜さんを追いかけて、どこまでも続く黒の中を歩く。果てが見えない暗闇は、足を踏み外せばもう戻れないのでは無いかとすら思える。それでもこの闇を恐ろしいと思わないのは、眼前の夜さんの足取りがあまりに自然であることと……それから、夜さまがずっと闇を恐れないようにと照らし続けていてくれたからからなのだろう。


 果てしない黒から切り取られた白妙(しろたえ)の帯を歩きながら、物思いにふける。私がなにかを言ったとしても、夜さまの心にはまるで響かないのではないだろうか。人々の心までを照らすという重責からようやく解き放たれたというのに、私が行くことでまた苦しい思いをすることになるのではないか。そう考えると、足取りが重くなる。周囲の景色が変わらないことも相まって、前に進めているのかすらも分からない。


 違う、私は首を振る。私は、夜さまに伝えたいのだ。無力感と得体の知れない喪失感と共に生きてきた私にありのままでもいいと思わせてくれたことへの感謝と、涼やかで心穏やかな時をくれる夜へ恋い慕うこの気持ちを伝えたい。形を変えても、姿が見えなくてもなおそこにいて、静かに夜の時を照らしてくれた彼に。


 そう思いなおして、改めて歩み出す。それから少しして、空気が変わったのを肌で感じる。全てを拒絶するような、それでいて求めるような、そんな矛盾を孕んだ悲しげな空気がそこにはあった。


 ひとつ、息を吸う。心臓は耳元に移ったのではないかと錯覚するほどにバクバクとうるさいし、言葉が出るのを阻止するように口の中は乾いて張り付いている。それでも、海に向かって飛び出した瞬間から変わらない、彼に会いたいという一心で言葉を紡ぐ。


「エータカリーナさま。いらっしゃるのですよね。お姿を、見せていただけませんか?」


 か細く震えた声だったが、何とか届いたようで星を隠していた雲のようなガスが消えていく。そこから現れたのは、濃藍の男性。彼の纏う雰囲気に、尋ねるまでもなく彼が私の求めていたひとだと分かった。


「貴女は、クロノスの…」


 夜さまは私を見て驚いた顔をする。焦がれたひとの第一声は予想だにしなかった言葉で。クロノス、初めて聞いたはずのその響きには覚えがあった。心の内で復唱すると、とても懐かしいような、昔捨ててしまった大切なものに再会したような気持ちになる。


「夜さま。クロノスとは、一体なんでしょうか」


 私の問いかけを聞いた彼はあ、と悲しげに小さな声を漏らす。


「クロノス…いえ、プルートと呼ぶのでしたか。地球の島国の言葉で言えば冥王星の事で……」


 今から禁忌を破る。そんな風に顔に書いてあった。彼は一呼吸おいて、悲しげに、苦しげに、辛そうに口を開く。


「貴女の、ことです」

 

 驚きと、懐かしさと、苦しさと、愛おしさ。それらが綯い交ぜになったような、甘苦い感情が私の心を満たした。

 

「惑い星であって惑い星でないもの。(つね)なる輝きを宿す日華の星のみを(しるべ)として惑う八つ星をなぞらえて生まれ、八つ星の外を巡る星。

 それが、かつての貴女です。と言っても、困らせてしまうだけかもしれませんが」


 これは、言祝ぎだ。わたしがうまれたときに聞いた言葉。私がわたしを辞めた時に置き去りにした言葉。その言葉に引き摺り出されるように、私は全てを思い出した。


 私がクロノス……わたしとしてうまれたこと。八つ星たちの外側を生きて、長い間そばにいたのに、彼女たちとは『ちがう』とされたこと。それが苦しくて、受け入れられなくて、わたしは逃げ出したこと。それから、どういう訳か地球に落ちて、そして、今に至ること。


「貴女の苦悩が分かるから、私情を……貴女を想う気持ちを捨てて送り出したというのに。どうして戻ってきてしまったのですか」


 彼の苦しげな顔と言葉に、ひどく心が揺れた。言葉の意味を理解しようとすればするほど、全身が熱を持つ。思考が、まとまらない。それでも、伝えなくてはと。その目的だけは、明瞭なままだった。


「夜さまが、いなくなってしまったから。あなたに、会いたいと思ったから。あなたを、あなたのことを……愛おしいと、思っているから。

 あなたの優しさを、暖かさを、強さを、弱さを、その全てを、今の私も、昔のわたしも、愛しているんです、って。そう、伝えたくて」


 途切れ途切れの言葉たちは、一度口を開いたら止まらなくて。幼子のような必死さで、ああ、それでもやっと伝えられた。


「私よりも小さなからだで、私よりも寒々しい所で、私よりも長いあいだ。ずっとずっと、ひとりきりで姉と慕う惑い星たちを導こうとする貴女に、愛おしいと思ったのです。」


 彼が返してくれた言葉は甘く染み入るようで。私が地球に落ちた意味を、やっと理解した。――だって、地球からじゃないと月は見られないから。』


 パタンと裏表紙を捲って、これでこの物語はおしまいだ。

 すっかり冷えてしまった体を温めるためにまた満月のようなホットミルクを飲もうと立ち上がって、ふと窓の外を見る。

 東京の高い建物に切り取られた狭い空の中で。冥と月…転じて明月は、今も頭上で輝いている。


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[良い点] 作中に登場してる物語の中の展開がめちゃくちゃ凝ってて、その上でちゃんと最後に締め切ってるのは純粋にすごいと思いました。いや、もうマジで。どうすればこんな素晴らしい文章を綴れるのか小一時間問…
[一言] 幻想的な世界観に魅了されました。 夜を追う「私」と、私を手助けしてくれる人々(?)、そして彼女が行き着いた先の真実。 地の文の記述がまた綺麗で、とても好きです。 夜は何故あんなにも人を魅了す…
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