【自由の味】
「すまない。君がレジスタンスだと言った」
「もう。変な事言って真面目な人を揶揄わないで!」
「揶揄った?」
「そうよ。この人、ドイツ軍人として優秀で私たちフランス市民のために尽力して下さる好い人なのですが、少々悪戯が過ぎる所があります。御無礼があったなら私からも謝ります」
「でも君はレジスタンスなんだろう?」
「そんな……。ちょっと待ってくれる?」
ジュリーは、ゆっくりと手を放して店の奥に向かい、俺はおとなしくドアの前で立ったまま彼女を見ていた。
ジュリーは店の裏口から入って来たときに柱に引っ掛けた鞄に手を掛けて、何かを取り出そうとしていた。
彼女がレジスタンスなら、ここで取り出すのは、おそらく拳銃。
FG42自動小銃こそ本部に置いて来たものの、俺の腰にはまだワルサーP38がある。
だが、俺の手はP38に手を掛ける事もせず、彼女の行動を見守っていた。
鞄から何かを取り出したジュリーが俺のところに戻って来る。
手に持っているのは身分証明書。
「私は、フランス軍政局に雇われているの」
「つまり身元が確りしていると言うことだ。彼女は俺の仕事も手伝ってくれている」
俺に殴られて倒れていたオットー中佐が起き上がり、彼女がフランス軍政局の現地連絡員である事を説明した。
「御免なさい中佐が変な事を言って。機嫌を直して叔父の美味しい料理を食べていって」
ジュリーが俺を席に着くように促すが、その前に確かめたい事が有ったので聞いた。
「さっきは何をしに行っていた」
彼女がレジスタンスであれば、中佐と俺を捕まえるために仲間に連絡を取るはず。
そのために地下室へ降りて行った可能性もある。
「これを取りに行っていたのよ。地下にはワインの貯蔵所があるの」
ジュリーはカウンターの奥に置いて来たワインを取り出して見せた。
1937年物のシャトー・ラトゥール。
ワインの知識は左程ないが、戦争が始まる前、最良のワインが出来た年の物であることくらいは知っている。
「さあ、座って頂戴」
ジュリーに促されて席に着く。
「叔父さん。今日は私のお友達のために一番美味しい料理を振る舞って頂戴!」
叔父さんと呼ばれた料理人は寡黙な人らしく、ジュリーの言葉に優しく微笑んで手を上げると、ジュリーも厨房に手伝いに行った。
「中佐、すみません。つい」
「構わんよ、あんな事件があったから、君がレジスタンス擁護者かと思って、つい試してみたくなって……すまなかった」
「いえ」
「レジスタンスが嫌いなのに、何故あれほどまでに大胆な行動を?」
「大胆?」
「そう。周りは皆、親衛隊の蛮行を見て見ぬ振りをして通っていただろう」
「戦争中だから思っていることも口に出せず、行動にも出せないけれど、見て見ぬ振りをして通り過ぎていった仲間たちも皆思っているんですよ」
「何を?」
「人間として、良くないことだと」
「だったら何故彼等は君の様に行動しなかった?」
「軍人だから。軍隊の規律を守らなければならないからです。つまり上官には逆らえないでしょう」
「騎士鉄十字章を受章している模範的軍人の君が、こう言ってはなんだが軍曹の分際で親衛隊の少佐に逆らったのは何故なんだ?」
「確かに幾つもの戦場でベストを尽くした結果、騎士十字章を貰う事になりましたが、それは只の結果に過ぎません」
「結果に過ぎないとは意外だな。皆勲章を狙って頑張っているんじゃないのか?」
「そう言う人も居る事は確かでしょうが、俺の知る範囲では殆どの兵士は自分や仲間たちが生き残るために必死に戦っているだけです。敵を何人殺したとか戦車を何輌壊したとかは忌わしい記憶でしかないです。最も重要な事は、戦いが終わった後、仲間の笑い声が聞けることなのです」
「戦場に出ない誰かさんには分からないことね。御立派だわ」
御馳走を持ってきたジュリーが俺たちの話を聞いていたらしく褒めてくれた。
「有り難う。でも褒めるのは俺と一緒に並んでくれた兵士たちと、俺の行動を予測して中隊長を呼びに行ってくれた分隊の仲間たち、それに中隊長の呼びかけに応えてワザワザ来てくれた中佐に言ってください。俺はあの時、分隊の仲間を1人亡くして半ば自暴自棄になっていただけですから」
「仲間思いなのね」
いつの間にか伸ばされたジュリーの指が、俺の手を弄んでいる事に気付き焦った。
「そ、それはドイツ人もフランス人も同じです」
「乾杯しましょっ!」
ジュリーがシャトー・ラトゥールをワイングラスに注ぐ。
「じゃあ、ルッツ軍曹の栄誉のために」
「違うわ、オットー」
ジュリーが中佐の言葉を遮る。
「じゃあ、ドイツ帝国の栄光のために」
「それも違う」
「フランスの栄光のため?」
「オットー……どうして、そう栄誉だの栄光だのに拘るの?もっと大切なものがあるでしょう」
ジュリーは大佐の事をオットーと呼んだあと、俺に同意を求める様に少し悪戯っぽい目をして俺を観た。
ジュリーの目が、俺に乾杯の音頭を託している。
俺はグラスを持ち手に取って言った。
「自由のために!」
オットー中佐もジュリーも俺の言葉を快く迎え入れて復唱してくれる。
「自由のために」
「自由のために」
唱和し終わると軽くグラスを持ち上げて、各々に対して黙礼を交わし口に運ぶ。
さすがに戦争が起きる前の当たり年の最高級ワインだけあって、まるで夢の中に誘う様な芳醇な香りが漂い、口の中で転がすと力強さと優雅さを兼ね備えたボルドー産独特の自己主張があった。
“これが自由の味だ”
意思を持つ人間には、この戦争で国から数々の自由が束縛されているというのに、食べ物や飲み物はその人間に自由を与えてくれる。
例えば冬の東部戦線で凍える体と心を癒してくれるのはティーゲル戦車でもなければ将軍からの激励でもなく、一杯の暖かい飲み物。
たとえそれが白湯であろうとも、凍てついた心の芯から温めてくれる。
たった1杯の飲み物など、戦争の役には立たないというのに、何という矛盾なのだろう……。