空き箱に愛を残して
あたかもそこだけ空間が違うかのよう。
──そう思ってしまったのは、二つ並んだ右側の椅子に座った一人の女の子のせいだった。
人気の無い独特な静けさが包む木造の駅。
開けにくい待合室の扉を開けた途端、不意に時間が止まってしまった。
ここに似合わないデジタル時計は、七時十四分を示している。
桜の空気が少しだけ混ざった冬の風だけが、先に室内へと流れ込んで彼女の髪を揺らした。
制服の袖を少しだけ引っ張って、微かに身体を震わせたのが見えてやっと我に返る。
「あ、寒いですよね。すみません」
「いえいえ、大丈夫ですよ」
どんな表情をしたらいいか分からない僕と、顔を上げ柔らかく微笑んだ彼女。
これが二人の出会いだった。
勤め先の会社は新年度前恒例の異動があり、一人こんな田舎支部へと飛ばされた。入社してまだ数年の自分が何故、そう思ったが本社からの通達には逆らえない。
そうして僕は夜空の星が良く見えるこの町へと足を踏み入れた。
それから毎日、彼女と同じ方向で同じ時間の電車に乗って帰る事になった。
彼女は僕が降りる駅になってもまだ、イヤホンを付け窓の外を眺めている。何駅先で彼女は降りるのだろうかと気になり始めたのは、同じ電車に乗った三回目の時。
あれ以来電車の待ち時間もただ空いている左側の椅子に座って、話しかける事も出来なかった。
唯一会話をしたのは最初に会った時だけ。
彼女の隣に座る事に、抵抗がなかった訳では無い。それでも、いつも待合室の扉を開けると鞄を避けてくれるので、厚意に甘える事にした。
そんなある日、いつもの様に待合室に入ると足元に落ちた何かに気が付いた。
拾い上げるとそれが学生証で、写真が目の前に座った彼女と一致する。そこですぐ声を掛けて渡せば良かったのだが、写真横の文を見逃す事は出来なかった。
学校は会社に一番近い小さな高校で、来月には三年生になる事すら分かってしまう。
宮本詩織、そう氏名の欄には記入されてあった。
「あの、これ落としてたりしません?」
「え......あ、本当だ! すみません、ありがとうございます」
見ていた単語帳らしき物を急いで閉じて、鞄を雑に探る所に純粋な気持ちが芽生える。僕が知る限り普段から物静かで、全くの偏見ではあるがお淑やかな子なのだろうと思っていた。
そんな彼女の隠れた一面を見れた事が何故か嬉しく、可愛らしいと思ってしまった気持ちはどうしようか。
たった今ようやく名前を知った相手で、一瞬の感情なだけだと自分を落ち着かせる。
それなのに申し訳なさそうな笑顔を見せる彼女を見るとまた鼓動が早くなった気がした。
それがたとえ他人を不快に思わせないだけの外面でも、そこにすらその人らしさは出る物。
「あの......最近いつも一緒になりますね」
「え、あ......そうですね」
「お仕事でこんな所に来たんですよね」
「え......?」
ずっと悩んでいた壁をすんなり壊した彼女に、思っていたよりも見透かされてるらしい。
......それもそうか。
朝は小鳥が歌を歌い、夜は月明かりが一番輝くこの場所に、若者が好んで来るとは思えない。そうすれば僕に話を聞かなくても、彼女は自ずと答えに辿り着くわけだ。
「まぁ、そんな所です」
せっかくこっちを向いてくれているのに、目を合わせるだけの自信は生憎持ち合わせていない。
けれど、それからお互いが打ち解けるまで時間はかからなかった。
「私、人見知りなんですよね──」
なんて彼女が言っていたが社交的で明るい部分は、自然と会話を弾ませるのに十分だった。
今日学校で何があったか、今日会社で何を言われたか。境遇は違えど他人に自分の話をして、他人の話に相槌を打つ。
ただそれだけの事が楽しかったんだ。
僕は彼女の名前を知っているのに、彼女は僕の名前を知らない。距離だけが近づいた一週間が過ぎた頃には、挨拶の仕方も話し方も変わっていた。
「あ、お兄さん今日ギリギリですよ?」
「上司に捕まっちゃってさ」
お兄さんと呼んでくれる彼女の事を、名前で呼んでしまいたい。けれど出来ないそんな事。
手間取っていた待合室の扉も、ようやくすんなり開ける事が出来るようにもなった。
──彼女は僕の事をどう思ってるのだろう。
不意に彼女の綺麗な横顔を見た時に、初めて心の内を知りたいと思ってしまった。
何も思っていない、ただの話し相手、一緒の電車に乗るだけの人、下心があって近づいてる男。
マイナスなイメージの表現はいくらでも浮かぶ。じゃあもし、自分にとってプラスなイメージをしていたとしたらどうなるのか。
......ないない。
これが日本人のいけない所だと、いつか観たテレビ番組で話していた気がする。そんな事言われたとしても誰かを──自分が気になってる相手にはポジティブになんてなれない。
まだ知り合ってから二週間。
知ってる事よりも知らない事の方が多く、そんな関係性の状態では無理もないだろう。
でも......二つだけ。
いつも彼女がする行動が心を惑わせ、勘違いしてしまいそうになる。
打ち解けた後から帰りの電車でも、彼女は隣に座ってくれるようになった。そして降りる駅に到着して電車を降りてからも、窓から控えめに手を振って来る。
今仲睦まじく笑う夫婦も、手を取り合って笑うカップルも、お互いが気付かない両想いも。
皆、同じ事を経験してるはずだ。
だとするならばこの気持ちは恋なのかと、自分に問いても答えは分からない。モヤモヤした気持ちのまま、あっという間に一週間が経ってしまった。
後また一週間も経てば学生は春休みで、一ヶ月ほど顔を合わせる事が無くなってしまう。
──寂しい。
確かにそう思った。彼女と毎日顔を合わせていた時間が無くなり、孤独になると知った途端息が苦しくなる。
だが一ヶ月待てばまた会って話をして、今よりも仲良くなれるかもしれない。
そんな淡い希望も僕にとっては大切な物。
「今日の体育は凄い疲れたんですよね......」
「いつもより元気無いもんね」
「え、本当ですか? 分かられてたのはさすがに恥ずかしいな......」
電車が線路を走る振動で身体が揺れ、時々にどちらからともなく肩が触れ合う。
明るい車内から見る窓の外は、いつまでもトンネルの中の様に黒一色。この景色も、もう見慣れたものだ。
──突然左肩に重さを感じる。
それと同時に少しだけ首を左に向けた事で、濃くなった匂いが直接頭を殴り付けて来た。
彼女の頭が左肩に乗り、僅かに聞き感じ取れる呼吸は、確実に寝ている時のそれで。
このまま電車が止まることなく、どこまでも走り続けて欲しい。そう願った事に時間差で気が付いた僕は、もう一つ気が付いたんだ。
僕は、間違いなく彼女──宮本詩織に恋をしている。
電車がもう間もなく降りる駅に到着する。
寝てしまった彼女は起きる事はなく、未だに左肩に頭を乗せながら目を閉じていた。起こさなければ降りることが出来ない。
だが、起こしてしまうのは申し訳ない気持ちがある上で、このまま......という気持ちもある。
考えてる間に電車は速度を落として停車した。
その拍子に大きく横揺れが起きてしまい、彼女が目を覚ましてゆっくり身体を戻す。
──あぁ。
「ん......え、あ......すみません......もしかして私寝ちゃってましたか......?」
「余程疲れてたみたいだね」
「ここは......お兄さんが降りる駅じゃないですか? 早く降りないと!」
そう急かされそのまま立ち上がって、誰も居ない静かな駅に降り立ってしまった。
急いで振り返るともう電車は動き出していて、窓を幾つか追ってやっと彼女を視界の端に捉える。
手を振っていなかったんだ。
手を振らないで窓に両手をつけて、じっとこちらを見つめている。さっきまで寝ていたからだろうか、その瞳に駅の小さな灯りが反射して見えた。
次の日、仕事が終わり待合室の扉を開けると、空いた椅子が一つではなく二つ。
いつも居た彼女の姿は無かった。
朝の電車で同じ学校の制服を着た子を見かけたから、春休みでは無いはず。どうしたのだろうか──こればかりは気にしてしまい、何となく椅子に座る事が出来ない。
体調を崩したのだろうか、早く帰ってしまったのだろうか、事件に巻き込まれたのではないか。
やはりマイナスな事は浮かび止まない。
連絡先も交換していなければ、彼女との繋がりなんてここだけだった事を目の当たりにする。彼女の事を考え待つ事、それしか僕には出来ない。
結局いつもの電車が来る時間になっても、彼女は姿を現さなかった。
その次の日も彼女は居なかった。
またその次の日も、次の次の日も。
いつまで経っても彼女は待合室には来ず、あの日から一度も会う事が無いまま一ヶ月が経った。
待合室の扉を開けて中を覗いたが、やはり彼女の姿は無く、春の風を塞ぐように扉を閉める。
何処へ行ってしまったのだろうか。
悲しみがこもった溜息も、この静かな駅では誰の耳にも届かず孤独を包み込んでくれる。
今日の夜空は雲に覆われている。
ふと並んで飛ぶ番の鳥を見て、思いついた事をすぐに行動に移した。
待合室に入りいつも左側の椅子に座っていたのを、彼女が座っていた右側に座ってみる。
......なんだあれ。
右側の椅子に腰掛け、正面を見てから普段自分が座る方を見ると気になる箇所が。
古びた煤けた色の柱に色が違う所があった。
立ち上がりその色違いの部分に触れると、そこは木では無く何かの紙か貼り付けられている。
......一体誰が?
なんの紙なのだろうか。
ゆっくり丁寧に柱から剥がして、二つ折りにされた小さな紙を開いた。
『お兄さんならこれを見つけてくれると思って、
ここに私の気持ちを記しておきます。
最初から私もお兄さんと同じ気持ちでした。
またいつかどこかで会えたら。
P.S.一回ぐらい名前呼んで欲しかったな。
宮本詩織 』
こんなたった六行、名前を入れたら七行の手紙を読むのに、どれだけの時間がかかったのだろう。
既に通り過ぎた電車の音も、風が壁や扉を叩く音も、雨粒が屋根を叩く音も気が付かない。
いや、聞こえていなかったんだ。
視覚以外の五感が全て失われたように。
はっとして似合わないデジタル時計を見た時には、もう終電が迫る程の時間だった。
どこまで彼女は僕の事を分かっていたのだろう。
......辞めよう。
待合室から出て冷たい雨粒を全身に感じる。
これ以上進めてはいけない。
この手紙を読む事できっと終わった、終わらせなければいけないと思ったんだ。
そうじゃないと理由が見つからない。
愛を散らかすのは子供にだけ許されるのだから。