第七話
どれほど歩いてきたのだろうか。大里はそんなことを考えながら足を動かす。
地下鉄のトンネルを歩いたことがない大里にとってどれほど歩き続ければ駅に到着出来るかなどわかるはずがない。
もっともそれは大里だけでなく、ここにいる皆がそうであることは疑う余地がなかった。
大里はなんとなくトンネルの壁や天井、線路などを順々に見渡す。
ライトを照らしているのは林だけであり、大里の後方にはほとんど光が届いていないが、大里が確認出来る範囲ではおかしなものは存在しなかった。
変わり映えしないトンネル内の景色、そしてその環境に不快感はあったが、大里はそれを口にすることなくグッと飲み込む。
しかし、その沈黙に耐えかねたのか江森は口を開く。
「それにしても駅までの距離ってこんなに長いんですね」
「ああ、そうだな。俺も予想外だ。もう十分近く歩いると思うんだが……」
先程から少し時間が経ち、比較的落ち着いてきた林が口を開く。
「そう言えば電車が事故に遭う一つ前の駅ってなんだ?」
林が切り出したこの話題に大里は耳を傾ける。高本も大里と同じように彼らに声を掛ける訳でもなくただ静観していた。
「えっと、つまり最後に着いた駅って事ですよね?」
「ああ、そうだ」
「まさかこんな事になるなんて予想だにしていませんでしたし、確証を持っている訳ではありませんが、たしか下弦駅だった気がします」
「下弦駅か。という事は今向かっているのは上弦駅という事か」
林は今の会話に特別な意味など存在しないかのように振る舞っているが、一方で林と江森の後方を歩く大里と高本はそれが示す事に反応していた。
大里は目を丸くしながらも隣で歩く高本を見る。
高本も驚いた表情を見せるのかと思っていた大里だったが、高本は想像範囲内だったのかそこまで驚愕していなかった。
しかし、高本は嫌な予想が的中したと言わんばかりに顔が強張っており、頬には一筋の汗が伝っていた。
「あ、そう言えば上弦駅と下弦駅の間に幻の駅が存在するのってご存知ですか?」
江森は一瞬の沈黙を挟んで林との会話を膨らませる。
「ああ。噂として知っている。まあ、噂だから一般人と同じレベルの知識だがな。もしかしたら他の課の奴ならもっとはっきりとした情報を知っているかも知れねえが」
「へえ。警察の方でも御存じなんですね。となればこの噂は本当かもしれませんね。幻の観月駅があるっていう話」
「さあな。だが、それが本当なら……」
林はそう含みを持たせた言葉を呟くと共に立ち止まる。
「どうかしました……か」
江森は林に立ち止まった理由を聞こうとして声を発したタイミングで林が立ち止まった理由に気付く。
重苦しい空気は背後から流れ込み、自分達のいるトンネル内を埋め尽くそうとしていた。
元々息苦しいトンネル内ではあったが、さらに息苦しくなったのを江森は感じた。
「に、逃げるぞ」
林は震えた小さな声で周りにいる皆に声掛けをする。
「ああ。それが賢明だ」
高本は林の背後から賛同の声を返す。そして出来る限り足音を忍ばせて走り始めた林の後を追う。大里もこの空気の異様さによる恐怖心が体を支配していたが、彼らの後を追って懸命に足を動かした。
その”何か”は後ろにいる。しかし、その姿を見てはいけない。この空間から大里はそう感じ取った。
その時、
「ぎゃあああーーーー!!」
大里の背後で塩田の叫び声が聞こえた。
それは単なる驚きを示すような声ではない。
恐怖、不安、嫉妬、憎悪、苦痛。そう言った負の感情が入り混じった悲鳴だった。
そんな声を上げるなんてまともな状態ではあり得ないだろう。
何を見たのか。何があったのか。
そんな小さな好奇心が顔を出し、大里は背後を振り返ろうとする。
「振り返るな! 走れ!」
大里の好奇心を掻き消すように高本は声を上げる。
まるで自分の考えを見透かされているような感覚を感じながらも大里はもう一度脚に力を込めた。
暫く走っているが中々重苦しい空気から抜ける事が出来ない。
自分達はもう彼女の鳥籠の中ということだろうか。走り続けた疲労からそんな考えが大里の頭をよぎる。
しかし、どこまで走ってもこの異質な空気から逃げる事が出来ないという事実はそれを肯定しているかのように感じさせた。
「おい! こっちに来てみろ」
大里の少し先を走っていた林が立ち止まって何かを指差しているのが見える。
大里はそちらに向かおうと、今まで走っていた線路の脇から線路を跨ぐようにして反対側の線路脇へと足を向かわせる。
その時、何かに足を掴まれたような感覚に陥り、全速力走っていた勢いのまま硬いコンクリートに打ちつけられた。
「うっ!!?」
余りの激痛に声にならない空気が口から漏れる。
激しく地面に打ち付けたせいか息も上手く出来ない。
大里は何とかその痛みと格闘しながら呼吸を整えようとする。
しかし、それを阻むかのようにあの異質な空気が近づいてくるのを感じた。
早く皆の所へ向かわないと。その一心で身体にまとわりつく痛みを無視して立ち上がる。
「痛っ!」
立ち上がろうと左腕を付いた時に激痛が走る。
こけそうになった時に無意識に左腕が出たのかもしれない。焦る中でその冷静な判断をした大里は右手だけを支えにして立ち上がる。
そして未だ痛みが走る脚と胸を痛みつける事を厭わず走り出した。
どうやら林達は先に駅と思しき場所のホームの上に上がっているようだった。林はその場所を知らせるかのように携帯電話のライトを振り回していた。
あと少し。あと少し。あと少し……。
大里はそう言い聞かせながらようやくホームに辿り着く。
「よし! よく来た!」
林はそう言いながら意識を失いかけている大里を線路からホームへ引っ張り上げた。
「よし。奥へ行きましょう!」
江森はライトを付けた携帯電話を持ち、林と高本に声を掛ける。
「案内を頼む」
林は完全に意識を失った大里を抱えて江森の指示を仰ぐ。
「こっちです」
江森はそう言って携帯電話のライトで照らした階段へと向かい、上の階へと上っていった。林と高本はその後を追うようにして階段を駆け上がる。
上階も当然のように真っ暗であり、江森は自分達が置かれている状況を探るために周囲をライトで照らす。
階段周辺ではトイレとエレベーターがライトによって照らし出された。
「林さん。ここから先どうしますか?」
「出来ればどこかに隠れたい。大里も気を失っているみたいだ」
「それなら駅長室か駅員室に行きましょう。そこならば何か隠れる所があると思います」
「分かった。そうしよう」
林と江森は手早く意見交換を済ませた後、ライトを持った江森が先陣を切って歩き始める。
未だ背後には”何か”が迫ってくる気配を感じる。
それはゆっくりではあるが、確実にこっちに近づいているようであった。
そんな事を各々は感じながら隠れる場所を探して走っていた。
「ありました。改札です!」
そう言って江森は臍の高さ程度の鉄の柵を乗り越える。
「よし。どうだ? 入れそうか?」
江森は本来ならば普段駅員が立っている駅員室の窓を開けようとする。
しかし、鍵がかかっているようで開かない。
「やっぱり開きません」
「そうか……。じゃあ、一旦大里を預かってくれないか?」
「はい」
江森は先程まで林が背負っていた大里を柵越しに受け渡す。そして身軽になった林は軽々と柵を飛び越える。
窓の前まで来た林は駅員室の窓に向かって躊躇う事なく拳を振るった。
パリンッ!
そんな音が駅に響く。
「よしここに隠れよう。少しだけ待っててくれ」
林はそう言った後、割れたガラスに手を突っ込み、窓の鍵を開け、傷だらけになりながらもそこから侵入した。
その様子に江森も驚きを隠せないようで、「だ、大丈夫ですか!?」と尋ねる。
しかし、林はそれに返事することなく、近くに設置されていた扉の鍵を開錠し、扉を開けた。
「早くここから。奴に聴覚があれば気付かれたかもしれん」
「そうですね。急ぎましょう」
そう言って江森は大里を連れて駅員室に入っていく。
「早くお前も入れ」
「いいのか? 貴方に盾突いている人間だが?」
高本はそう聞き返す。
それに対して小さく息を吐いた後、口を開く。
「それが俺の仕事だからな」
「……立派だな」
高本は少し口元を緩めて駅員室へと入室した。
四人は明かりを消し、手探りで奥へと向かう。
果たしてここに隠れていて問題ないのか。それともばれてしまうのか。そんな不安と戦いながら息を殺す。
気配が近付いてくる。しかし、真っ暗闇の中その姿が見える訳がない。それでも三人は見えない顔を見ようとただ一つの割れた窓から外の様子を見つめていた。
気配を感じてから一分と経たない内に、ピタッ、ピタッと裸足で地面を歩くような音が聞こえる。
視覚が機能しないこの状況下では聴覚だけが相手の位置を知る手段となる。聴覚は”何か”が近くにまで迫っている事を知らせていた。
この重い空気の中、何十分いや何分それはいただろうか?
その時間に耐え切れなくなって来た頃に、”何か”はピタッ、ピタッと足音を再度鳴らして立ち去り始めた。