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逢魔奇譚

逢魔奇譚 ヒメ始め

作者: 葵 嵐雪

 さて、ご来場の皆様。『ヒメ始め』というのをご存知でやしょうか。はい、そこのお客さん。なに顔を真っ赤にして、何考えてやすの。……まあ、間違いではございやせんが。

 はい? なら突っ込むな。お客さん、それはお約束という物でございやしょう。

 さて、一口に『ヒメ始め』と申しやしても、実はいろいろな『ヒメ始め』がございやす。新年が明けて初めて火や水を使う日を火と水を並べて『火水ひめ始め』と言いやす。

 それから、裁縫は昔から女の技量と言いやしてね。年が明けて、女の技量を始めて出す日でやすが、新年を明けて始めて衣服を縫う日でやすね。その日を女のわざと書いて『女伎ひめ始め』とも言いやす。

 そしてもちろん、先程皆々様がご想像されたとおり、男と女の秘め事。いわゆる夜の秘め事でやんすね。これも『秘め始め』と言いやす。ちなみにでやすね、このヒメは姫様の姫とは書かずに、秘め事の始めと書いて『秘め始め』と読みやす。

 さて、これから話しやす『ヒメ始め』は隠語でやしてね。まあ、皆々様のような世間一般の方が使わない『ヒメ始め』でございやす。



 場所は田舎の農村でやす。至って普通の村でやんしてね。その村には仲睦まじい夫婦がいやした。

 その夫婦、地主の娘夫婦でございやしてね。それは村中で評判になるほど仲睦まじく、夫も妻も良く働いた事で村中から信頼されている夫婦でやした。

 その夫婦は夫を藤作とうさく、妻はお琴と言いやす。

 ですが、年も暮れにちかづた頃。藤作が悪夢にうなされてるようになりやしてね。それはそれはお琴も心配して、父である地主殿に相談に行ったほどでやしたから、相当藤作の症状は酷かったんでやしょうね。

 なにしろ悪夢を見るようになってからは藤作がどんどんとやつれて行きやしてね。数ヶ月のうちに別人のようになったのでやすから、心配するなというのが無理なのでさあ。

 そんな藤作でやすが、悪夢の内容をお琴にまったく話そうとしやせんでした。当然のようにお琴も地主殿も詰め寄りやすが、藤作はそれだけは口が裂けても言えないようでやんして、地主殿もお琴も困り果ててしやいやした。

 そして年の瀬が更に近づいた頃。藤作の悪夢はまったく治る気配が無く、お琴は胸を痛める日々を送ってやした。ですが突然、地主殿がお琴だけ呼び出して家に招きやした。

 久しぶりの実家でやすが、藤作の事が心配なお琴の顔は暗いままでやしてね。そんなお琴に父は朗報を告げやした。

「喜べお琴、藤吉を治す手段が見つかったぞ」

「えっ、それは本当ですか?」

「ああ、年が明けたら来る手筈になっている。なんでも霊験あらたかな渡り巫女だそうだ」

 地主殿の言葉はお琴に生気を吹き込んだかのようでやした。

 話を聞いたお琴は家に飛んで帰りやしてね、すぐに藤作にその話をしたんでやすが、藤作はその話を聞くと烈火の如く、怒り出してしやいやした。

「お琴! 余計なことはするんじゃない!」

「余計な事って、あんたは毎晩うなされてるじゃない。絶対に何かの憑き物が取り付いてるのよ!」

 毎晩のようにうなされる藤作を見てお琴は何かが藤作に憑いていると思ったのでやしょう。だから憑き物と決め付けたようでやす。

 憑き物というのは幽霊やら妖怪やらが憑く事を言いやしてね。この憑き物が出来やすと悪い事が起き続けると言われてやす。

 だからお琴も藤作に憑き物が出来たと思ったのでやしょう。

 だがそんなお琴の言葉に藤作は更に怒りやした。

「そんな事は無い! ただ寝付きが悪いだけだ!」

「それだけで毎晩もうなされたりしないわよ!」

 という感じで夫婦喧嘩になってしやいやした。

 結局、夫婦喧嘩は三日も続きやしてね。お琴は実家に泣きながら帰り、事情を説明しやした。そこで地主殿が出て行きやして藤作を説得に取り掛かりやした。

 地主殿の申し出とあれば藤作も嫌とは言い切れ無かったのでやしょう。話はまとまりやして藤作は素直にお祓いを受ける事になりやした。



 そして年が明けやして四日が過ぎた頃でやす。夫婦の家に来客がありやした。

 年が明けて皆が浮かれている事でやすから、お琴も親類の誰かやと思ったのでやすが、それは待ち焦がれた来客でやした。

 戸を開けたお琴は来客に見とれてしやいやす。その来客は女の目から見ても美しかったのやしょう。

 巫女装束に長く美しい髪をした、天女のような渡り巫女でございやす。

「こちらは藤作さんの家で間違いないでしょうか?」

「えっ、あっ、はい、あの、あなたが」

「はい、ご依頼を受けた渡り巫女でございます」

 三が日を過ぎて間もないのに渡り巫女が着てくれた事が嬉しかったみたいでやして、お琴は喜んで渡り巫女を家に招き入れやした。

「あいにくと主人は出かけててまして、もう少し経てば帰ってくると思うのですが」

「構いません。待たせてもらって良いでしょうか?」

「は、はい、是非」

 あいにくと藤作は地主殿と挨拶回りに出てやして、その時は家におりやせんでした。

 お琴は巫女にお茶を出してもじもじと落ち着きが無さそうでやした。お琴としては一刻も早く藤作を楽にしてやりたっかたんでやしょう。巫女に話を切り出そうか迷ってたんでさあ。

 そんなお琴に気付いたのようで、巫女からお琴に向かって話しかけやした。

「それで、旦那様はどのようなご様子ですか」

 巫女から話を切り出したのでお琴は藤作が毎晩のように悪夢にうなされてる事を早口で喋りだしやす。

「巫女様どうやらあの人は何かしらの付き物が憑いたみたいなんです。毎晩汗をびっしょりと掻いて同じ言葉を繰り返すんです。その所為であの人はすっかり痩せ細ってしまって見るに耐えません」

 一刻でも早く解決したいお琴でやしたが、それとは裏腹に巫女はゆっくりとした口調で話を続けやした。

「憑き物ですか?」

「はい、あの人は何も言ってくれませんが、毎晩同じ悪夢を見てるようで、これは憑き物としか思えません」

 必至に訴えてくるお琴を横目に巫女はお茶をすすりやしてね。何とも緊迫感が無い様子でやすが、それでもお琴は巫女を信じたのでやしょう。じっと巫女の言葉を待ってやした。

「先程、同じ言葉を繰り返すと申されましたが、どのような言葉ですか?」

「確か……キヌ、それと知らなかったんだ、許してくれ……と」

「キヌ、ですか」

 キヌと言われやしても巫女もお琴も何のことやら分りやせん。お琴も何度その事を藤作に尋ねたか分りやせん。だが藤作は一向に口を割ろうとはしやせんでした。

「あの、巫女様、あの人を助けてもらえるでしょうか?」

 お琴にとって渡り巫女が頼れる唯一の存在でやした。だからわらをも掴む気持ちで巫女に尋ねやすが、巫女は飲み終えた湯飲みを戻しやすと真剣な面持ちでお琴と向き合いやした。

「少し……難しいかもしれません」

「そこを何とか!」

 お琴は父に頼んでお金を倍以上も用意すると言いやしたが、巫女は首を横に振りやす。

「そうではないのです。旦那様が毎晩謝っているということは、何かしら後ろめたいことがあるということなんです」

「だからどうしたと言うんですか?」

 人間生きていりゃあ何かしらの後ろめたいことがありやしょう。藤作にそのような事が在ってもお琴は不思議に思いやせんでした。

 ですが巫女はそれが悪いと言いやす。

「もし、その人に人に言えない何かがあるのだとしたら、それが原因で悪夢を見ている可能性が大きいのです」

「じゃあ、あの人が何も言わない理由は」

「たぶん、そこに在るのだと思います」

 だから藤作は何を聞かれても答えなかったのでやしょう。だが原因がそこに在ると分ればそうは言ってられやせん。

 お琴はなんとしても藤作に口を割らせようとしやすが、巫女はそれを止めやす。何故止めるのかとお琴が尋ねやすと巫女はこのような事を言いやした。

「人は何かしらの隠し事をすると迷う物です。それを人に打ち明けるかどうか、今後どうやって隠して行こうか。そういう事を新年早々に行う事を私達はこう言います」

 巫女の話にお琴は固唾を呑んで聞きやす。そして巫女はゆっくりと口を開いて言葉を出しやした。

「秘迷始め、と」

「ヒメ始め……ですか?」

 お琴は巫女の言葉を繰り返しやす。お琴もそんな言葉があるのは知らなかったのでやしょう。巫女はそんなお琴に秘迷始めを説明してやりやした。

「人間は秘め事が在ると必ず迷います。秘迷始めとはそうした迷いが生まれた時、新年早々そのような迷いを覚えた時に使われます。その人は秘迷始めの真最中なのでしょう」

 藤作は秘めている事があるから迷い苦しんでいる、お琴はそう感じやした。だがそこからどうすればいいのかはお琴には分りやせん。

 お琴は身を乗り出して巫女に尋ねやした。

「巫女様、どうすればあの人は秘迷始めから抜け出せるのでしょう」

 全ての原因は藤作の秘迷始めにありやす。藤作が秘迷始めから抜け出せれば毎晩の悪夢からも抜け出せると思ったのでやしょう。

 だが巫女は難しい顔でお琴に言いやした。

「それは、その人がが秘め事を打ち明けるしかありません。ですが、無理に聞き出そうとすれば拒絶するでしょう。ですから、私がその人のの秘め事を聞きましょう。赤の他人なら聞かせても構わないと思いますから」

「それであの人は助かるのですね!」

 藤作を助ける方法が見つかりお琴は喜びやしたが、巫女はまだ難しい顔をして空になった湯飲みをお琴に向かって差し出しやす。

 どうやらお茶のお代わりを要求しているようでやして、お琴は立ち上がると湯飲みを手にお茶を入れて戻ってきたした。

 再び出されたお茶をすすりながら巫女は難しい顔で言いやす。

「それだけでは無理でしょう。旦那様が秘め事の贖罪をしない限りは悪夢を見続けると思います」

 巫女の言葉はお琴に影を落としやすが、お琴は気を取り直して影を追い払うと巫女に意気揚々と話し掛けやす。

「では、あの人が秘め事を打ち明けて謝れば何とかなるのですか?」

 それが藤作を救う手段だと感じたお琴は巫女に向かって尋ねやす。巫女もお琴の言葉に首を縦に振りやした。

「はい、それだけしてもらえば後は私が何とかしましょう」

「あぁ、ありがとうございます!」

 お琴には巫女が菩薩に見えた事でございましょう。今まで苦しむ藤作を見ることしか出来なかったのでやすから、これほど嬉しい事はないようでございやす。



 それからしばらくしやすと藤作が地主殿と一緒に帰ってきたした。お琴は二人を出迎えるなり、先程巫女に教えてもらった事を口走りやす。

「あんた! やっとあんたの悪夢を治す方法が分ったよ。秘迷始めだよ、秘迷始め!」

「はぁ、おまえはいきなり何を言い出すんだ」

 そりゃあそうでございやしょう。妻がいきなりヒメ始めなどと言い出しては夫は困るというものでさあ。

 それから地主殿はお琴を落ち着かせやすと、やっと事態を飲み込んだようで、地主殿は巫女がいる部屋へと急ぎやした。

 地主殿が部屋の障子を明けやすと呆然と立ち尽くしやした。地主殿は年でやすが、男なのは変わりありやせん。だから美しい巫女に見とれてしやいやした。

 しばらく巫女に見とれていた地主殿は自分を取り戻しやすと、巫女の前に座りやして頭を下げやす。

「新年早々、こんなところにまで来ていただきありがとうございます」

「いいえ、どこまで役に立てるか分りませんが、私に出来る事は全てやらせていただきます」

「よろしくお願いします」

 地主殿もやっと娘夫婦の問題が片付くと胸を撫で下ろしやした。ですが事はそう簡単に行かなかったんでやすよ。

 乱暴な足音を立てながら藤作が部屋に入ってくるなり巫女を睨み付けやした。

「何処の誰だか分らないけど、俺はあんたに世話になるつもりは無い」

「あんた!」

 いきなり無礼な事を言い出す藤作をお琴は怒鳴りつけてから巫女の様子を伺いやした。気を悪くして帰られては元も子もございやせん。お琴にとってはせっかく見出した光明でやしたから。

 ですが巫女には不快な表情が現れることが無かったのでやして、お琴は胸を撫で下ろしやすと藤作に向かって更に怒鳴り付けやした。

「あんた! あんたが秘め事を打ち明けて謝らない限り悪夢は終わらないんだよ! いつまで経っても苦しみ続けるんだよ。それでも良いっていうのかい!」

「それが余計な事だと言ってるんだ!」

 藤作は相当、秘め事を言いたくないみたいでやすな。

 まあ、それはそうでございやしょう。誰しも今まで秘密にしてきた事をおいそれと人に打ち明ける事は出来ない物でございやす。それが妻なり夫なりの近い仲なら、尚更言いがたい物になってしやうもんでやす。

 ですが、それで納得するお琴ではございやせんでした。なにしろ夫の症状を間近でいつも見ているのでやすから、どれだけ酷い物かは一番分っておりやす。

 夫を救いたい一心で夫の秘密を聞き出す。

 なんともまあ、けったいな事態になった物でございやすな。ですが巫女が言うには藤作が秘密を打ち明けなければ悪夢は一向に終わらないでやす。

 口を割らせたいお琴と、絶対に喋りたくない藤作。二人の言い争いは夫婦喧嘩へと発展しやして地主殿でも治める事が出来やせんでした。

 しかたないと地主殿は巫女を自分の家へと招きやした。このままここに居ても収拾は付かないと思ったのでやしょう。だったら今日一日、充分過ぎるほど喧嘩させとけば明日にはゆっくりと話せると思ったようでやす。

 未だに夫婦喧嘩をしている藤作とお琴を放っておいて、巫女と地主殿は二人の家を後にしやした。



「先程はなんともお恥ずかしいところを見せしてしました」

 客室に巫女を案内した地主殿は落ち着くなり、申し訳無さそうに言いだしやした。

「こんな事になる前は二人とも仲睦まじく暮らしておったんですが、藤作があのような事態になってからは喧嘩が絶えないようで」

 二人とも気が強く、頑固なところがあったのでやしょう。何事も無ければ仲睦まじい夫婦でも一度火が付けば一気に燃え上がるようでやす。

 決して夫婦仲が悪くなった訳では無いのでやすが、一度燃え広がった大火が辺りを焼き尽くさないと消えないように、二人とも何かを焼き尽くさないと退く事は出来ないのでやしょう。

 多少水を掛けても文字通り焼け石に水、まったく効果は出ないようでやす。

 だから地主殿は巫女を連れて家に戻ったのやすよ。

 そんな事態に地主殿も多少疲れたのでやしょう。巫女にそれだけ話しやすと顔に疲れが出やした。

「どうやら一刻も早く憑き物を落とさないといけませんね。このままでは憑き物が広まってしまうようです」

 恐ろしい事を言い出した巫女に地主殿はギョとした顔をしやした。まさか自分まで悪夢を見だすのではないかと思ったのでやしょう。ですが巫女は別な事を言いだしやした。

「憑き物というのは姿を変えて広まっていく物です。根源は一つの姿でも、人によっては姿を変えて様々な厄となって現れる物です」

 まるで流行り病のように思えやすが違うのやすよ。この憑き物というのは誰かしこにも広まる物ではございやせん。

 広まるのは根源と縁がある人物のみでやして、根源を心配する気持ちが憑き物を広めてしやいやす。

 ですが、心配するなというのも無理な話しでやして、この場合は根源をなんとかして憑き物を憑かないようにするしかございやせん。

 要は心配しすぎるなって事でやすが、地主殿にとっては可愛い一人娘。その夫婦が直面している問題でやすから、どうしても心配で疲れが溜まってたようでやす。

 そんな地主殿を巫女は心配しやしたのでやしょう。こんな事を言い出したんでやすよ。

「そもそも憑き物と言うのは人が広める物でございます。迷い、不安、疑念と言った物が憑き物を広めてしまいます。ですから、心を強くお持ち下さい。そうすれば憑き物に憑かれる心配はございません」

 人様の事、それが身内の事になると口を出したくなるのが人の性分でございやす。けれども、それが返って憑き物を広めたり酷くする物でございやす。

 ですから巫女は地主殿に堪えるように説いたのでございやしょう。

 ただ黙って見ていろと言うのは忍耐がいることでございやして、巫女は地主殿にそれを求めやした。地主殿も最初は異論があったようでやしたが、巫女に説き伏せられると納得の顔をしやした。

「それでは、私は今後一切口出しをいたしません。ですから巫女殿。なにとぞよろしくお頼み申します」

 深々と頭を下げる地主殿でやすが、巫女からは不安な答えが帰ってきたのでやした。

「出来る限りのことはやらせていただきます。ですが……先程申したとおり。これはその人が秘め事を打ち明けないと、どうにもならない事なのです」

 要は藤作の秘密を暴露しないと解決できない事だと巫女は念を押しやす。

 人の秘密を暴くって事はあまり気持ちの良いものではございやせん。世の中には知らない方が幸せという事も結構あるもんでございやす。

 それでも隠された真実があると知ると暴きたくなるのも人の性分。地主殿も藤作の秘密を暴くのに一役買うと言い出したのでございやす。

「もう二人の事に口出しはしませんが、それぐらいはやらせてもらいます。家の者を使い藤作の事を調べさせましょう」

「そうですね。時間はあまり無いようですから、形振り構ってはいられないでしょう」

 藤作のやつれ具合から、このまま放って置けば命に関わってくるのは明白でございやす。一刻も早く藤作の秘密を暴く必要がございやした。

 話がまとまり巫女が一服しておりやすと、お琴と話した事を思い出しやして地主殿に尋ねやした。

「そういえば、婿殿は毎晩『キヌ』という言葉にお心当たりはございませんか。おそらく人の名前だと思うのですけど」

「キヌ……ですか? ……さあ、私には何のことやらさっぱりです。何故、人の名前だと思われたのですが?」

 それは藤作が毎晩口にする言葉でございやす。当然地主殿もその事を知ってやしたのでやすが、人の名前とは思わなかったようでございやす。

「婿殿はその言葉と謝罪の言葉を口にしているようです。まさか物に謝るとは思いません。なら考えられるのは一つ。婿殿はキヌ、女の人でしょうね。その方に毎晩謝っているのでございます」

「……なるほど」

 確かにそう考えれば悪夢の意味が通りやす。

 巫女の言葉どおりでしたら、男と女の仲でやすから何があっても不思議はございやせん。まさしく化けて出た、そんなところでございやしょう。

 ですが地主殿はそんな巫女の言葉を裏切りやす。

「ですが、この村にはキヌなんて女はいませんが」

「この村にいなくても近隣の村や旅の人かも知れませんね」

 確かに行きりの可能性もございやす。これなら誰に知られること無く事情に及ぶ事もございやしょう。

 藤作も男、そのような事があっても不思議やございやせん。それに地主殿にもそうした体験がございやしたのでしょう。数度頷いて納得したようでございやす。

「確かにその可能性はありましょうが、行き摺りの相手をどうやって調べれば……」

 村の者ならともかく余所者についてはあまり調べようが無いのでございやしょう。地主殿はどのように調べようか思案しているようでございやした。

「婿殿に憑いているのなら、その方はもう生きてはいないでしょう。この付近で身元が分らない亡骸が見つかっているのなら、その方がキヌさんでしょう」

「なるほど」

 死んでも許せぬ相手。それが藤作だったのでやしょう。

 藤作が何をやったのかは分りやせんが、相当の恨みを買ったかもしれやせん。そして藤作はその事を隠している。

 そう推測してみたのでやすが、ここでいくら話し合っても机上の空論と申しやして、決して答えが出るものではございやせん。

 巫女はその後も地主殿の推測を聞いた後に早めに休む事にしやした。このまま話し合っていてもしかたないと思ったのでやしょう。

 あらかたの事情だけ把握して行動は明日からにしたようでやす。



 翌朝でございやす。地主殿は目が覚めると真っ先に家の者に巫女を起こすように言いやしたが、すでに巫女は朝食を済ませて出かけたようでやした。

「なに? どこに行ったというのだ?」

「村を見て周るとだけしか」

 家の者にはそれだけ言って出かけたようでやした。

 地主殿としては巫女をせっつき藤作の家に向かわせたかったのでやしょう。昨日自分は口出ししないと約束しやしたから、その分巫女を動かそうとしたかったのでやしょう。

 けれども感じの巫女が居やしません。しかたなく地主殿は朝飯を済ませやすと、あっちへウロウロ、こっちへウロウロとまったく落ち着きやせん。

 それもしかたない事でございやしょう。なにしろ巫女は藤作の憑き物を落とすためにやって来たのであって、村を見て周るためにやって来たのではございやせんから。

「そんなものは後にすればいいものを」

 地主殿はそう愚痴を言いながら家の中を苦い顔でうろつきやした。

 そして肝心な巫女が帰ってきたのは、日も真上に上がった昼時でございやす。

「どこに行ってたのですか!」

 地主殿は巫女が帰ってきた事を聞くと真っ先に巫女の元へと行って怒鳴り込みやしたが、当の巫女はのんきに昼食をつまみながら答えやした。

「家の方に村を見て周ると告げたのですが、聞いておりませんか?」

「いや、そ、それはそうですが」

 あまりにもあっけらかんと答える巫女に地主殿は怒る気を抜かれて座り込みやした。

 まったく、何を考えているのだろうと地主殿は巫女の顔を見やすが、本人はそんな地主殿を気にする事無く昼食を続けていやす。

 しばらくはそんな巫女の顔を見続けていた地主殿でやすが、痺れを切らしたのでやしょう。膝を叩きやすと大きな声で巫女に向かって口を開きやす。

「巫女殿」

「ごちそうさまでした」

 ……なんとも、まあ、間が悪い事で、地主殿は言葉を続ける時を失ってしやいやした。しかたなく黙り込む地主殿。その横で巫女は茶をすすっておりやす。

 そして巫女が湯飲みを置きやすと地主殿に向かって話しかけやした。

「ところで、この近くには夜路沼よみちぬまという沼があるそうですね?」

「えぇ、ございますけど」

 夜路沼というのは村の近くにある沼でございやして、沼まで道がしっかりとあるので夜だと路と間違えて踏み込んでしまう事から夜路沼という名前が付けられたんでやすよ。

 でやすが、この夜路沼。ただの沼という訳ではございやせん。お察しの方は気付いてるかもしれやせんが、そう、この夜路沼……底なし沼でございやす。

 一度足を捕らわれて沈み始めれば底まで引っ張り込まれるんでやすよ。

 ですから、村の人は夜路沼には絶対に近づきやせん。それにこの沼があるからこそ、別の街道が作られたぐらいでやすから、相当沈んだ人がいるんでやしょうが、誰一人として発見されていないんでやすよ。

 さて、地主殿は夜路沼の事を一通り巫女に話しやした。

「それで、夜路沼になにか?」

 巫女から聞いてきた事でやすから、何かしらの意味があるのでやしょうと地主殿は思ったようでやす。

「いえ、何かを隠すには適している場所だと思いまして」

「……ッ!」

 それは藤作の秘密と関係あるのではないかと巫女は言いたいのでやしょう。少なくとも地主殿はそう思ったようでやすな。

 ですが地主殿は、その巫女の考えを否定しだしやす。

「いや、それは無いですよ。あの沼は村の者は誰一人として近づきません。なにしろ私が村の者達にそう命を出しているし、近づいた者は厳しく罰しておりますから」

 つまり夜路沼の被害を出さないために行った政でございやす。

 村の者達も夜路沼の怖さは充分に分ってやすから、当然地主殿の命を破って夜路沼に近づく者はいやしやせん。

「……そうですか」

 けれども巫女は納得できないようでやした。

「さあ、そんな事はどうでもいいでしょう。さっさっ、早く藤作の家に行ってください」

 話が終わった所で地主殿は巫女をせっつきやす。けれども、巫女は意外な事を言いだしやした。

「それでは……一緒に参りましょうか」

「えっ?」

 昨日は口出しをするなと言っておきながら、今日は一緒に来いと言いだしたのでやす。一晩で言ってる事が逆転しやしたのでやすから、地主殿も困惑してしやいやした。

 そんな地主殿に巫女は微笑を向けながら言いやす。

「私としましてはあなた様に勝手な事をして欲しくないのです。ですから昨晩は釘を刺させてもらいました。けれども、これからの事はあなた様も見ていたほうが良いでしょう」

「と、という事は、私は口出ししなければ一緒に行っても構わないと」

「はい、ぜひ一緒に参りましょう」

 てっきり蚊帳の外に追い出されたと地主殿は思っておりやしたが、そうではなく勝手な事をしなければ一緒に行っても構わないということでやす。

 地主殿は慌てて仕度すると言って出て行きやした。静かになった部屋で巫女は静かにお茶をすすりやす。



 藤作は思いっきり不機嫌な顔で巫女を睨みつけてやす。その隣でお琴はオロオロとして落ち着きが無く、地主殿はブスッとした顔でただ座っておりやす。

 そんな中で巫女から話し始めやした。

「それでは、あなた様が行っている秘迷始めについてはご理解いただけたでしょうか」

 ですが藤作は巫女から顔をそむけやす。どうやら答える気はないのでやしょう。

 お琴が藤作の脇腹を突っ突き文句を一言だけ言った後で藤作はようやく答えやした。

「ああ、お琴から聞いた」

 ぶっきら棒に答える藤作に巫女は怒る事無く、数度頷きやすと話を続けやす。

「でしたら、このままではあなた様の命も危ない事もご理解しておりますね」

 短く答える藤作。その顔は未だに巫女に向き直る事はございやせん。

「分りました。そこで、私があなた様の秘密をお聞きしましょう。もちろん、誰にも話さない事を誓います。ですから、私にだけ話していただくことは出来ないでしょうか?」

「だから秘密なんて無い!」

 ここまで言われても藤作の主張は変わりやしません。命が危ないとまで言われても守りたい秘密なのでございやしょうか。

 その後も巫女は説得を続けやすが、藤作は秘密など無いとの一点張り。話は平行線のまま夕暮れになってしやいやした。

「……どうしても、あなた様に秘密は無いとおっしゃるのですね」

「くどい!」

 巫女は少しの間だけ目をつぶると何かを考える仕草をしやす。口に手を当てながら考え込む巫女の姿は絵になるほどの物でございやすが、ここに居る者は誰一人として、そこまで気が回りやせんでしょう。

 そして巫女が瞳を開きやすと最後の説得に掛かりやす。

「このままでは旦那様の命は危ないのです。それでも秘密は無いとおっしゃるのですね」

「ああっ、そうだ」

 最後まで不機嫌に答える藤作にお琴は溜息を付きやして、地主殿は大きく息を吐きやした。

 ここまで強情なのも困ったものでございやしょう。なにしろ命が危ないとまで言われても喋らないのでやすから。

 話し合いを続けて半日。とうとう暗くなってきた時に巫女がこんな事を言い出しやした。

「分りました。それではしかたありませんね。お琴さん、今日はこちらに泊めさせてもらいますね」

 いきなりの申し出にお琴は驚き狼狽してしやいやす。

「今晩はここに罠を仕掛けさせてもらいます。そして旦那様を苦しめている憑き物が来たら……戦って落とします。下手をすればかなり暴れる事になってしまいますが、よろしいでしょうか?」

 ここでいくさのような戦いをしようというのでやすから、相当派手なものになるでやしょう。下手をしたら家が壊れるかもしれやせん。

 それでも藤作の憑き物が落ちるのならとお琴はすぐに良いと答えやした。藤作は反対しやしたが、地主殿も今晩は泊まると言い出し、最後には根負けして折れやした。

 義父である地主殿に強く出られては藤作も言い返せないのでやしょう。

 こうして巫女と地主殿は藤作の家で夕食を喰らい、空いている部屋に入ったのでやすが、寝床は用意しやせん。

 なにしろこれから一戦やろうと言うのでやすから、今晩は寝られないでやしょう。

 それでも巫女は一旦家の外に出やすと、すぐに戻って仮眠を取るといって部屋に引っ込んでしやいやした。

 一方の地主殿は一晩中起きてるつもりでやして、畳の上に座りながら落ち着かない様子でやした。

 そんな地主殿の元にお琴がやってきやす。

「おっとう」

「お琴……眠れないのかい?」

 お琴は頷きやす。どうやらそれで地主殿の元へ来たようでやす。

 お琴は地主殿の隣に座りやすとお茶を入れて地主殿の前に差し出しやす。

「大丈夫かしら?」

 なにがと地主殿は聞き返そうとしやしたがやめやした。いくら心配しても心配事は尽きないでやしょうし、自分達に出来る事はあまりにも少ないからでやす。

 出来る事といえば祈る事ぐらいでやしょう。

 それに地主殿は昨日の約束がございやす。ここは下手に口を出さずに安心させてやるのが一番だと思いやした。

「ああ、藤作は巫女殿が助けてくれる。その後はお前が藤作を支えてやらねばいかんのだ。だからこれぐらい耐えられんでどうする。心を強く持て」

「……うん」

 少し涙ぐみながらお琴は頷きやす。その後も地主殿はお琴を勇気付けさせ、お琴も少し泣きながら何度も頷きやした。

 美しい親子愛でございやす。お琴は父親の愛情を充分過ぎるほど感じながら夜は更に深けて行くのでやす。



「来ました」

 気配無く、突然開いた障子の向こうで巫女が険しい顔をしながら中に居るお琴と地主殿に告げやした。

 いきなり現れた巫女にお琴は思わず声を出しそうなぐらい驚きやして、地主殿も目を大きく見開いてやす。

 どうやら二人とも大いに驚いたようでやすが、巫女はそんな二人に問い掛けやす。

「これから憑き者と対峙します。一緒に来られますか?」

 とんでもない事を巫女は言いだしやした。

 先程は戦並みの戦いになると言ったばかりの場所に一緒に来るかと聞いたのでやす。当然行けば命が危ういでやしょう。

 それでもお琴は藤作の傍に居たいのでやしょう。巫女の言っている事を理解するとすぐに行くと返事をしやした。

 地主殿もお琴に遅れて行くと答えやす。巫女は頷きやすと袂から札を二枚取り出しやした。

「これを肌身離さずにお持ちください。札の霊力が続く限り身を守ってくれます」

 地主殿とお琴は札を受け取り、強く握り締めやすと頷きやした。

 それを承諾と受け取った巫女は足早に移動を開始しやす。目的地は当然、藤作の休んでいる部屋でございやす。

 地主殿とお琴も急いで巫女の後を追いやした。なにしろ狭い家でございやすから、二人が巫女に追い付いた時には到着してたのでございやすよ。

 巫女は障子に手を掛けやすと二人に顔を向けて、キッと鋭い視線を向けやす。開けるから準備は良いかという意味でやしょう。

 でやすが、地主殿とお琴はすぐに返事を返せやせん。なにしろ障子の向こうには恐ろしい憑き者がいるのでやすから、誰しも怖気付くものでやすよ。

 それでもお琴は勇気を振り絞り、首を縦に振りやすと地主殿も覚悟を決めたようで頷きやした。

 巫女も一度頷きやすと障子に視線を戻して、一気に開きやした。

 何か出てくる。と地主殿とお琴は思ったことでございやしょう。ですか、その向こうにはいつもの光景があるだけでやした。

 そのいつもの光景でございやすが、藤作が寝ており、うなされているだけでやして、他に異常な光景はございやせん。

 最初は強張った顔をしていた地主殿とお琴でやすが、何も居ない事に巫女が勘違いをしたと思いやして、安心したのでやしょう。全身に入っていた力が一気に抜けてしやいやした。

 そして地主殿が巫女に勘違いではないのか、と問いかけようとした時でやす。突然巫女が札を取り出して早口で呪を繋ぎやす。

「恐み恐み白さく掛けまくも畏き大直日神、清き川の流れは清浄の力、眼前の瘴気を打ち払う事を願わん、日夜の勤めをお認めならば我が願いをお聞き届け、穢れを払う力を!」

 札が部屋の中へと投げ込まれやす。札は一直線に部屋の真ん中へと飛んで行きやして、まるで何かに張り付いたかのように部屋の中央に浮かび上がりやす。

 更に札が光り輝きやすと、今まで何もなかった部屋から紫色の煙が一気に噴出しやした。

 突然吹き出した煙に地主殿とお琴は混乱したようで、奇声を上げながら煙を吸わないように口と鼻を塞ぎやしたが、巫女はその中でも特に何もせずに部屋の中を睨みつけてやす。

「……あれが、憑き者の正体です」

 煙が晴れやすと今まで何も居なかった部屋、しかも藤作が寝ている真上に鬼女きじょが現れやした。

 鬼女はとても人間の顔なんてしておりやせん。額からは二本の角を生やしておりやして、顔は深いしわが縦横無尽に走りやして、目は赤く光、口からは大きなキバが垂れ下がっておりやす。

 正真正銘の鬼がそこにいやしたのでおりやす。

 そんな鬼女が突然現れたのでやすから、地主殿とお琴は悲鳴を上げて腰を抜かしやしたが、巫女は札を取り出しやす呪を繋ぎやす。

「恐み恐み白さく掛けまくも畏き天之尾羽張神あめのおおはばりのかみ、火神の首を落としき十握剣、不浄を祓う力を求めん、日夜の勤めをお認めならば我が願いをお聞き届け、不浄を斬り裂く力を!」

 呪を繋ぎ終えやすと札が光り輝きやして十握剣へと変化しやした。

 十握剣といいやすのは、左右に五本ずつ枝分かれしたような小さな刃が付いておりやして、かの火之迦具土神の殺した剣でございやす。

 その十握剣を握り締めやすと巫女は鬼女に向かって話しかけやした。

「その方にどのような恨みがあるかは知りませんが、例えその方を殺したとしてもあなたには何も残りません。話によっては力になりますから、そこからお退きなさい!」

 藤作が口を開かないなら、こちらに聞いてみようという事でやしょう。

 確かに藤作を恨んでいる本人でやすから原因を知らない事はございやせんし、こういった憑き者は自分から恨みの原因を話したがる物でございやす。

 誰しも心の内に溜めている物は話して発散したいのでやしょう。

 けれども鬼女は巫女を見て笑いやすと意外な事を言いだしやす。

「かかかっ、残らない事は無い。この人は、私が連れて行くのだから。この人はずっと私の傍に居る」

 鬼女の声は女に、いや、人間には決して出すことの出来ない野太く重い声で鬼女は言いきりやした。

「連れて行く? 執着ですか」

 女の執念と申しましやしょうか。どうやらこの鬼女は藤作を自分の元へずっと置いておきたいようでやす。

 かといって、はいどうぞとも言えやしやせん。そうなれば力づくで鬼女をどうにかしないといけやせん。

 ですが、その前に、鬼女が藤作を狙う理由を聞きださないといけやせんですよ。

「あなたがそこまでして、その方を想うのは何故です?」

「……」

 鬼女はすぐには答えやせんでした。良く見れば分かりやすが、少し顔を俯けて表情が暗くなっておりやす。

 後ろにいるお琴と地主殿は気付きもしやせんでしたが、巫女はしっかりと気付いたようでやす。

「……その方は、毎晩あなたに謝っているのでしょう。その誠意は悪夢を見せているあなたには良く分かるはずです。ですから……許してあげられないのですか?」

 姿形は鬼に変わりやしたが、その想いがある限り人間の心を持っているものでやす。ですから巫女の言葉は鬼女の心を揺るがしたようでやす。

「もう少しの誠意が欲しいというのなら私からその方にしっかりと謝らせます。ですから、許してあげてください」

 夜の静寂が戻りやして物音一つしやせん。鬼女に巫女の言葉が届いたのでやしょう。巫女を見詰めながら静かに口を開きやした。

「……出来ぬな」

 おやっ、どうやら巫女の説得は失敗したようでやす。それどころか鬼女を激昂させてしやいやした。

「貴様は知らぬのだ! こやつは私を裏切った。それどころか私を殺したのだ! そんな奴を許せるわけが無い!」

 裏切るだけでも相当の恨みを買うと言いやすのに、そのうえ殺されもしたら誰だって恨み、魂をこの世に留めて復讐したいと思いやしょう。

 この鬼女はまさに復讐の鬼になったようでありやす。

「けれども連れて行くという事は未だにその方を想っているのでしょう」

 鬼女は藤作を連れて行くと言いやした。という事は藤作を殺すつもりはないのでやしょう。

 鬼女が願っている事は藤作と暮らす事かもしれやせん。

 けれども所詮は生者と死者。どんなに望もうとも共に生きて行けはしやせんのです。どのような力も生と死の理を覆す事は出来やしやせん。

 それでも鬼女の想いは理を分らなくするぐらい強いのでやしょう。一途過ぎる想いはいろいろな事を隠してしまうようでやす。

「ああ、その通りだ。例えどのような事をされても一度好いた相手をそうそう恨みきれるものではない。だから連れて行くと決めた」

「そんな事が出来ると思っているのですか」

「うるさい! どのような事も関係ない。邪魔をするというならお前を始末してやる!」

 最早、話をする気は無いのでやしょう。鬼女はふわりと宙に浮きやすと巫女に向かって飛んできやす。

 咄嗟に十握剣で鬼女を受け止めやすが、よほど威力があったのでやしょう。巫女は鬼女と共に部屋の外へと押し出され、更に隣の部屋へと投げ込まれやした。

 障子を突き破り部屋に転がる巫女。それでもすぐに立ち上がりやすとお琴と地主殿に向かって叫びやす。

「藤作さんの傍でじっとして、札がある限り守ってくれます!」

 札の守護がある限りお琴と地主殿は守られやす。その二人が藤作の傍にいれば藤作も守る事が出来るというものでやす。

 巫女の言葉にお琴は真っ先に藤作の傍へと駆け寄りやす。地主殿も抜けた腰を引きずりながら、なんとか到着して藤作の上に倒れこみやす。

 その藤作はと言いやすと、鬼女に何かされているのでやしょう。これだけの騒ぎなのにまったく起きやしやせん。いつものようにうなされていやす。

 そんな地主殿達を確認する間もなく、巫女は鬼女の攻撃を防ぎ続けやす。

 鬼女の手は長い爪に鉄のように硬く。とてもではございやせんが切れた物ではありやせん。普通の刀なら折れてしまいやしたでしょうが、十握剣は巫女が神の力で手にした剣でやすから、斬るのは難しくとも決して折れやしやせん。

 まあ、折れやしやせんが、斬れなくては勝つ事が出来やせん。打つ手無しのように思えやすが巫女には考えがあるのでございやしょう。今は鬼女の攻撃を防ぎ続けやす。

 けれども鬼女の攻撃は苛烈を極めやす。襖を切り裂き、畳を弾き、壁に大穴を空けもしやした。さすがは鬼の力というものでやしょう。一撃でも喰らえばとてもじゃありやせんが生きてはいないでやしょう。

 そんな攻撃を巫女は防ぎ続けやす。受け止めた衝撃で着物が切り裂ける事もございやしたが、一滴の血も流してやおりやせん。

 なんとも凄まじい戦いになってきやした。場所も部屋だけに留まらず、飯場に居間、更には玄関から縁側までと家の隅から隅まで戦場となっておりやす。

 鬼女の奇声と轟音が聞こえる中で地主殿とお琴は、早く終わる事を祈りながら縮こまってるしかございやせん。

 夢であって欲しいと思ったことでやしょう。ですが、そんな時に戦いの音が突如としやして静まったのでございやす。

「……ど、どうした事だい?」

 先程までの雄雄しい音が消え去ったのでありやす。地主殿はやっと身を起こしやすと辺りを見回しやす。

 いきなり静かになった事で動いて良いのか迷っているのでやしょう。

 そんな折にいきなり地面が光りだしやした。

 どうやら何かの形を示しているのやしょうが、地主殿にはそれが何なのかはわかりゃしやせん。なにしろ家を囲むように光っておりやすから。

 そして聞こえてきたのは、あのおぞましい叫び声でありやす。

「おのれ謀ったな!」

 どうやら巫女の策略が上手く行ったようでありやす。鬼女は悔しそうな声で巫女に噛み付きやすが、巫女の声はここからでは良く聞こえやしやせん。

 地主殿は見に行こうと立ち上がりやすが、地面の光が急に強くなりやすと鬼女の悲鳴が響きやした。

 されども、鬼女も抵抗しているのでやしょう。地震が起きて大きく揺れやす。

 地主殿は立っていることが出来ずに再び座り込みやすと揺れはドンドンと大きくなっていくにつれて地面の光も強くなっていきやす。

「おのれ───────────っ!」

 鬼女の断末魔でございやしょう。一際響き渡る声がしやすと地震と光は治まっていき、元の夜が訪れやす。

 再び訪れた静寂でやすが、地主殿は動いて良いものか迷い、お琴と顔を見合わせやす。

 静かな足音が聞こえやすと二人ともギョとした顔でそちらに向きやすが、すぐに安心した顔になりやした。

 そこには巫女の姿があったからでやす。

「倒して……くださったのですか?」

 あの鬼女が倒されたなら万事解決でございやすが、巫女は顔を横に振りやす。

「残念ながら追い払っただけです。あの鬼を倒すにはあなた様の秘密が必要なのでございます。それが出来ないうちは追い払うだけが精一杯です」

「そう、ですか」

 がっくりとお琴は肩を落とし地主殿が支えやすが、進展が無かったわけではございやせん。

「ですが鬼の事情は分りました。この事を旦那様に話して全てを打ち明けてもらいましょう。そうすれば鬼を冥府へ送ることが出来ます」

 そう、全ては藤作に掛かっているのでおりやす。何としてでも藤作の秘密を暴かなくてはなりやせん。

 けど今日はもう遅いでやす。全ては明日にして今はボロボロになった家で休むことにしやした。



 さすがに昨晩の事を聞かされやすと藤作は愕然としやした。なにしろ家がボロボロになるという証拠つきでやすから信じない訳には行かないでやしょう。

「……おキヌさんの事を……話していただけますね」

 こうなってしやってはもう話すしかないでやしょう。藤作は俯きながら、はいと返事を返すと語り始めやした。

 藤作の話はこうでやす。

 おキヌという女は村境に住んでいた女でございやしてね。どうも幼い頃から互いに想っておりやして夫婦の約束までしてやした。

 互いに二親を早くに亡くした事もあったのでございやしょう。かなり前から親しかったようでやすが、おキヌが村境に住んでいやした事から、こちらの村では藤作に、あちらの村ではおキヌに想い人がいる事は知れてやしたが、それが誰かは知れていなかったようでやす。

 まあ、夫婦になれば自然と知れ渡る事と藤作もおキヌもまったく気にしなかったのでありやすが、困った事になったのでありやす。

 それがお琴でございやした。

 藤作に惚れていたお琴の気持ちを知った地主殿が嫁に貰って欲しいと言って来たのでありやす。

 最初は藤作も断ったのでやすが、なにしろ相手は地主の娘。むげにも出来やせん。

 そしてその話がおキヌの耳にも入ったのでありやしょう。おキヌは身を引いて行方をくらましたのでございやす。

 そりゃあ藤作は必死で探しやした。だけど、どんなに探しても見つかりゃあしやせん。月日が流れていくうちに藤作はおキヌは戻ってこないだろうと、そして自分の為に身を引いてくれたのだろうと思うようになりやした。

 そして藤作はお琴と夫婦になった訳でありやす。

 それがまさか鬼になって戻ってくるとは思いも寄らない事でございやす。忘れられなかったのでございやしょう、あれだけ藤作の事を好いていたんでやすから。

 けれども、どうも鬼女の話を食い違う点がございやす。

「おキヌさんは……あなたに殺されたと言ってました。その事をお聞かせくださいませんか」

 あの鬼女は藤作に殺されやしても憎みきれずに現れたのでございやす。惚れた弱みというものでございやしょう。

 されど、殺された事は確かでございやす。おキヌの、そして藤作の為にもそこだけは、はっきりとさせとかないといけないのでやすが、藤作は反論しやした。

「そんな事は知らない! 私は……必死におキヌを探したんだ。それが、なんで殺さないといけないんだ……」

 段々と声が小さくなる藤作に嘘は無いように思えやしょう。

 仮にも夫婦を誓った仲でやすから、そのような事は無いように思えやしょうが、相手は地主の娘でやす。おキヌとお琴を天秤に掛けやして、おキヌが邪魔になったとも考えられやす。

 地主殿はそうではないかと問い詰めやすが、藤作はそんな事は無いと断固として認めやしやせん。

 そうなると鬼女の思い込みや間違いという事もありやすが、殺された相手を間違うほど間抜けではございやせんでしょう。

 食い違う話に地主殿とお琴は混乱しやしたが、巫女は静かに藤作に向かって問い掛けやした。

「ならばお聞かせ下さい。旦那様は、おキヌさんの事をどう想ってらっしゃるのですか?」

 なんとも難しい問い掛けでございやす。

 かつでは互いに惚れあった仲でございやす。それが不運な事に自分達の意思に関係無く離れ離れに。もし元に戻れるのなら戻りたいのでやしょう。

 けれども、今の藤作にはお琴という立派な妻がいやす。お琴がいたからこそ、藤作はおキヌの事を忘れて二人で頑張ってこれたのでございやす。

 そんなお琴を裏切る事は絶対に出来やしやせん。

 藤作は悪夢を見ている間はそんな葛藤と戦ってきたのでございやしょう。

 おキヌへの情とお琴への情。どちらも大切でございやす。それでもどちらか一方を取らないといけないのでやすから、なんとも苦しい事でございやす。

 藤作は少しの間だけ俯いて黙り込みやした。そして顔を上げやすと巫女の瞳を真っ直ぐに見据えやす。

「もし、おキヌの言うとおりなら何と謝っても許される物では無いでしょう。けれども、今の私にはお琴が居ます。夫婦の誓いを立てたお琴を裏切る事は出来ない。だから……巫女様、どうかおキヌを安らかな眠りに付かせてあげてください」

 藤作は巫女に向かって頭を深く下げやす。

 それが藤作に出来る精一杯の事でやしょう。自分でおキヌを成仏させる物ならやってやりたい。けれども藤作にそのような力はございやせん。だから巫女を頼るしかないのでやす。

 そんな藤作に巫女は厳しい言葉を掛けやす。

「それは……ご自分が楽になりたいからですか?」

 おキヌが成仏すれば悪夢も見なくなりやす。それどころか自分の過去を忘れるには丁度良い事でございやす。

 そう言われれば、なんとも自分勝手と思われやすが、藤作は巫女の言葉に真っ向から否定しやした。

「違います! 本来なら私がおキヌを救ってやらないといけないのでしょう。けれども私にはそのような力はございません。一緒に行ってやっても良いのですが、お琴を悲しませる事も出来ません。勝手な言い分なのは分ってます。けど! 私には巫女様に頼る以外にどうする事も出来ないのです」

 下げた頭の向こうで藤作は涙を流しやす。

 悲しい事でございやすが、そうする以外にどうする事も出来ないのでやしょう。

 藤作にとっておキヌの事は、惚れあった仲だとしやしても過去の事でございやす。忘れる事はできやせんが、今の生活を壊す事も出来やしやせん。

 哀れでやすが、ここはおキヌを退治するしか、おキヌを救ってやる方法は無いのでございやす。

 咽び泣く藤作に巫女は安心した顔で頷きやすと頭を上げさせやす。そして懐から取り出したのは三枚の札でやす。

 それを藤作、お琴、地主殿とそれぞれ一枚ずつ差し出しやした。

「委細承知しました。あなた様に嘘が無ければ、その札で全てが解決いたします。けれども一つだけ問題がございまして。その札をおキヌさんの遺体に貼り付けないといけません」

 つまりおキヌの亡骸が無いとどうにもならないという事でございやす。

 そこで巫女はそれぞれに札を渡しやして、おキヌの亡骸を捜すように言いやした。

 なにしろ狭い村とは言いやしても、歩いてみればかなりの広さでございやすし。山の中にでも在ろうものなら探すのに苦労しやす。

 けれども、それさえ出来れば全てが解決しやすから、三人は頷きやして承諾しやした。そこで手分けしておキヌの亡骸を捜すという事になりやした。

 すぐに出発する巫女を含めて四人は散り散りに村の周辺をおキヌの遺体を求めて探し回りやした。



 日が暮れやすと一度藤作の家に戻った巫女達はそれぞれの話を聞きやすが、遺体なんてそう簡単に見つけられるものではございやせん。

 しかたなく探索は明日にしやして、その日は巫女が藤作の家に強力な結界を張りやすと、地主殿と巫女は引き上げやした。

 なにしろ村中を歩き回ったのでやすから皆が疲れきっていたのでやしょう。藤作とお琴はすぐに眠りに付きやした。



 そして深夜でございやす。とある夜道を提灯を持ちながら歩く人影がございやした。

 なにしろ真っ暗でございやすからね。顔はよく見えないのでございやすが、迷う事無く山の中を歩いていきやす。どうやら村の人でやしょう。

 けれども、これから先は村の掟で入ってはいけない場所でございやす。そこに迷わず入っていくたあ、よほどの事があるのでございやしょう。

 更に歩き続ける人影でございやすが、道の途中で急に立ち止まりやす。

 辺りはうっそうとした草木がございやして、とても歩きずらい場所でございやすが、まだまだ先に行けそうに見えやすが……実は行けないのでやすの。

 夜だと道に見間違う場所でございやすが、実は道ではなく沼でございやす。

 そう、お客さん。分ったように得意げな顔をしてやすね。そこのお客さんのご想像どおり、ここは夜路沼でございやす。

 人影は提灯を片手に沼をよっく見回しやす。まるで何かを探しているようでございやす。

「お待ちしてました」

 突然声を掛けられて人影はギョとしやして、声の方に提灯を向けす。

 照らされた木々の向こうから姿を現しやしたのは、眠りに付いているはずの巫女でございやした。

「な、なぜ?」

 人影は相当混乱しているようでありやして、こちらに歩いてくる巫女とは反対に後ずさりやす。

「そうですね……申し訳ないのですが、ペテンに掛けさせてもらいました。あんた様を……ここに来させるために」

 つまり人影は騙されたわけでございやす。その事に気付いた人影は提灯を落としやして燃え上がり、辺りを明るくしやす。

 その明かりに照らされた人影は……地主殿でございやした。

「ち、違う、わ、私はここに、おキヌの遺体があるのではないかと、そう、そう思ってきただけだ」

 地主殿はここに来た理由を説明しやすが、巫女は笑顔で返しやす。

「ええ、ここに遺体があるのは最初から分っているでしょうね。なにしろ、あなた様が殺してここに捨てたのですから」

 なんとも信じられない言葉が巫女の口から出たものでございやす。

 地主殿は言いがかりだと巫女に食って掛かりやすが、巫女は笑顔のまま地主殿がおキヌを殺した現場を見ていたかのように語り始めやした。

「あなた様はお一人でここにおキヌさんを呼び出しました。このようなところを誰かに見られる訳にはいかないのでしょう。だから家の者を誰一人つける事無く、ここに来られました。おキヌさんには二人の祝言について話があると言ったのでしょう。なにしろ、二人が夫婦になればおキヌさんもこの村に住むことになるのですから」

 巫女は更に詳しい説明をしやす。その話はこうでやした。

 地主殿は村の境にある夜路沼でおキヌと会い、二人の祝言について詳しく話し、日程などを決めやしたが、それは全ておキヌを油断させるためでございやす。

 おキヌもまったく疑わなかったでございやしょう。まさか自分達を祝ってくれている地主殿がそのような凶行に出るとは思いも寄らない事でございやす。

 それから地主殿はおキヌの気を逸らしやすと、袂に隠していた紐を取り出しやして後ろから首を絞めやした。

 その時に「これもお琴のため」だと言ったそうでやす。そして冷たくなったおキヌを沼に捨てやすと何食わぬ顔で村に戻ったそうでございやす。

 まるでその場に居たかのように語る巫女に地主殿はすぐに反論出来やせん。どうも図星のようでやすが、地主殿は認めようとしやせんでした。

「な、なぜ私はおキヌさんを殺さないと、いけないんだい? 私が二人を祝ってたんだ」

 顔から汗をかき、言葉もうまく出ないようでやす。誰が見ても苦しい言い訳でやしょう。けれども地主殿はその言い訳を貫くつもりでやす。

 巫女は溜息を付きやすと沼へと目を向けやす。

「では本人に語ってもらいましょうか?」

 何を言っているのか分らない。地主殿はそのような感じでございやしたが、巫女が沼に向かって一声掛けやすと、沼の水が一気に吹き上がり、飛び出してきた物が巫女の傍へと降り立ちやす。

「そ、そそ」

 もう地主殿は言葉が出ないようでやす。そりゃあそうでやしょう。なにしろ昨日襲ってきた鬼女が巫女の隣に立っているのでやすから。

「ですから先程申しました。ペテンに掛けさせて頂いたと」

 どうやら巫女と鬼女は最初から通じ合っていたようでありやす。昨日の戦いといい、毎晩の悪夢といい、なんとも手の込んだ芝居をしたものでございやす。

 けれども地主殿はそのような事に気付きやしやせん。なにしろ昨日は見ているだけでも恐ろしかった鬼女が目の前にいるのでやすから。

 しかも巫女と仲間と知っては、どうする事も出来やしやせん。恐怖で身を振るわせるだけでやすから。

 そんな地主殿に巫女は言葉を続けやす。

「あなた様は娘さんの恋を成就させるために恋敵を殺しました。親バカとは言いますが、あなた様のはやりすぎでございます」

 娘の恋路に親が出てきて、しかも横車の手伝いをしたっていうでやすから、なんとも甘いといいやしょうか、迷惑な話でやす。

 しかも恋敵を殺してやすから、もう許せる物ではございやせん。

 けれども鬼になりきれない人もいるのでございやしょう。それがおキヌでございやす。

「けれども、おキヌさんはあなた様が許しを乞い、嘘偽り無く世間に知らせるなら許すと仰いました。自分が殺されながらも許すと言ったのです。……けれども、あなた様は最後まで秘め事を打ち明けようとはしませんでした。もう、許せる事ではなくなったのです」

 そうでございやす。秘め事は藤作にあったのではございやせん。全て地主殿にあったのでございやす。

 けれども、地主殿は人を殺しているのでやすから、そう簡単に打ち明けるとは思えやせん。

 そこで藤作に秘め事があるように見せかけて、地主殿に気付かせようとしたのでやすが、上手くは行かなかったようです。

 恐ろしい目に遭ったというのに地主殿は秘め事を隠し続けやした。

「そ、そんな、だ、第一、秘め事は藤作にある言ったではないか、藤作にも秘め事を打ち上げるように説得を」

 この期に及んで地主殿は言い訳をしやすが、巫女ははっきりと言い切りやす。

「私は藤作さんの事を旦那様、あなたの事をあなた様と言い分けておりました。お気づきになりませんでしたか?」

 要するに藤作に話しかけていた事は全て地主殿に話していた事になりやす。

「そ、そんな」

 地主殿は力が抜けてその場に座り込みやす。もう立っている気力すらありゃしやせん。

 巫女は地主殿の姿に溜息を付きやすと鬼女に向かって言葉を掛けやす。

「さあ、もういいでしょう。おキヌさん、連れて行ってください」

 鬼女は頷きやすと地主殿元へ一直線に跳びやすと、地主殿の両肩を掴み持ち上げて沼の上まで飛んで行きやした。

「そうそう、一つだけ教えてあげます。この沼の正しい名前は黄泉路沼よみじぬまです。沼の底が冥府へと繋がっている事からその名前が付きました。さあ、後はおキヌさんがあなた様を冥府へと案内してくれるでしょう」

 巫女の言葉に地主殿は叫びやすが、その叫びは沼の底へと消えていったのでありやす。



 翌日、巫女は藤作の家を尋ねやすと地主殿が命を掛けておキヌの霊を成仏させた事を告げやした。

 さすがに真実を話すのは酷という物でやしょう。

 泣き崩れるお琴を擦りながら藤作が二人の供養を約束しやすと、巫女は藤作の家を後にしやす。

 その巫女が向かったのは夜路沼でございやす。

 さすがに昼間だと道には見えず、しっかりと沼に見えやす。その沼の淵で巫女は沼に向かって呼び掛けやす。

「おキヌさん」

 沼の上に丸い光が出来やすと、そこから一人の女が現れやした。その姿は昨日までの鬼ではございやせん。綺麗で儚げな女の姿でございやす。

「どうも、ありがとうございました」

 おキヌは巫女に向かって深々と頭を下げやす。

「いいえ、私はあなたの依頼をこなしただけです。これであなたが冥府へと旅立てば、私のやるべきことは全て終わりです。……ところで」

 どうやら巫女には気になる事があるようでございやす。いや、腑に落ちない点でございやしょう。それをおキヌに尋ねやす。

「藤作さんの事はあれで良いのですか? 今回の事は地主が全て悪いとは言え、未だに藤作さんに惚れているのでしょう?」

 復讐は果たしやした。けれども藤作への想いを断ち切った訳ではございやせん。そこに未練があっては冥府へ旅立てない、なんて事になるのではないかと心配したようでやすが、それは要らぬ心配のようでやした。

 おキヌは少し悲しげで、それでもどこなく安心したような笑顔を巫女に向けやす。

「良いのです。あの人の幸せを……壊すことは出来ない。それに、あの人はちゃんと私の事を想ってくれていた。それだけで、私は充分救われます」

「そう、ですか。……本当に仏のような人ですね」

「はい?」

 最後の言葉が良く聞こえなかったのでやしょう。おキヌは聞き返しやすが、巫女は首を横に振りやす。

「なんでもございません。どうか、良き旅を」

「はい」

 おキヌはもう一度頭を下げやすと足元から消えていきやす。もう未練は無いのでやしょう。

 それに藤作にはお琴がいやす、何も心配する事はございやせん。好いた人が幸せになるなら、それだけでおキヌは充分なのでございやすから。

 おキヌが旅立って静かになった沼で巫女は一人、天を仰ぎやす。

「どうか、ずっと清らかなままで……私のようにはならないでください」

 言葉の真意は巫女の内でございやす。



 さて、いかがでしたでやしょうか。ヒメ始めにまつわる悲しい話でございやしたが、出来ることならおキヌのように人を恨まない心を持ちたいものでございやす。

 ……えっ、結局は秘迷始めが話の由来かだって?

 いや〜、お客さん、鋭いね〜。実は秘迷始めがこの話のヒメ始めではございやせん。

 このヒメ始めとはでやすね。年が改まってから、巫女のような役割を持つ者がでやすね。悲しい魂を冥府に送ることから『悲冥始め』というのが由来でやす。

 仕事始めのように思えやすが、悲冥始めは遅ければ遅いほど、無ければ無いほど良いと言われてやす。

 なぜかって? そりゃあ、悲しい魂は無い方が良いでやしょう。

 死ぬ時は晴れ晴れとした気持ちで死にたいものでやすね。

 さて、お時間でございやすね。それではヒメ始め、これにて終わりでございやす。ご静聴、ありがとうございやした。







 さてさて、お久しぶりの方はお久しぶりです。初めての方は初めまして〜。

 さてさて、今回のヒメ始めはいかかでしたでしょうか。……ふっ、何人がタイトルに惑わされたかな。……いや、わざとじゃないよ。……まあ、期待した事は認めますが。

 まあ、そんな訳で人中鬼門録と同じように、全て語り口調で通してみたのですが、いかがでしたでしょうか。

 人中鬼門録では賛同の声が多かった……と思った。ので、今回も同じように全て語り口調にしてみました。う〜ん、まあ、悪くは無い……と思って!!!

 さてさて、そんな訳でこのシリーズは二作目になるわけですが……次があるかは分りません。というか、シリーズで書いていった方がいいのだろうか? それ以前にこれ以上のネタをどこから出そうかと、いろいろと悩むかもしれない今日この頃を送っております。

 まあ、そんな訳で、気が向いたら三作目を書きますね。

 ではでは、ここまで読んでくださり、ありがとうございました。そして、これからもよろしくお願いします。

 以上、運気が向上してきた……かもしれない葵夢幻でした。

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