欺瞞のあと
しばらく考え事をしてから眠り、再び目が覚めると、十三時を回っていた。
「昼、食べないと」呟いて、ベッドから降りた。オレは油断すると食べずにいてしまうので、そこは気をつけている。
幸い、頭痛は治まっていた。裸足のままペタペタとダイニングへ向かう。窓の外は今日もいい天気だ。
朝見つけた皿の上には、おにぎりが一つとピリ辛きゅうり、ウインナーと卵焼きがのっていた。
その横のメモを再び手に取り、読む。一旦寝たオレの頭は、冷静さを取り戻していた。「やっぱりあれは夢じゃない」と口に出す。オレの記憶が混乱してるとは思えない。
となると、今のこの状況が作られたものということになる。何故こんなことを? そこが分からない。
とにかく昼食を食べようと、メモは一旦置いて、皿を持ってキッチンへ向かった。
おにぎりを割ると、中は明太子だったので、少し深めの碗にほぐし、冷蔵庫にあった豆腐を手で崩して、おにぎりの上へのせる。更にバターをのせ、レンジで温める。その間にネギを切り、インスタントだがカフェオレも作った。温め終わったものに麺つゆを少しかけて、切ったネギを散らす。
作ったものと、皿にのったものをダイニングに運び、一口ぱくりと食べる。
「明太子っていつ食べても美味いな」
とにかく血糖値を上げてから考えよう、とよく噛んで食べた。
食後のカフェオレと、光紀のメモを持ってソファに移動する。深酒して寝落ちしたと書かれているし、家の中の様子では、このメモを疑う余地がない。
だが、時間を置いて考えてみた結果、オレはオレの記憶を疑えない、と結論が出た。
根拠の一つとして大きいのは、オレが光紀の指の味を覚えていることだった。オレは夢では味覚が働かない。
今まで、夢の中で一度も働かなかった味覚が、今回初めて働いた可能性もある。だが、可能性としてはかなり低いだろう。それならばオレの記憶が間違いないと仮定して、現状が不自然な程に装われていると考えた方が、色々と早そうだ。
必要ないと思ったが、これは駆られる根拠を聞いておくんだった。光紀がここまでする、というのは、それなりに訳があるんだろう。
そう思い、一人逡巡していると、ある単語が浮かんできた。
それと、妙な心当たりが一つ。
十八時前になり、玄関の扉が開く音がして「ただいま」と光紀の声がした。
「おかえり」と、いつも通りにリビングから声だけかけると、光紀もいつも通りに洗面所へ手を洗いに向かったようだった。
きっとまた前髪グシャってしてんだろうな、と思いつつ、オレも洗面所へ向かう。光紀の背後から「お疲れ。おにぎりありがとな」と声をかけると、いつも通りに前髪をグシャっとした光紀が「いいえー。いやぁ今日はちょっと疲れたー」と手を水で濡らしつつ、天井を見上げて言った。
「そいえば、Suicaに新しいデザイン貼ったって言ってたよな? 見たいから貸してくれ」
「Suica? いいよ、ちょっと待ってね」
光紀は手を拭いて、廊下に置かれた仕事用の鞄から革製のパスケースを出して渡してくれた。
「ありがとう。とりあえず着替えろ?」と言うと「うん、そうするよ」と、光紀は荷物を持って自室へ向かう。
オレはリビングへ戻り、自分のスマホを手に取ると、躊躇いなく、スマホのリーダーで光紀のSuicaを読み取った。
画面に数字の羅列が出てくる。
何度か同じような数字が並んでいる。これはここ数回、打ち合わせに行っている分だろう。
しかし、今日の分だけプラスで違った数字も並んでいる。中に結構大きな金額があった。光紀はSuicaで買い物は殆どしない。
交通費だとしたら……タクシーか? 電車は聞いたが、タクシーは聞いていない。
更に細かく見ると、普段の電車とタクシーの間にも、おそらく電車に乗っている。寄り道の予定があれば、教えてくれるが、これも聞いていない。履歴から察するに、タクシーに乗ってどこかへ行き、また駅に戻ったようだ。
数字を見て、オレの中で不自然さが増した。やはり今日全体が、装われている可能性が高いと、思わざるを得ない。
オレは数字を頭に叩き込み、一応画面を写して保存し、スマホをローテーブルへと戻した。
どうしたもんか。何故こんなことをしている、とストレートに聞いていいものなのか。人の心の機微に鈍い自覚はありつつ、気にしたことは無かったが、今回ばかりはそれがネックに感じる。
パスケースを両手で持って見つめたまま、ソファで固まっていたら、部屋着に着替えた光紀がやってきた。
「二日酔いしなかった?」と聞かれたので
「朝起きたとき頭痛がしたが、薬飲んで寝たら治った。昼過ぎには起きれた」と答えた。
「それなら良かった」と光紀はいつもの笑顔で返してくる。
水出しのお茶の容器とコップを持って、光紀がソファへと腰掛ける。
「今日、何作ろうか。何か食べたいものある?」
「すまん、買い物行かなかったから、材料があまり無い」
「いいよ、体調優先だもの。でも今からスーパーに行くのもダルいねぇ、コンビニか、何か取るかしようか」
あまりに普段通りで、オレは困惑する。
オレが手に持ったままのパスケースを見て、光紀が「何か好きなモチーフとかあったら描くよ?」と言う。
「……」言葉が出てこない。
「? どうかした?」と光紀がオレの顔を覗き込むように首を傾げる。
昨日の歪んだ笑みを思い出したオレの背中に、冷たいものが走った。
やはり、聞くべきだ。放置していいことではない。だがいつも通りの光紀の顔を見て、喋れる気がしない。
パスケースをローテーブルに置いて
「光紀、ちょっと膝に乗せてくれ」とオレが言うと
「ん? うん、どうぞ」と光紀はソファに座り直して膝を空けてくれた。
光紀の膝に乗ると「どうしたの? 珍しいなぁ」と後ろから嬉しそうな声が聞こえて、光紀の腕が回ってくる。
「変なこと言ったら悪いんだが」と一応断る。
「何?」
「昨日飲んだよな?」
「飲んだねぇ。楽しかったよ、ありがとう。でも深酒させちゃってごめんね」
「オレ、全然その記憶無くて」
「随分飲んでたからね」
「その記憶は無いが、違う記憶はあるんだ」
「違う記憶?」
「光紀が部屋に行きたいって言って、その後の記憶」
「いやだなぁ、そんなこと言ってないでしょ。やっぱり朝うなされてたの怖い夢だったの?」
光紀は後ろからオレを抱きしめて、髪をなでる。
これは、譲る気は無さそうだな。
「夢は、見ていない。魘されてたのだとしても今日のは覚えてないから、怖くはない」
「そうなの?」
「光紀、どうしてこんなことをしてる?」
「こんなことって?」
「何故、オレを抱こうとしたことを無かったように装っている、と聞いている」
「ん?」
「手が込んでて驚いたが、いくら状況が揃っても、オレの記憶と感覚は残っている。それをオレは無視できない」
「何か、酔ってたから、勘違いしてる?」
光紀はあくまで装いたいようだ。オレには、何故こんなことをするのかが分からない。
故に、オレも譲る気はない。
「言っていなかったが、オレは、夢で感じない感覚があるんだ」
遠くを見て、なるだけ穏やかな口調になるよう気を付けて、オレは静かに言った。
「感覚……?」
「昔から例外なく、その感覚は夢では感じない。だが光紀が夢にしたいのだろう記憶には、その感覚が残っている。つまりオレの中の記憶は事実として動かない。そもそも情報の質量が、夢とは全く違う」
「勘違いじゃなくて?」
「勘違いではない」
オレは言い切ってから、少し俯き加減になって続けた。
「オレは確認をしたいだけだ。夢なら夢で構わない。だが夢でないならきちんと話したい。アンタがこれだけやるっていうのは、ただ事じゃないだろう。何か理由があると思ったから、聞いている。もし遊びでやってるというなら、お遊びがすぎるぞと言いたいが、万が一にもそんなことは無いだろう。昨日重症だと言っていたのに、何故だか今こういう状況になっていて、何があったのか分からんから、正直心配だ」
静かに静かに、オレは自分の爪先を見ながら喋る。
「……」
返事が無いので、振り向いて声を掛けようとしたら、光紀が力いっぱいオレを抱き竦めてきた。振り向こうにも振り向けない。首だけ動かして見ると、光紀は下を向いているようだった。
「おい、光紀」
思わず声を上げると
「ごめん。ごめんね、結大くん」と蚊の鳴くような声で、光紀が言った。
「……何を謝ってる?」
「今日、その、こんなことを、してしまって……」
「やっぱり装ってたか」
と、ため息混じりにオレが言うと
「本当にごめんなさい」
後ろから、はっきりと聞こえるが、力ない声で光紀が言う。
「とりあえずあれだ、謝る時は相手と顔を合わせた方が良いと思うが」とオレが零すと
「ごめん、今それは無理。合わせる顔が無い」と即答された。
何だそれは、とオレは再びため息を吐き
「多分だが、光紀が思ってる程は怒ってない。別に殴ったりしない」
「殴ってくれた方が僕はいっそ楽だけど、結大くんに殴らせたくない」
やっぱり、オレには人の心の機微が分からないらしい。「殴らせたくないって何なんだ」とオレは一人呟く。
「……面倒なこと言ってると、オレが勝手に考えたこと、全部喋るぞ」と言ってみる。
「……どうぞ」と静かな声で返ってきた。
予想以上に面倒なことになったな、と思い、オレは体中の空気が抜けんばかりに、盛大に息を吐いた。
一呼吸置いてから「それじゃあ、勝手に喋るが」と前置きをした。
「今日のこれが装いであると確定したから、昨日の記憶が正しいことになった訳だが、昨日のアレは一体何なんだ。途中から記憶が無い。腹の中も、まだ若干違和感があるしな。せめてきちんと相談しろ、そう二人で決めただろ」
「……はい、すみません。謝罪に充てる言葉が足りなくて言いようがありません」
「で、まあそれはそれとして、昨日光紀が言ってたことを考えてみた。『まだダメ』だと言っていた。それで思ったんだが、まだ、ということは目的はその先にあるということだろう。あの先にある目的は何かと考えてみたんだが」
「はい」
「ネクロフィリアなのか」
と、オレが言った瞬間、いきなり光紀が立ち上がって、オレは床に放り出された。
床とテーブルに片手ずつを付いて、何とかどこも打たずに済んだが、かなり吃驚した。テーブルの上に載っていたコップは残念ながら倒れ、お茶がテーブルに広がる。
「おい、いきなり立つな!」と言いながら、床に腰をついて振り返ると、顔面蒼白で目を見開いた光紀が立っていた。
「え、なん、何でそれ、どうして」
手を震わせながらオレに問う。
「何でって、あの状況の先ってなると動かなくなった死体みたいな身体しか無いだろ」と返すと、光紀が空を見たまま、ぽすんとソファに沈む。
「え、知ってる、の?」
「何をだ? ネクロフィリアのことか?」
ギクリと肩を震わせてから、光紀が「……うん、そう」と、小さな声で言ってきたので「そういう嗜好の人間が居ることは知っている。逆に知らないと思ったのか」と聞き返す。
「確かに……結大くん、なら……知ってる可能性が大いに、あり得た……」
光紀は上体を丸めて、顔を両手で覆って言った。
光紀のそんな姿を見るのは初めてで、オレは内心少し焦る。
「何か、盛大に落ち込んでるっぽいところ悪いが、何をそんなにショック受けてるんだ?」と聞くと
「……こんなことバレて落ち込まない訳ない」と返ってきた。
「何故? 嗜好の一つだろう」
「そう、思うのは、結大くんだからだよ、でも結大くんだって……」
泣きそうな声が聞こえる。
「バレた相手がオレなら問題無くないか」
光紀がゆらりと顔を上げ、こちらを見る。
「僕……、僕っ、それで君にあんな酷いことして、問題無いわけないでしょう? 何言ってるの」
目に涙を湛えて、オレが形容詞を持ってない感じの、グシャグシャな顔で光紀は言う。
「ちょっと、落ち着け。オレも一旦黙るから」
オレは静かなトーンで言った。それを聞いて、光紀は再び両手の中に顔を埋めてしまう。
まさか泣かれるとは思わなかった。
とりあえず、オレはタオルを取ってきて、テーブルの上を拭いた。光紀のコップに新しいお茶を入れ直し、キッチンから自分のコップも取ってくる。ソファと床と迷ったが、ソファに決めて、光紀から少し離れたところに腰を下ろす。
数分黙ったまま、持ってきたコップでお茶を飲んだ。
「つかぬことを聞くが。……聞いていいか?」
光紀を見ると、僅かに頷きが返ってきたので
「いつから我慢していた? 正直に教えてくれ。勿論、言いたくなければそれでも良いが」と聞いた。
しばらく沈黙が続いた後、
「……一年近く。詳しくは覚えてない」
ぽつりと返答があった。
「普段から、あるものなのか? それとも周期的に?」
「普段は無いよ。もう、何年ぶりかも覚えてない。前にこの発作が出た時からは五年以上は間があったと思う」
「じゃあ、いつもの独占欲とは関係は無いのか?」
「多分、無い。少なくとも僕の中では、全くの別物」
淡々と質問と応答を二人で繰り返す。
いつもの独占欲とは関連なく、一年くらい前から、と聞いて、オレは昼に思い当たった、心当たりに行き着く。
「我慢してたのは、オレが出てきた辺りからってことでいいか?」
と問うと、光紀は手に顔を埋めたままに、頷く。
「もう一つ聞きたい。今まで他の人間のことだから、気にもしなかったんだが……オレ以外の運転者、前の二人のうちで言えばだが、朔矢のことは、抱いたか」
それを聞いて、光紀はゆっくりと顔を上げる。割といつも通りの顔に戻っていたが、目が少し赤くなっていた。
「朔矢で分かるか? ちょっとツンした感じのヤツだ」
「朔矢ちゃん?」と光紀が言うので
「そう、朔矢」とオレは繰り返す。
「オレに対する時間の掛け方を振り返って、光紀のペースだとどう考えても、現段階ではオレしか抱いてないはずなんだが、朔矢はどうだった」
光紀は指を組んだ自分の手に視線を落として
「……頼まれて」と言った。
「やっぱりか」とオレは呟く。
「なんで?」
「ある程度確証があるから言うが、光紀の今回のトリガーを引いたのは、多分朔矢だと思う」
と俺は告げる。
「ごめん、言ってることがよく分からなくて」
「あれはそういう性質なんだとしか、説明が出来なくてすまないが。何というか、触れた人間の非日常の部分を剥き出しにさせるというか……説明が難しいんだが」
オレは口ごもる。
「でも別に、僕は何もされてない」
光紀が不思議そうに言う。
「何もしなくても、あちら側へ引き摺るのが、朔矢だ。まして抱いたとなれば尚更だ。あの行為は関係が深すぎるからな」
光紀がポカンとしているので、オレはテーブルの真ん中を縦になぞりながら
「例えばだが、こう、日常と非日常が分かれてるとするだろ。こっちが日常で、あっちが非日常だとして。オレは日常側の人間だ。光紀もそうだろう。だが、朔矢はあちら側の人間だ」と、オレはあっち側へコップを置く。
「え、でも全然、日常的なこと問題なかったよ?」
「だから怖いんだ。あちら側に居るのに、こっち側と見せかけているんだから。本人に悪意は無いし、悪いヤツではないんだがな。オレは外から来たであろう幽霊みたいなもんだが、朔矢は元々この身体に居た類で、あちら側へ連れて行かれた。そんなのと無防備に触れあえば、当然引き摺られる。気付かない内に」
そう言いながら、オレは手前からコップへと、指を動かす。
動く指を見ていた光紀が、
「ちょっと待って、連れて行かれたってどういうこと」
と顔色を変えてオレに向けて問う。
「オレから言ってもいいが、本人から聞いた方が良くないか。多分、聞いても言わないだろうが。大体は、朔矢じゃないもう一人から聞いたと思うんだが」
と、オレは光紀の目を見て返す。
光紀が、目を瞠った。
「光紀、この身体は、こういう風に出来ている。プロポーズして振られたと言っていたが、本当に厄介なんだ。今回のことも、オレだから良かったとしか言い様がない」
「え?」
「朔矢はあの状況で踏み留まれる人間ではない。おそらく、意図を読まれて実際にやれと乞われたはずだ。あいつはあっさりと境界を超えていくし、他人にも超えさせる」
「僕が、殺してたかも、ってこと?」
「どこまで行くか分からんが、光紀の目的地があちら側なら、その通過点を通る可能性はある」
「いくらなんでも、そこまで……」
光紀が驚いた顔をこちらに向けたが、オレは構わずに続けた。
「思い出してみろ、昨日の自分の状態を。そこにあの朔矢に本気で頼まれて、非日常のベッドの上で、断れるか。そんなのは、もう完全に朔矢の領域だ」
「……そういえば……首を絞めてほしいって、言われたことが……」
光紀が自分の手を見たままに固まる。
「だろうな。あちら側に続く簡単な方法だ。そう言われた時、何を想像した?」
光紀が再びこちらを見て、目を見開いたまま絶句する。
「おそらく、そう言われたのが、今回のトリガーだろうな」
オレは静かに、そう零した。
ややこしい上に、何だか妙な話をしてしまった。
「大丈夫か?」と聞くと
「僕は、大丈夫。だけど、朔矢ちゃんとは、じゃあ、どうしたら」と光紀が困惑気味に言う。
「会わないのが一番だろうが、現状を続ける気なら避けては通れんな。だが、光紀に限った話ではない。誰でも多分、朔矢相手にはそうなる」目線を落としてオレは言う。
部屋に沈黙が落ちた。
ふと、ぽつりと
「……結大くんは、あんなことした僕を怒っていないの?」と小さな声で聞かれた。
「相談が無かったことは怒ってる。相談があって、そういう目的でというのであれば、こちらもそれ相応の心づもりをした。何か方法を考えたろうし、断ることは無かったろう。だが今の話で腑に落ちた。光紀の嗜好を知らずにトリガーを引いたのはこちらだから、一方的に光紀が悪いわけじゃない。ただ――」
「ただ?」光紀が難しい顔で繰り返す。
「朔矢は破格に可愛いからな、我慢がきかなかったのも分かる」と言うと、光紀が「今ふざけるところじゃない」と眉根を寄せる。
「ふざけてはない。本当にそう思っている。同じ身体のオレから見ても、あいつは可愛い。それを武器に罠に使い、引き摺るんだから性質が悪いが」と返すと、唐突に
「結大くんだって可愛いよ」とそっぽを向いて言われた。
「は?」と思わず声が出る。
「というか、結大くんは可愛くて、かっこよすぎ」
「おい、どうした。何か混乱したか?」
何を言い出したのかと、オレは若干慌てて声をかけた。
「混乱してない。朔矢ちゃんももう一人の彼女も、それぞれ素敵だよ。でも二人と違った感じで、結大くんだって、十分に蠱惑的なんだよ」
「蠱惑的とは、穏やかじゃないな」
オレは驚いて、光紀の後頭部を見る。
「そういうつもりは、全然無いんだが」と呟くと
「そういうところもだけど……僕、正直バレるのすごく怖くて、こんな茶番を演じるまでして、結果的にバレて。なのに結大くん、冷静に分析してるし、事実が分かっても驚かないし、見た目全然怒ってないし、自分も悪いとか言い出すし、聞いてたら断らなかったって言うし。なんかもうかっこよすぎる……」
光紀の声がどんどん小さくなっていく。
「それは蠱惑的ではなくないか?」
「そんなに男前なのに、ふわふわで、でも外ではかっこよく歩いてて、なのに僕の前では、ふにゃんとするじゃない」
相変わらず光紀はそっぽを向いている。
「……ふにゃんて何だ。分からん」
光紀の襟足を見ながら、オレは呟いた。
「ふにゃん以外に言い様がない。もう、ちょっと、僕のキャパがパンパンだから、ごめん待って」
「へえ、ふにゃんとなぁ」
光紀が落ち着くまで、お茶を飲みながら、ワックスの付いた後頭部を見つつ待つことにした。
数分経って落ち着いたのか、光紀がソファに座り直し、
「取り乱してごめんね。そして、今回は本当にごめんなさい。まだ、実証実験は続けてもいいですか? もう顔も見たくないとか、なっていても仕方ないと思うから」と聞いてきた。
「逆に聞きたいが、諦めはつかないのか? 朔矢の問題も浮上してる訳だが。光紀はどうしたい?」と聞き返すと
「僕は、結大くんたちと一緒に居たい」と、目を見て言われた。
「なかなか諦めが悪いな」
「僕でいいと行動で表してくれる人を、手放したくない」
光紀はきっぱりと言い切る。
「そこまで決心が付いてて、今回なのか。人の心は複雑怪奇だな」思わず笑ってしまった。
「笑われても仕方ない程のことはしたと思ってるよ?」と光紀は少し困ったような顔をする。
「いや、すまん。光紀のことがおかしい訳じゃないんだ。何ていうか、その儘ならなさが、何と言ったらいいか……笑えてきた。自分も儘ならないなと思って」
「いや結大くんは相当儘になってるタイプだと思う」
「待て、おかしなこと言うな」
笑いが止まらなくなる。
「え、何がそんなにツボったの?」
「オレも一応、自分を人? だと、自覚してるわけで、儘ならないのは当たり前で、なのに儘に、なるって……人に、まにまが、ふふ、神なら分かるが」
本格的にツボった。
「ごめん、僕付いて行けてない。何でいきなり神?」
「かみ、かみの、まにまに」
「何だっけそれ」
「かんけ、たむけ」
「ちょっと結大くん」
「ググれ」息が苦しい。
オレがソファに倒れて笑っている間に光紀はググったらしく、
「また百人一首じゃない。僕そんなに詳しくないんだから手加減してよ。菅家の歌で笑ってたの?」
スマホ片手に見下ろしてくる。
「いや、儘から菅家、出てきて、他の歌、思い出して、そしたら、千年前から、人って変わらないなって。千年じゃ、進化には、全然世代が、足りないが」
オレはソファに倒れたまま、息も絶え絶えにどうにか言葉にする。
「儘は、まにまの、転じたものだろ。随意に、なんて、オレは儘に、なんて、なってない」
「少なくとも僕よりは、自分を制御してるでしょ?」
「いや、オレは制御してる、つもりない。正直、一年耐えたって、さっき聞いて、光紀は凄いと思った」
「だってあれは……そうしないといけないというか、あまり、表立って言うことではないし、本当は巻き込みたくなかったし」
そう聞いて、笑いが引っ込んだ。オレはソファに座り直し、膝の横に手を付いて口を開く。
「知られるのが怖かったと言ってたが、そこが分からない。関係が破綻する可能性もあるのに、知らせない方が怖くないか」
「それは、そうなんだけど……言わずにいたかったというか」
「何故?」
「……結大くんは、とても純粋だから、こんなどす黒いものを見せるのが、僕は嫌だった。結果的にはそれより酷いことをしてしまったけれど」
「オレから見れば、別段どす黒くない。嗜好に白黒というのも妙だ。それに光紀が思うほど、オレは純粋でもない。それは光紀の思うオレであって、オレ自身とは乖離があるな」
そう言うと、光紀は困った顔をする。
「それでもやっぱり、出来れば言いたくない、あまり声を大にしては言えないことだよ」
「そうなのか。しかし、そういう嗜好になるっていうのにも、大抵トリガーがあるらしいじゃないか。光紀のそのトリガーを引いたのは、きっと親しかった人間の死だろう。家族の話では死別を聞いていないから、それ以外の人間だろうな」
光紀の瞼が数回瞬き、その後黒目が真っ直ぐにこちらを向く。
「図星か」
「結大くんは探偵とかなの?」
「いや、事実をつなぎ合わせて、浮上してくる可能性を述べてるだけだ。親しい人間を亡くして辛かったな」
「……うん」
「誰だったのかとか聞くつもりはないから安心しろ。光紀が話したいなら別だが」
「ありがとう」
そう言う僅かな笑みを見て、駆られた理由の根本はここだったのだろうと、内心納得がいった。そして多分、普段駆られる理由もおそらくここなのだろうと、直感的に思った。
「ただ、どうなんだ、今回は流石にペナルティものだとは思うんだが」
「う、はい」
「ペナルティを決めてなかったな。どうする?」
「結大くんは、どうしたい?」
「そうだな、どういうことがペナルティになるのか分からないが……何か光紀が辛いこととかってことだろ?」
「う、うん」
「光紀は何が辛い?」
「それ、僕が言ったら、結大くんやるよね?」
「やる」
オレは躊躇いなく言い切る。
「……言わなきゃダメ?」
「ダメだ。やられてもダメージがそこそこな感じの、程度のいい辛いことにしとけ」
「凄い難しいんだけど」
「それなら、目には目をってことで、オレと同じ目に逢ってみるか?」
「え?」
「昨日のこと覚えてる範囲で、オレが光紀にやってみるか?」
光紀が固まった。
「オレがやると百パー痛いだけだろうがな。どうする?」
「……痛いというか、多分僕には入らないよ」
「そうなのか。どうしたら入る?」
「う、うん? 馴らせば入るのかもだけど……いや、ちょっと待って。僕、その、ずっとタチだったから、そのお話に結構動揺してる」
光紀の目が泳いでいるのを見て、オレはふと思い出した。
「あ、そうか。初めてネコの場合は、まずレストランからか。フレンチかイタリアンか……イタリアンフレンチ?」
「違う違う、そうじゃなくて」
「フレンチじゃない?」
「レストランから離れて!」
「分かった、離れる」
レストランではないらしい。
「ごめんね、説明してなかったけど、僕リバじゃないんだよ。ネコタチどっちもいける人も居て、そういう人のことをリバっていうけど、僕はリバじゃないんだよ」
「……つまり、光紀はタチ専門ってことか?」
「そう」
「タチの方面から見ると、入れられるのは大分侵襲的か」
「はい。分かっていただけましたか」
光紀がホッと息を吐く。
「分かった。じゃあ丁度良いな」
「え?」
「なかなか侵襲的だったから、丁度良いなって思ったんだが」
「ごめんなさい! もう僕、自分で考えるから! それだけは許して!」
光紀がオレの肩を掴んで、必死の様子で言う。
「分かった、そこまでなら、釣り合わないだろうから」
「……あり、がとう……。はぁ、釣り合うとかもう本当、そんなレベルじゃないはずなんだけどな」
がくりと頭を垂れて、オレの肩を掴んだままに光紀は続ける。
「ねえ結大くん、僕に拒否権なんて認めなくて良いんだよ。僕は結大くんを、拒否出来ない状況に追い込んで酷いことしたの。そういう、酷いことされたの分かってる?」
「まあ、そこそこ」
「そこそこって……」
「言わなかったか、オレが本当に怖いのは、この身体が無くなることだけだ」
光紀の言わんとする事がイマイチ分からず、少し頭を右に傾げながら、オレは普段通りの口調で告げる。
「逆に言えば、この身体が無くなることに繋がらなければ、大抵はそこそこだ。オレの場合、昨日のことも、今となればそこそこだ。まあ若干の逸脱は感じたから少し怖かったが」
光紀が眉根を寄せて目を見開き、オレの顔を見ると、いきなりきつく抱き締めてきた。
「僕が馬鹿だった! 結大くんはそうだったのに、僕があんなこと!」
「すまん、言ってることが分からん」
「結大くん達が、そこそこって言って済ませるしかない状況に、置き去りにしてきた大人に、あんなに腸煮えくり返ったのに、僕が同じことしたんだって、物凄く、自分に頭来てるっ……怖かったよね……」
光紀の腕が震えている。
右側にある光紀の頭を横目で見て、何だか不思議な気持ちになる。
「あー……光紀はあの人達と同じじゃない。同じならオレはここに居ないし、絶対に触らせない。特に頭はな」
オレの後頭部に触れている光紀の手がピクリと僅かに動いた。
「だけど」
「昔のことはあまり気にするな。オレは特に気にしてない。前と今のそこそこは違うし、怖かったのも逸脱だけだ。光紀が怖いわけじゃない」
「それでも、僕が怖がらせたことに変わりはないんだよ」
「それはそうなんだが」
「僕、本当に……」
「分かった。そしたらそうだ、ちょっと一旦腕ゆるめてくれ」
オレの言葉を聞いて、光紀が躊躇いつつも、ゆっくりと腕をほどく。身体を離すと、また光紀は泣きそうな顔になっていた。
「そんなに言うなら、そこは相殺しようじゃないか」
「相殺?」
オレはローテーブルに置かれたスマホを手に取り、サクサクと操作する。光紀がキョトンと横で見ていた。
「さあ、怖がれ」
さっき読み取った画面を、光紀の目線に合わせて強制的に見せる。
「なにこれ?」
「光紀のSuicaの情報。今日の不自然さの確信が欲しくてな、悪いが抜かせてもらった。すまん」
「……へっ?」
事態が飲み込めないのか、光紀は画面を見たまま、素っ頓狂な声を上げる。ローテーブルに置かれたままのパスケースと、画面を交互に見てから
「新しいデザイン見たいって……え?」
と言って、再び画面を見る。
「それも嘘じゃないが、見たい第一希望は今日の履歴。デザインは第二希望だ」
「履歴見て、どうしたの?」
「どこかへ寄ってきたんだな、と思った。寄り道も、いつも大抵言っていくだろ」
「ん? うん、そうだね」
「多分だが、普段あまり乗らない路線に乗って、その先でタクシーに乗ったろう」
「え……」
画面を泳ぎ続けていた光紀の目と、オレの目が合う。
「タクシーでこんな値段使って、どこ行ってきた?」
笑顔を作って、画面横をトントンと人差し指で叩くと、光紀が固まった。
「……」
「オレには言えない所?」
目が合ったまま、オレはわざと、にこりと聞いた。
「いや、その……」
「光紀はSuicaでは殆ど買い物しないよな? こんな値段になる交通費ってタクシーくらいだろう? わざわざどこへ行ってきた?」
目も逸らせないのか、固まったままの光紀へ、この身体の外見で考え得る最高の笑顔で、少し首を傾げて問う。
「やっぱり言えない所?」
「……え、と」
「……」にっこり。
「……」
しばらく笑顔を続けていたら、普段無愛想だからか、顔が疲れた。
いつもの顔に戻し、スマホも取り下げる。光紀の視線はスマホに付いてきて、そのまま黙ってオレの膝の上を見ている。
「はぁ……」疲れた頬を片手で揉む。
「……」
「どうだ、怖かったか?」
光紀がこちらを見る。
「ぇっ、え?」
「あんまり怖くなかったか?」
「……」
「口が開いたままになってるぞ」
光紀の顎を下から押してみた。
「えっ、嘘?」
「何が?」
「どこまでが本当?」
「全部本当だ」
スマホに目線を落としてオレは言った。
「え?」
「強いて言えば、オレはタクシーの行き先には、今言ったほどは興味ないかもだが」
「タクシーって書いてあった?」
「いや? 値段で勝手に想像しただけだ。そんなにオレの顔を見ても何も出ないぞ」
あまりに視線を感じるので、一応言及しておく。
「想像したの?」
「ああ」
「……え、想像を喋ったってこと?」
未だオレの顔に視線を注ぐ光紀へ、視線を返す。
「そうだ。光紀を怖がらせようと思って、想像を喋った。あまり怖くなかったか」
「……こわ、かった……」
「怖かったか?」
「こわ、い、よ?」
「怖かったなら良かったが」
ようやくオレの顔から視線を外した光紀が、パスケースを再び見ている。
「……」
「オレの知識で怖がらせるのは、これが限界だ」
「……こわっ!」
「いきなり声を張るな。心臓に悪い」
聞いたことのない音量で光紀が喋るので、ビックリした。
「こわっ、怖い! 怖かった! すごい怖かった!」
「怖かったなら、良かったと言っている」
「良くない! 怖いよ! すっごいビックリした!」
「だから、良かったじゃないか」
「僕絶対浮気しないから! いや、しないんだけど、絶対しない! 勝てる気がしない! 絶対勝てない気しかしない! 物凄い怖い!」
「そんなに怖がってもらえたなら本望だ」
肘掛けに片手で頬杖をしながら、少し笑ってオレはそう返した。
「待って! 全くなんだけど! 僕全然分からなかったんだけど! 何、どこまでが本当なの?」
「だから、全部本当だ」
「全部本当?」
「全部本当」
光紀が焦った様子でこちらを見る。何度本当だと言えば分かるのかと、若干呆れつつ、オレは繰り返した。
「ご、ごめん、付いていけなくて……良ければ説明してほしいんだけど」
オレは顔を光紀に向けて、すうっと口を開く。
「今日が装われてる確信が欲しくて、けどオレが光紀に直接聞かずに得れる情報は限られてるだろ。で、Suicaの履歴に何か残ってないか見たかった。新しいデザインも見たかったし、丁度良いから借りた。それをリーダーで読み込んで、金額から、光紀の今日の行動を何となく読み取った。数字しか書かれていないが、ここ数回の外出と今日とでは数字の傾向が違う。最近出てきてない額は、普段あまり乗らない路線だろうと思った。大きな額は買い物かとも思ったが、光紀はSuicaで殆ど買い物をしないことを考えると、交通費である可能性が高い。高い交通費となればタクシーかと思った。少額、高額、少額、と並んでいるということは、駅からタクシーでどこかに出掛けてUターンで駅に戻ったんだと思うんだが」
「待って待って! もう怖い!」
光紀が自分の腕を抱いて、身を竦めて言う。
「大丈夫だ、何線かは調べてない」
「何線て……大丈夫というか……物凄いナチュラルに借りてったのに、そんなこと考えてると思わないよ」
「思わないだろうなと思ったから、借りた」
「思わないよ……嘘吐けるんだね」
「嘘じゃない。デザインは第二希望だと言ったろう。見たかったのは本当だ」
言いつつオレはスマホを置いた。光紀が大きく息を吐く。
「……結大くんを敵に回したら、こうなるのかぁ。すごいこわいなぁ」
「敵じゃないから手加減してるだろ。敵なら手加減しない。徹底的にやる」
「徹底的って、例えば今日が浮気だったらどうするの……?」
「浮気だったら? 特に。放っておく」
「放っておくっていうのも結大くんぽいけど、放っておかない場合どうするの?」
何故さっきから浮気の話ばかりする、浮気の予定があるのか、と突っ込みたい。が、どうもここが光紀のポイントなのだなと思い、一応考えてみる。
「あー、読んだ履歴から行き先の候補を割り出して、とりあえず何もしない」
「とりあえず……その後は?」
「教えない。手札は切らずに持っておくものだ」
「手札って……!」
僅かな笑顔で返したら、光紀がまた身を竦ませていた。
「それだけ怖かったなら、相殺できたろ。だから怖がらせたとか、気にするな」
「僕、もう絶対に今回みたいなことしません。ごめんなさい。正直、ここまでと思っていなくて……」
光紀が深々と頭を下げている。何だか今日は光紀の後頭部をよく見かける気がした。
「侮ってていいぞ」
「え?」
「その方が、色々と都合がいい」
「いや、侮るつもりは無いよ。それに僕が良くないんだけど。なんかもう手の平でころころされてない?」
「手玉には取らないから安心しろ。さて、あとはペナルティだな」
「自分で考えるって言っちゃったけど、どうしよう。釣り合いが難しい」
光紀が困った様子で手を口元に持って行く。
「さっきから思ってたんだが、もうやらないって言って、何だか怖がってる時点で、既にペナルティになってないか」
「そういう意味ではそうなのかもだけど……これはこれ、あれはあれで別問題と思うんだよね」
「そしたら、釣り合いそうないい感じで、勝手に反省しといてくれ」
再び肘掛けに肘を突いて、オレは言う。
「え、結大くんがそれでいいなら、勝手に反省しておくけど……本当にそれで良いの?」
「反省以外に何かあるか?」
「相手に何かやってもらおうとか、買ってもらおうとか、何を命令したって怒られない状況だよ?」
「オレは反省してもらえればそれでいい」
「無欲だなぁ、知ってたけど。何かないかな? 僕に出来ること。僕としては、結大くんが釣り合うと思うことで、きちんとペナルティ受けたいんだ」
「光紀に出来ること?」
「うん、そう。結大くんに僕が出来ること、無いかな」
光紀が目線を床へと落としながら呟いた。
オレはしばらく考えて、光紀を見る。光紀が首を傾げて、力ない笑顔をこちらへ向けていた。それを見て、一つふと思い付いた。
「……昨日の、光紀の笑顔がな、怖かったんだ。今だから分かるが、本人が逸脱していると思っていたから、余計に逸脱して見えてしまったんだと思うんだが。かなり直で見てしまったから、焼き付いている。オレとしては、出来れば日常に持ち込みたくない。光紀もそれは本意でないと思う。この記憶の上書きや消去は出来るか」
自分の手を見ながら告げると、申し訳なさそうな声が返ってきた。
「ごめんね、怖い顔見させて。結大くんの言う通り、僕もそれは本意じゃない。だから、僕やってみるね」
答えに少し驚いて、光紀を見る。いつもと変わらない顔で少し眉尻を下げていた。
「やってみると言っても、記憶だぞ。物理的にどうこう出来ないだろ」
「うん、だからこそ。結大くんがその記憶を引きずらないようにするのが、僕がしなくちゃいけないことだよね」
「悪いんだが、オレは結構、記憶力いいと思う」
「知ってる。だから余計。僕が見せてしまったものは、僕が責任取らなくちゃ。上書き出来るよう、最善を尽くさないとね」
「安請け合いするな? 光紀の場合、出来ないとなったら後で辛くなるだろ」
「それはそれで構わないよ。僕は結大くんの記憶力がいいと分かってて、昨日あんなことしたんだよ? だから、ペナルティ以前にこれは当然のこと」
「当然のこと……」
「そ。そういう訳だから、ペナルティは別に欲しいんだけど、結大くんは何かないかな? 何でもいいよ。簡単なのは欲しい物とかかな?」
「欲しい物は今は無いな」
「そうだよねぇ。普段から物買わないのも知ってる。困ったな、どうしようかな……あれ、もうこんな時間だ。結大くん、一旦お話置いておいていいかな? ご飯買いに行こう? コンビニでいい?」
光紀に言われて時計を見ると、普段の夕食の時間を過ぎていた。
「コンビニでいい。外は上着要るか?」
「そうだね、部屋着だけだと寒いかも」
ソファから立って、自室へ向かう。外用のパーカーを羽織って、財布を持つ。スマホをリビングに置きっぱなしだと気付いて、再びリビングへ向かう。途中、廊下で光紀に声を掛けられる。
「結大くん、お財布置いていっていいよ」
「そうは言っても、カードだけ持ち歩くの、あんまりな」
「いや、そうじゃなくて、今日は僕が払うから、お財布持ってかなくていいよって意味」
「何故?」
意味が分からずキョトンとしてしまった。
「こういう時は奢られてくれると、僕助かるんだ」
「奢りたい気分てことか?」
「うーん、まあそんなとこ」
若干困った笑顔をしながら光紀がそう言った。こういう時は、大抵オレには分からない感覚の話だ。
「それなら」
オレは素直に頷き、スマホだけをポケットに入れて、また自室へ寄り、財布をしまった。
スニーカーを履いて玄関を出る。
「すまん、オレ本当にスマホしか持ってきてない」
「いいよ、気にしないで」
玄関の鍵を掛けながら光紀が言う。外は空気がひんやりとしていて、日中の暑さが嘘のようだった。
廊下を歩く。オレはパーカーのポケットに手を突っ込んで、光紀の半歩後ろを付いて行く。エレベーターホールまで歩き、光紀が下向きのボタンを押す。少ししてエレベーターが来て、二人で乗り込む。1のボタンを押して数秒、ドアが閉まった。
「結大くん」
後ろから声がする。
「ん?」
「僕と狭い空間にいて怖くない?」
「ああ」
「本当に?」
エレベーターのドアのガラスに映る光紀は、こちらを見ていないようだった。
「本当に。怖いならエレベーターで背中見せないな。例えば今なら、壁に背中付けて横向きに乗るとかする」
一階に着いて、ドアが開く。オレから降りて光紀が続く。ポストの横を通り過ぎる辺りで、いつも肩が並ぶ。
「結大くんはかっこいいね」
横に並んだ光紀が言った。
「何の話だ」
言いながら歩き、道に出る。
「行動が言葉と一致してるの、かっこいい」
「光紀は結構不一致な時があるから、そうなるとかっこよくないのか?」
「やっぱりバレてるよね。僕は、かっこよくなりたいけど、結大くん見てると敵わないなぁって思う」
「オレも特にかっこいいとかではないだろ」
「結大くんは無自覚だからなぁ」
歩いてる間に、オレはまた半歩後ろ側になる。そのまま、コンビニまで二人無言で歩いた。
コンビニで夕食を買ってもらった。更に荷物も持つと言われて、オレは手ぶらで光紀の半歩後ろを歩く。
「ねえ、結大くん」
少し目線をこちらに投げながら、歩いたまま光紀が言う。
「何だ」
「ペナルティなんだけど、僕を抱き枕にするのどう? 前によく寝れるって言ってた気がしたんだけど」
「あー、確かに寝入りが良い。ただ昼寝ならだな。夜は時間長すぎるから、ちょっと違うな」
「ちょっと違うって、どういう風に?」
「簡単に言うと、無意識の時に自由に動ける範囲が狭い。何かに当たると目が覚める」
「あはは、邪魔でごめんね?」
「別に二人で寝るのが嫌いなわけじゃない。光紀のベッドは広いから、平気だ」
歩きつつ話していたら、マンションに着いた。ドアをくぐって、ポストを確認してからエレベーターに乗る。部屋の前で、光紀が鍵を開ける。
光紀が荷物を置いている間に手を洗い、交代で光紀が洗面所へ入っていく。オレはキッチンに入って、水を少し飲んでから、自分の箸を用意した。
ダイニングテーブルに買ってきたものを広げていたら光紀が来たので、二人で椅子に座る。
「じゃあ、いただきます」
「いただきます」
「なんか嬉しそう。コンビニのお弁当好きなんだもんね?」
「育った文化圏に無かったんでな」
チキンの紙袋を点線に沿ってピリピリと破き、両手で持って一口食べる。
「ふふ」
「どうした」
「いや、結大くんって何でも両手で持つから、いつもそれが可愛いなって」
言われてオレは自分の手を見る。
「考えたこと無かった。でも外見的にはこれがベターだろ?」
「どうなんだろ、僕は好きだけど。お行儀良いなぁって」
「そういうもんか」
普段通りの、夕食。
食べていて、ふと気付いて口にする。
「冷蔵庫にも、昨日の飲み会の残り物は無かったが、まさか、一人で食べたのか?」
「ええっと……その、やっぱり覚えてるよねぇ」
サラダを食べていた光紀が、一瞬こちらを見てから、目を逸らして言う。
「何かやましいことがあるのか」
言ってからチキンを一口。咀嚼しながら返答を待つ。
「……はい、やましいです」
しばらく目を逸らしていた光紀が、こちらを向いて、フォークを置いて言う。オレは口の中を空にして
「怒らないから、どうしたのか話してくれ」と言った。
「流石に食べきれないと判断して、ご供養した上で、廃棄させていただきました……」
「供養ってどうやったんだ?」
「仏様に上げて、下げてきた、という感じ」
「仏? 寺とかでそういう供養やるのか?」
「いや、もっと個人的な感じなんだけど、寺と言えば寺ではあるよ」
ピンと来ずに、オレは天井を見る。
「ふーん。とにかく供養はして、捨てたと」
「うん」
「オレ一人騙すのに、犠牲が多いな。ちゃんと食べ物に謝ってるみたいだが、あまり感心できることではない」
「はい、もうしません。結大くんそう言うだろうなって思ってた……なんか、ホント僕愚かでした」
そう言って、目の前の夕食にも「ごめんなさい、いただきます」と光紀は呟く。
「しかも騙し損ねてるしな」
「そう、それ! まず結大くんを騙そうとしたのが間違いだった。冷静さを欠くと判断力が鈍るなと、今日帰宅してから実感してる」
光紀は空を指差してピシリと言う。
「オレを騙すのは簡単だと思うんだが。光紀が向いてないだけだな」
「向いてないのは……そうだねとしか」
そんな話をしつつ夕食を食べた。
結局ペナルティは決まらずに、今出てる光紀抱き枕案をやってみることだけが決まった。
適宜修正を入れて、オレと自分が納得することを探したいと光紀が言うので「それならそれで構わない」と、オレは返事をした。
間接照明だけを点けて、ベッドに座ってタブレットを眺めていたら、結大くんが枕を持って、僕の部屋にやってきた。
「じゃあ、よろしくな」
と僕のベッドへと腰掛けながら、枕を置いている。
以前聞いたのだけど、結大くんはスキンケアが趣味だそうだ。だからお風呂上がりの彼は、かなり潤っていて艶やかだ。本人は気付いてないのだろうけど。照明も相まって、雰囲気がしっとりとしていた。
僕はタブレットを置いてから、右腕を横へ伸ばして寝転がった。
「うん、どうぞ」
「ん」
結大くんがもぞもぞと僕の近くへ入ってくる。
長い髪の毛が僕に当たらない様に、指でさらりと首の横に流しながら、僕に背中を向ける形で潜り込んで、腕へと控え目に頭を乗せる。
あー、いい香り……じゃなくて、今日は安眠してもらわないと、と思い出す。
「結大くんが寝たら、枕に頭を載せ替えればいいんだね?」
「出来れば。出来ないならそのままでいい。頭って重いからな。起きる可能性のが高いし、気付けば勝手に枕にいく」
「了解。何かリクエストはありますか?」
「……手、繋ぎたい」
そう言われて、腕枕をしている方の指先を、ちょんと摘ままれた。意外な言葉に僕は目を丸くした。けれど、何だかとても健気に感じて、僕はそのままやんわりと彼の手を握りしめる。
「他には?」
「これだけでいい」
結大くんの身体が、くたりと脱力したのが分かった。
「本当に嫌じゃないかな? 僕、心配で」
「くどい。背中がぬくくていい感じだ。もう寝るぞ」
結大くんの言葉は、いつもストレートで気持ちいいなぁと思う。
「分かった。そしたら、おやすみ」
「おやすみ」
その言葉を聞いて、僕は間接照明の照度を落とした。
短くても三十分は覚悟しとけ、と言われている。自分は寝付きが悪いからと。本当に律儀だなぁと、思わず口角が上がってしまう。
目の前の髪に触れたい。ヘアケアも趣味な彼の髪は、いつもさらさらで気持ちいい。だけど、今日は自粛しないと。そう思って、空いている左手は、自分の身体の側面に置いた。
結大くんが少し動いたと思ったら、繋いでいた僕の手を、もう片方の手でふわりと包み、そのまま僅かに身体を丸める。
「……ぬくいの逃げる。隙間、塞いで」
気怠そうな掠れた声で言われて、僕は慌てて、布団を掛け直しながら、なるだけ丸みにフィットするように身体を動かす。
そうして十五分くらい後、結大くんは静かな寝息を立て始めた。
寝たら枕に移してくれって言われたけれど、眠りが浅かったら起きるよね。人間が深い眠りに入るのって何分かかるのかな。でも結大くんは常に浅めだと言っていたし……と、いざとなると色々と考える。
よく九十分で一サイクルだとか聞くから、とりあえず三十分くらいは待っておこう、と決めて、静かでたおやかなリズムの寝息を聞いていることにした。
「おい、起きろ」
肩をこんこんと叩かれる。
「……ん?」
部屋の中が明るい。
「予想はしてたが、これだと立場が逆だろ」
「……え?」
「おはよう」
「……うん? おはよう……」
やっと目を開けて、見てみたら、僕が結大くんを抱きしめて寝ていた。向かい合わせの形になってるので、結大くんは自然と上目遣いになっている。
「抱き枕が動くとはな」
言われて気付いた。そうだ、結大くんが寝たら枕に移してって言われてたのに! と思い出して、僕は一気に覚醒した。
「あ、あー……ごめんね。僕まで寝ちゃった。寝られなかった?」
「まあ、いつもと変わらん」
「寝不足じゃない?」
「それは大丈夫だ」
「はあー、もうしょうがないな僕」
ため息を吐きながら、脱力したら、結大くんが僕の腕を取って、どかし始めた。
「ま、予想範囲内だ」
「もう起きるの? まだ早くない?」
「オレは今日学校だ。午後からだが」
「良ければ、もう少し居てくれないかな」
逆に結大くんの腕を取り返して言ってみると、彼は再び、大人しく横に寝転がってくれた。キョトンとした顔が愛らしい。きっと僕の言ってる意味が分からないんだろうな、と思った。
「朝は起きるものだぞ」
「その前に充電させて」
抱き寄せて、結大くんの髪を梳く。ああ、これがしたかった。さらさらと指の間を髪の毛が流れる。感触が心地良い。
「あれだけ寝といて、充電足りないのか」
「んー? 睡眠は十分だけどね。違うもの充電してるの」
「ほう」
そうして、存分に髪に触れさせてもらった。何も言わずに付き合ってくれるのが、かっこいいし可愛いなぁと思って、笑いがこぼれた。
「どうした? 何笑ってる」
肩口から声が上がる。
「いやぁ、結大くんは優しいなぁーって」
「そうなのか」
「そうなんだよ?」
「ふーん」
こういう所で興味なさげな声が聞こえるのも、彼らしくて良いのだけど、彼には多分通じないから、僕はそれを言わずにいる。
「……もういいか?」
控え目な声が聞こえて、本当は名残惜しいけれど、僕は手を止めた。
「うん、ありがとう。充電出来ました」
僕は笑顔でそう言って、腕を緩めた。「それなら良かったが」とだけ言葉を残して、結大くんはあっさりと僕の腕の間から消えてゆく。さっさとベッドから下りて、僕の部屋から出て行ってしまう。
名残惜しいと伝えれば、きっと僕が満足するまで彼は付き合ってくれるのだと、分かっている。だから言えない。
以前同じような時に伝えてみたら「この間柄でアンビバレンスなことはなるべくやめとけ。まあバランスは大事だが、満足する方がいいぞ」と言われたことがある。
でも満足するまでってなると、彼の時間を奪いすぎてしまうから、僕としては申し訳なくて、程々になるように気をつけている。
彼のあの冷静さはどこから来たのだろうと、いつも不思議だ。
まして、僕にあんなことをされたのに、昨夜もそうだけれど、見た感じでは特に変わった様子もない。内側の何かを切り落としていやしないかと、心配になる。
「おい、コーヒー飲むか?」
開け放ったままのドアの所から、髪を纏めてアップにした結大くんが、歯ブラシを口に突っ込んだまま、ひょっこりと顔を出して聞いてくる。
「あ、うん。飲むっていうか、僕も今行くよ。顔洗ってていいよ」
「分かった。頼む」
簡潔な答えを残して、彼は去っていく。
ああ、敵わない。
彼の淡々としたルーティーンの平常さが、いつも僕に伝播して、僕まですっかり平穏になる。時々の発作はあれど、それに対して彼は動じない。一昨日のことすら、きっと彼はもう殆ど気にしていないのだろう。
本当は彼を甘やかしたいのに、こちらが甘やかされてばかりだ。
「あーもうカッコ良すぎ……はぁー僕カッコ悪い……」
起き上がりながら、僕は一人ぶつくさ言う。
掛け布団を軽く畳んでから部屋を出て、キッチンへと向かう。
ケトルを手に取り水を入れてから、スイッチを入れる。チキンをトースターに入れてタイマーをセットして、僕も顔を洗いに行くと結大くんと入れ違いになる。
「パン焼いとくぞ。クロワッサンでいいか?」
「うん、よろしく。玉子は僕やるから。もしカフェオレ温かいのが良いなら牛乳だけ温めといてね」
「分かった」
彼の居る、平常な朝に感謝しつつ、僕は顔を洗った。
それから、いつも通りに二人で朝食の準備をして、いつも通りに二人で食べた。相変わらず、カップを両手で持つ結大くんの姿を見て何だか安心する。
「なあ、光紀」
「ん? 何?」
「ちょっと思ったんだが、今までどうやってあの衝動を落ち着けていたんだ。結構大変だったろう」
「あー、何もしてなかったよ。その時は特定の相手も居なかったから、あんまり重症にもならなかったのかもだけど」
「やっぱりか。何だかそういう気がしたんだ。相手があることなのではないかと」
多分、僕の目はすごく丸くなったと思う。結大くんには見られていなかったけれど。
「いや、結大くんのせいじゃないよ?」
「それは分かっている。ただ相手が居るということが、重症化のトリガーにもなることだけ、自覚しとけと言っている」
「はい、分かりました」
僕はにっこりと告げる。
「何笑ってる」
不思議そうに結大くんがカフェオレを飲みつつ、こちらを向く。
「いやぁ、本当、敵わないなあーって思ってね」
「それよく言ってるが、敵うとか敵わないとか、一体何なんだ。正直よく分からん」
「結大くんはそれで良いんだよ。僕が勝手に思ってることだから」
「光紀の謎のこだわりだな」
「うん、そう。僕の謎のこだわり。ねえ、僕ちょっとの間オフだから、今日学校前まで付いて行っていい?」
笑顔で聞いたら、怪訝な表情を返された。
「何だそれは。一人で行けるぞ。心配するな」
「いや、デートしたいなって思ったから。でも今日学校なら、その後にどうかなって」
「なら、終わる時間に、待ち合わせれば良いだろう」
カフェオレを揺らしながら、結大くんが言う。
「それじゃあ、結大くんが良い方にする」
彼の顔を見ながら、僕は笑顔でゆっくりと返す。結大くんはカップを見つめて一瞬考えてから、答えてくれた。
「……なら、終了時刻に向こうの最寄り駅で待ち合わせ。午後から別行動だ。オレが準備を始めて家を出るまで、光紀は部屋で待機」
「うん? 何で待機?」
「デートで待ち合わせなら、今日どんな格好か分からん方がそれっぽいだろ」
「……」
その言葉に虚を衝かれた僕は、少し固まってから、自分でも頬が緩むのが分かった。
ああ、もう敵わないなあ。
彼が居てくれて、良かったなあ、僕。
「? 黙ったままニヤけてどうした」
「いや、楽しみだなって思ったら笑いが」
「そんなにか」
「うん、そんなにだよ」
若干呆れた風な結大くんの横顔が見えた。
僕は止まらなくなった笑顔を、午後まで溢れさせる羽目になった。
そして、最寄り駅で会った彼から、また笑顔を貰えることは、容易く予想出来る、優しい未来。