豆電球
「しかし、今日は飛べると思ったんだがな」
鐘の音が鳴り止むと同時に、魔法中年は豪快な笑みを悔しそうな表情に戻し、ボリボリと頭を掻いた。そして教室に木霊する不可解な笑い声は静まり、堀田先輩が口を開く。
「僕も今日は飛んでくれそうな気がしたんです。調子が良さそうだったので」
そんな気の利き過ぎた相づちを挟み、続けて不意に立ち上がる。さて、と胸の前で両手を合わせた。
「シュウヤ君と真穂君、今日は説明ばかりになってしまったけど、また次回も、一緒に魔法を学んでくれると嬉しい」
「あぁ、はい」
そのつもりです、と言葉にしたかったが、口の中で噛み砕いてしまう。未だある種の照れを感じているのが嫌になったが、またここに来れば良いと、それが魔法を信じている証明になると、そう自分に言い聞かせた。
「ここ、こちらこそ、よ、よろしくお願いします」
真穂さんは丁寧にも立ち上がり、きちんとしたお辞儀を備えて答えを告げる。不束者ですが、とでも続きそうな程愛らしい。ああもう、羨ましい。俺のバカ。素直になれ。
「じゃあお前等、早く帰れ。俺は戸締まりをしなくちゃならん」
魔法中年が教師らしい言葉を全員に投げかける。よし、チャンスだ、と俺は立ち上がった。そして机の縁を両手で掴み僅かに持ち上げ、渾身の台詞を言い放つ。
「机、俺が片づけときますね」
さぁ、気の利く可愛げな一年生アピール合戦の始まりだぜ。何せ俺は元体育会系なのだから。そういうのは得意なのだから。真穂さんばかりに良いところを取られる訳にはいかないのだから。ヘヘヘ。
「机はそのままで良いんだ。この教室は僕ら以外使わないからね」
「ういっす」
俺は肩を落としたついでに手を開く。中身の入っていない机は俺の心境を表すかのように空虚な音を立てた。まぁ、今日のところは真穂さんに、可愛げな一年という称号を譲るとしよう。
「じゃあ、行こうか」
堀田先輩のかけ声に、一人一人と席を立ち、動き出す。俺と真穂さんは教室を出る先輩達の後に続いた。
「結局、何すれば良いか分からなかったよね」
廊下を歩きながら、堀田先輩が口を開いた。ごめんね、と優しげな笑みを浮かべる。
「いや、楽しそうだなと思いましたよ」
「ほんと? じゃあ良かった」
堀田先輩は嬉しそうな笑みを惜しげもなく浮かべる。本当に純粋な人だ。大丈夫かな、と心配になるほど。人気アイドルから不意に届いたメールに、人違いなのでは? と本気で返しそうな程、純粋な人だ。大丈夫かな。
「う、うちは、その、早く魔法を学びたいって、思いました」
と次は真穂さんが頬を桃色に染めて答える。
「そう思ってくれたなら嬉しい。もし続けてくれるなら、二人の魔法が叶う様に全力で協力させてもらうよ」
「うす」
「お、お願いします」
俺と真穂さんは同時に返事をした。続けて堀田さんが、あっ、と声を上げて目を見開き、右手で作った拳を左の手のひらに打ち付けた。分かり易過ぎるほどに、何かに気付いた仕草だ。
それやる人って現実に居たんだ、と俺はまたしても堀田先輩の純粋さに感銘を受け、もしかしたらいつか、豆電球が頭上に現れるかもしれないな、とその様子を想像したら笑いそうになってしまったので耐える。そして堀田先輩は、人差し指を立てて口を開いた。
「そういえば言ってなかったな。あのね、気付かなかったかもしれないけど、魔法学の時、僕らは学年を示すネクタイやリボンを外しているんだ」
そういって堀田先輩はブレザーの横ポケットから黒のネクタイを取り出した。気付いていたし、やっぱり三年生だったか。まぁ、他の先輩方も概ね予想通りだろう。
「この習慣は、僕と先生の間だけで決めた勝手な取り決めで、当たり前に強制では無いんだけど、一応伝えると――」
話し続けている内に、校舎の扉を出て、全員が足を止めた。堀田先輩が続ける。
「僕らは皆、魔法使いの見習いって事なんだ。だからまだ魔法を使えない僕らに、年齢や学年、上下は無いって事で、ネクタイやリボンは外している。別にシュウヤ君と真穂君に強制するつもりは無いけど、二人もそう思って僕らに接してくれると嬉しい」
「うす、じゃあ次からは」
そう答えた俺の横で、真穂さんは頷くだけの返事をした。
「ありがとう。じゃあ、一年生はあっちからだよね。また」
堀田先輩が手を挙げる。また、と言ってもらえた事が嬉しかった。
「よろしくね」
とアリス先輩が声を掛けてくれた。
「待ってる」
と紫乃先輩が言ってくれた。
寿門先輩は腰の辺りで、本当に控えめに、手を振っている。その顔に浮かぶ微かな笑みが、なんだかやけに嬉しかった。
「じゃあ、行こうか」
堀田先輩の声をきっかけに、先輩達は運動場側に向かって歩き始めた。その背中を少しだけ見送って、真穂さんが歩き出したのをきっかけに、俺たち一年生コンビは体育館側に向かって歩き出した。
道筋の向こう側には、体育館から出てくるたくさんの生徒が歩いている。そんな光景を見つめながら、俺は魔法学の授業を、現実離れした空間での出来事を思い出しながら、浮かび上がろうとする心地良い笑みを、必死に抑え込んでいた。一人ニヤニヤ笑うなんて、見られたくないし。
それにしても、これから教室に戻るのか。なんか、光溢れるファンタジーな世界から、現実世界に戻される気分だ。もう少し、浸っていたかったな。もう少し、話していたかったな。
たぶんおそらく、俺はすでに、魔法の虜になっている。先輩達の、優しげで柔らかな、心地よさ。そして鮮明に蘇る、箒に跨がる狂乱の魔法中年。あぁ、全部が面白かったな。最高だ、魔法学。
そんな事を考えながら、少し前を早足で歩く真穂さんの背中を眺めた。恥ずかしいところも見られたけど、これから魔法を一緒に学ぶ同士だ。そんな特異な親近感も湧いて、もう少し魔法に浸っていたかったってのもあって、俺は勇気を出して、声を掛けてみた。
「えぇと、真穂さん」
…………ん? あれ? 聞こえなかったのかな? そうだ、そうに違いない。きっとそうだ。あれ? なんで足が早くなるの? まさか。まさかね。もう一回だ。
「真穂、さん」