岬くんと美咲ちゃん
「岬せんぱーい!」
扉を開けて突然部屋に入ってきた制服の少女。
彼女の名前は西山美咲。
僕の所属する文芸部の部員だ。
「何してるんですか?」
黙って机に向かっている僕を見つけ、ニヤニヤ顔で近づいてくる。
「別に何もしてないよ。いつも通り書いてただけだ」
ここは文芸部の部室だ。部員は僕と彼女のみ。二人しか所属していないこの部活の活動場所としては十分な大きさだ。
「暇そうですね~」
僕の言葉を無視して、そうからかってくる彼女こそ暇そうだった。
「お前だって退屈そうじゃないか」
「私ですか? 私、先輩みたいに暇じゃないですよ」
大袈裟なリアクションでびっくりしてみせると、手近にあった椅子に腰掛け、ポケットから取り出したスマホをサッ、サッといじり始める。
「ほらー、私モテるじゃないですか。だからクラスの男子からいっぱいラインとかきちゃってー。返信とかに忙しいんですよー」
別に忙しい理由も聞いてないし、モテるなんてことも興味はないがな。
まあ、この可愛さだったら男受けは良いだろう、とは思う。
「週末に遊びに行こうとかー、すごい言われてるんですよねー」
無関心な視線をものともせず、自慢話は続けられていた。
ふん、勝手にすればいいさ。お前がいつ、どこに遊びに行こうが知ったこっちゃない。
「あれれー先輩?」
不意にこちらを見た彼女が、顔を覗き込むように窺っていた。
「もしかして気になっちゃってます? 私が週末どうする予定なのか」
「そんなことない」
「そんなことない? 本当ですかー?」
がたん、と椅子から立ち上がった美咲が、僕の席までやって来る。
「じゃあ、先輩の週末の予定は何かあるんですかー?」
猫なで声で彼女はそう尋ねてきた。
ああ、あるさ! クラスの友達と出かける予定がな! ――って言ってみたかった。
「……何もない」
「何もない!? 思った通りですねー」
クスクス、と不愉快な笑いの後、僕の方に彼女は向き直った。
そして一言。
「じゃあ、私とデートしましょ」
「……は?」
「どこ連れてってくれるんですかー?」
「ど、どこって、お前予定があるんじゃないのかよ?」
狼狽える俺。
「ないですよー。あんな軽薄な誘い、全部お断りしたに決まってるじゃないですか」
飄々と彼女はそう語った。
「そんなことより、ここのお店行きたいんですよねー。このパフェ食べたくてー」
彼女が差し出してきたスマホの画面には、最近雑誌で話題のカフェの特集が写し出されていた。
「いや、まだ行くとは言ってない」
「もちろん先輩のおごりですよー。週末予定のない先輩に付き合ってあげるんですから、当然ですよね?」
そう言って俺の背後に回って肩に抱きついてくる。
こういう急なスキンシップはやめて頂きたい。
女の子に免疫がない男子高校生は、異性の突発的な身体的接触によって容易にドキドキする生き物であり、いつしかそれが恋に昇華してしまう可能性があるからだ。
美咲は、そういうのが本当に多い。
でも、
「……仕方ないな」
僕はいつも了承してしまう。
「じゃあ決まりーっと。えへへ、楽しみにしておきますねー」
ニッコリ笑う美咲。
その笑顔に僕はいつも抗うことはできないのだ。
下校時間。
外はあいにくの雨模様。僕はカバンから折りたたみ傘を取り出した。
「岬せんぱーい。今帰りですかー?」
昇降口にいた僕は、後ろから声をかけられた。
「……なんだ、お前か。」
振り返ると、美咲がそこにいた。
「なんだ、じゃないですよー。何してるんですか?」
「見ての通り、帰るところだよ」
「私も帰りですよー。あー……すごい雨ですね……」
外を眺めながら美咲が呟く。
「傘持ってます? 先輩」
多分、俺が傘を持っているのを確認してから聞いている。
こういうところ、本当に強かだと思う。
「まあ……あるよ」
「なら私も入れてくださいよー。ほら、相合傘しましょ」
冗談じゃない。
女子と相合傘なんてしたことはないし、相手は美咲だ。
文芸部の部員二人が、一つ傘で一緒に下校したのを他の生徒に目撃されたら、あらぬ誤解を呼ぶ恐れがある。
「いいよ、お前に傘貸すよ」
「そしたら先輩が濡れちゃうじゃないですかー。一緒に入りましょーよー」
美咲は僕の手から折りたたみ傘をひったくると、バッと広げた。
ん、と傘をこちらに差し出してくる。
「……はいはい。そうするか」
「ふふん。じゃあ、出発しましょー」
二人並んで雨の中、一つの傘をさして歩く。
「先輩そっち寄りすぎですよー。全然入ってないじゃないですか」
隣の美咲がそう声を掛けてくる。
僕の右肩は傘から大分はみ出ててしまって、濡れていた。
「何恥ずかしがってるんですかー。ほらもっとこっち寄ってください」
そう言って彼女は密着してきた。
僕の左肩と美咲の右肩が触れ合う。お互いの服越しなのに、それはとても熱っぽく感じた。
「なんかこうやって一つの傘に二人入って歩いてると……まるで恋人みたいですねー」
「ぶっ」
またそういうことを平気で言う。勘弁してくれ。
「あー、また離れないでくださいよー。冗談ですって」
「やめてくれ、そういうのは……」
「なんでですかー?」
「恥ずかしいから」
「まったく……ほんとに恥ずかしがり屋なんだから、先輩は」
彼女はやれやれというように首をふると、
「あ……先輩、いまふと思ったんですけど」
思い出したようにそう言った。
「何?」
「もし私達が結婚したら」
美咲はとびきりの笑顔をこちらに向けた。
「私の名前『岬 美咲』になっちゃって、名字と名前が同じになっちゃいますねー」
「え!?」
結婚!?
な、な、何を言ってるんだコイツは!?
「ふふふ。何、想像してるんですかー?」
楽しむような笑いをたたえ、美咲が僕の顔を覗き込む。
「なんか変なこと考えてたんじゃないですかー? もー、先輩は変態なんだからー」
「ち、違う! 何も考えてない!」
「ふふふ。やっぱり先輩は可愛いですね」
そう満足そうな顔をしていた。
「っと。ここまでで大丈夫です。ありがとうございました」
しばらく歩いていると、彼女は立ち止まった。
慌てて僕も立ち止まる。
「いや、まだここ途中だけど……」
今居るのは横断歩道の目の前。二人とも徒歩通学だが、彼女の家はもっと遠いはずだ。傘無しで帰れるはずがない。
「ええ。私、傘あるんで大丈夫ですよー」
カバンの中をゴソゴソと漁り、小さな折りたたみ傘を取り出した。
「え?」
「じゃあ先輩、また明日会いましょうねー」
あっけに取られる僕を一人残し、彼女は傘をさして雨の中飛び出していった。
「ただいまー」
午後十一時。アパートのドアを開ける。
結局仕事が長引いて帰宅がこんな時間になってしまった。
「もー、遅い!」
部屋の中から怒った声がした。
「早く帰るっていったじゃん!ちゃんと連絡返してよね!」
知っている。
九時を過ぎた頃から鬼のように携帯に連絡が入っていた。でも手が離せなくってそれどころではなかったのだ。
「ご飯作ったのに……もうお腹ペコペコだよ」
彼女は三崎香。僕の、彼女だ。
大学三年生の時に先輩である彼女と付き合い始め、それから七年。同棲状態の今に至る、というわけだ。
「ごめんごめん。仕事が残ってて」
「もう。それならそうと連絡してくれたらいいのに……」
僕は靴を脱いで部屋に入る。
テーブルの上には二人分の料理がラップを掛けられて置いてあった。
「早く着替えてきて。ご飯食べるよ」
部屋着に着替え、二人して食卓についた。一つ年上の彼女は、別の会社で働いている。
「あのさ」
そう彼女が切り出した。
「ん? 何?」
もしゃもしゃと食べながら、僕が尋ねる。
「あのさ、来ないんだよね」
「何が?」
「生理」
「え?」
「来ないの、生理が」
「え、ああ、そう」
「ああ、そう!?」
僕の返事に彼女が激昂した。
「本気で言ってんの!? 私の生理が来ないの! 意味わかってる?」
咀嚼しながら、思考を巡らせる。
ん? どういうことだ?
生理が来ないってことは……。
「えっ、その妊娠したってことか?」
間抜けな俺の返答に呆れた様子の香。
「そう。そう思って検査薬買ってきてやってみたら、陽性だったの」
「ほ、ほう」
「ほう、じゃない。で、どうするの?」
「どう、とは……?」
「結婚に決まってるでしょ! 付き合って七年、同棲して二年になるから、もう十分だと思う。週末、うちの実家に挨拶にいくよ」
その後もペラペラ喋り続ける彼女の言葉は、俺の耳を素通りしていった。
『結婚』。
その単語は、僕が今まで避けていたものだ。
一組の男女が付き合って、結婚して、一緒に住んで。そんなものを『結婚』と言うものだと思っていた。
いや、正直そろそろするべきときなのかもしれないと思っていた。
ただ踏ん切りがついていなかっただけだ。
だから子供ができたのは良いタイミングなのかもしれない。
なんとなくそう思っていた。
……いや、違う。
僕が『結婚』の単語を避けていたのは、もっと別の理由がある。
高校生の頃。
段々と自分自身のことがわかってきて、でも全部はわからなくて。
世の中との関わり方も少し理解し始めた頃の記憶。
西山美咲。
彼女のことが頭から離れていなかったからだ。
『もし私達が結婚したら』
『私の名前『岬 美咲』になっちゃって、名字と名前が同じになっちゃいますねー』
もう十年以上も前の事なのに、僕の心を掴んで、揺さぶって、離さない彼女の言葉。
彼女は一体どんな意味でそう言ったのだろう。どういうつもりで僕に接していたんだろう。
彼女は今、何をしているのだろうか。
それを知ったところで、どうしようもないのだが。
「オギャー、オギャー」
分娩室に響き渡る産声。
「おめでとうございます。女の子ですよ」
そう言って、助産師が僕と香の元に赤ちゃんを運んできてくれる。
クシャクシャの顔。元気に泣いているのを見て僕は安心した。
目の前の香も疲労困憊の中、自らが産んだ赤ちゃんを愛おしそうに抱えている。
「おつかれさま」
「ありがとう……で、名前は決めたの?」
彼女――岬香が僕にそう尋ねる。
「ああ」
僕は女の子だったら付ける名前を決めていた。
「それは――」
「岬せんぱい」
卒業式。
「卒業できたんですね。おめでとうございます」
「当たり前だろ。まあ、ありがとう」
「残念です。これからはからかう相手がいなくなっちゃうんだから」
美咲はそう口を尖らせる。
「大丈夫だろ。後輩がいっぱい入ったし」
去年までは僕と美咲の二人しかいなかった文芸部は、新入生が沢山入部したことによりかなりの大所帯になっていた。
「……そうですね。先輩がいなくても大丈夫だと思います」
「なら安心だ」
お互いに何かを言おうとしているのはわかっていた。
でも、言い出すことができなかった。
しばしの沈黙の後。
「先輩」
美咲が、呟くようにそう言った。
「ん?」
「……」
「……」
「なんでもないです。二年間でしたが、私の先輩でいてくれてありがとうございました」
「……うん。こちらこそ」
それっきり、僕と西山美咲が出会うことはなかった。
都内某所の公園。
天気がいいのでピクニックに家族で来ていた。
僕と、香、そして今年2歳になる長女――彩花の三人だ。
娘の名前は僕がつけた。
由来はそのまま。
彩りの美しい花が咲くように、育って欲しいという願いを込めた。
もう僕は過去に引きずられることはない。
過去は過去に置いてきた。
僕は、岬智也。妻は岬香で娘は岬彩花。
結婚とともに、僕の新たな日々は始まっていた。
お読み頂きありがとうございました。
岬くんと美咲ちゃんと三崎さんのお話です。
名前の言葉遊びで書き始めましたが、実際のところ、岬美咲という名前になったらどうするんでしょうか? 気になります。
今回は短編としましたが、できればこの流れでの長編を書きたいとおもっています。
お気づきの点などがありましたら、ご指摘いただければ幸いです。
羽栗明日