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作家吾妻の事件簿

女神の磔刑

作者: 真波馨

始まり


 その日は、十一月の最終日だった。時刻は、朝の八時を回った頃。普段ならば一限目の講義に出席する生徒が多く行き交う私立秀和大学の正門も、土曜日ということこもあってかこの日は閑散としており人の歩く姿もほとんどない。正門を抜け、すぐそばにある管理室の窓口でうとうとしている警備員の男を横目に見ながら、高瀬明海たかせあけみ山口雅彰やまぐちまさあきとの待ち合わせ場所である駐輪場へと向かっていた。冬目前の冷気を乗せた風に、時折コートを着込んだ身を震わせる。どんよりとした曇り空のせいもあってか、陽の差さない朝方は彼女の思った以上に冬らしい気候であった。コートから出た両手を擦り合せながら、明海は僅かに歩を速める。

 山口雅彰は、サークル棟のすぐ近くにある第三駐輪場にぽつねんと立っていた。すらりとした長身に、紺のロング丈のトレンチコートがよく似合っている。小走りで近づく明海に気づき、片手をちょいと上げた。

「悪かったな。休日の朝に呼び出して」

 爽やかな微笑を浮かべ、山口雅彰は頭を掻く。

「ううん、大丈夫――それより、杏奈は?」

「昨日のラインが最後だよ。あれから、何も音沙汰なしさ」

 一転、顔を曇らせて力なく首を振る彼の言葉に、明海の心を不安がよぎる。ここ数日、彼女の友人である栄杏奈さかえあんなは特に元気のない様子で、大学の講義も何かと休みがちになっていたのだ。

「高瀬さんには、何か連絡は来たの」

 サークル棟に向かいながら、雅彰が尋ねる。

「ううん。最後に連絡をとったのは、確か一昨日だったかな。本当に、何もないといいんだけど」

 嫌な予感を覚えながらも、大きな逆コの字型をしたサークル棟に入る。明海と杏奈、そして雅彰が所属している文芸サークルの部屋は、コの字の縦部分、その丁度真ん中に位置していた。

 予め管理室から鍵を借りてきていた雅彰が、コートをまさぐり鍵を取り出す。何の抵抗もなく、文芸サークルの部屋のドアはあっさりと開いた。

 そして、二人は栄杏奈を発見した。まるで、救世主であるキリストが反逆者として処刑されたときのように、両手を横に広げ十字の形に壁に磔にされ息絶えたその姿を。



     ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



捜査一 関係者らの証言


「壁に十字の形に磔ねえ。犯人は、どこぞのキリスト信者なのかね」

 後部座席の運転席側で長い脚を窮屈そうに収めた吾妻鑑あずまかがみは、今にも雨が降り出しそうな鉛色の空をぼんやりと眺めていた。決して広いとは言えない車内に、彼の落ち着いたバリトンボイスが響く。

「どうでしょう。補足しておきますと、秀和しゅうわ大学には宗教学を専門とする先生もいらっしゃるみたいなので、その方にお話を伺うのもいいかもしれませんね」

 緩やかにハンドルを切りながら答えたのは、K県警捜査一課の小暮こぐれ警部。白髪交じりの髪をオールバック風に綺麗に撫で付けた、物腰柔らかな刑事である。

「神を信仰する者が、磔の刑に処されたキリストを模して殺人を犯すなんて、罰当たり以外の何ものでもありません」

 小暮警部の物言いとは反対に冷めた口調でピシャリと言い切ったのは、助手席に座る鈴坂万喜子すずさかまきこ。同じく県警捜査一課に所属する、背中まで伸びた艶やかな黒髪と猫のような目が特徴の女性刑事である。

「まあ、犯人像の分析はまだまだこれからです。兎にも角にも、まずは先生に現場を見てもらって、それから第一発見者の方からお話を伺うことが先決です」

 ゆったりとした警部の言葉が終わらないうちに、三人を乗せた車は現場となったK県私立秀和大学に到着した。駐車場を横切り自転車置き場の脇を通り抜けると、薄いピンク色の壁が目に付くサークル棟はすぐそこだ。

 サークル棟の奥では、紺色の作業着を着た複数の鑑識があちこちを行ったり来たりと忙しなく動いている。そのうちの一人に断りを入れ、小暮警部と鈴坂刑事、そして推理作家の吾妻鑑は立ち入り禁止の黄色のテープをくぐると、殺人事件の現場に足を踏み入れた。

 成人男性が七、八人も入れば窮屈に感じられるような狭い事件現場は、私立秀和大学の各文化部及び文化サークルに与えられた部屋の一つである。今回の現場は、文芸サークルの活動部屋であるとのこと。出入り口から見て右手の壁際に寄せられた本棚には、隙間のないほどに文庫本やハードカバーが詰め込まれており、いかにも窮屈そうである。部屋の中央に置かれたクリーム色の丸テーブルには、『月間文芸』と美しい書体で書かれた表紙の冊子やプリントが無造作に広げられていた。プリントには乱雑な赤字が目立つ。何かの原稿の校正でもしていたのだろうか。

「被害者の栄杏奈さんは、あそこに十字の形に磔にされていました」

 小暮警部の指した先には、人型を象ったロープが固定された白い壁があった。なるほど確かに、その形は綺麗な十字形になっている。その大きさからして、被害者の身長は百六十センチといったところだろうか。

「首、両腕、腹部、両足首にロープが巻かれ、そのロープは壁に釘で打ち付けられていました。そして、胸にはナイフが一突き。直接の死因は、胸部を刺されたことによる失血死。死亡推定時刻は、昨晩の二十三時から今日の午前二時にかけて、というところです。なお、ロープや釘、そして凶器となったナイフに指紋は残されていませんでした。それから凶器についてなのですが、見たところ特段珍しいものでもなく、おそらく市販のホームストアなどで購入したものでしょう。そこから犯人を割り出すことは難しいかと思われます」

 現状を述べる鈴坂刑事の声は淡々としていた。小暮警部の補足が入る。

「第一発見者である男子生徒が、昨夜の二十三時頃に被害者からメールを受け取っています。現場に残されていた被害者のスマートフォンからも確認が取れています。被害者が殺害されたのは、それ以降と考えられますね」

「被害者のスマートフォンが残されていたのはどこですか」

「そのテーブルの下です」

 中央の丸テーブルを指す小暮警部。本体は既に鑑識が回収済みである。

「第一発見者である男子学生が今朝の八時十五分にこの部屋を開けるまでは、ここには鍵が掛かっていたものと思われます」

「鍵、か」

 やっかいだな、とボサボサの黒髪頭を掻く吾妻。彼の言葉に、部屋の窓をじっと見つめていた鈴坂刑事が続いた。

「窓には鍵が掛けられていました。鍵はごくありふれたクレセント錠タイプのもので、鑑識の調べによりますと外から糸やテグスの類のものを使って鍵を掛けた形跡はないとのことです。窓と出入り口の扉以外に、この部屋を出入りできる手段はありません。また、第一発見者の男子学生は文芸サークルのメンバーでもあるらしく、彼の話によるとこの部屋の鍵は事件当時の夕方六時前には管理室へ返したということです。この状況からみると、いわゆる『密室』ということになるのでしょうか」

 現状は鈴坂刑事の言う通りだった。窓には鍵が掛けられ、外から何らかの仕掛けを施してそれを行なった形跡はない。そして、部屋の出入り口である扉にも、しっかりと鍵が掛けられており、犯行時刻、その鍵は別の場所に保管されていた。これだけを見れば、推理小説でお馴染みの「密室」がこの空間に出来上がっていたということになる。

「とりあえず、詳しいお話は第一発見者である学生さんから伺いましょう」

 小暮警部に急かされるように、吾妻ら一行は慌だしく部屋を出る。冬の匂いを乗せた冷たい風が、推理作家の無造作に切られた黒髪を揺らした。



「僕は、文芸サークルと軽音部を兼部しているんです。昨日は、週末の金曜日ということもあって、軽音部の奴らと部室で一晩飲み明かそうってことになって。軽音部の部室は、あそこです」

 遺体の第一発見者、山口雅彰が指したのは、文芸サークルの部屋から十数メートルほどしか離れていないところにあった。

「軽音部の飲み会は昨日の夜七時から始まりました。飲んで食べての大騒ぎですよ。最近、一大イベントの文化祭も終わって、少し活動が落ち着いている時期っていうのもあって、久しぶりのドンちゃん騒ぎでした。まさか、そのすぐ近くの部屋で人が――しかも、同じサークルの子が死んでいたなんて」

 端正な顔を歪め、唇を噛みしめる。心底悔しくてならない、といった表情だ。

「被害者から送られてきたというメッセージを見せてもらってもいいかな」

 吾妻の言葉に、山口雅彰は素直にコートのポケットからスマートフォンを取り出す。

「これです」

 手渡された画面は、お馴染みのSNSのトーク画面だった。青色の背景に白い吹き出しで「ごめん、私、もう無理かも」と書かれたメッセージ。時刻は、昨夜の二十三時四分となっていた。

「この文面から察するに、彼女には何か悩みがあったようだな。しかも、かなり思いつめていた様子だ」

「それは――」

 山口雅彰は、言い淀むように口を噤んだ。整えられた眉を潜め、眉間には微かに皺が寄っている。

 吾妻はふと、彼の隣に佇んでいる女性に目を止めた。長身の彼とは頭二個分ほどの差があるだろうか。真っ直ぐに切り揃えられた前髪の下に、意志の強そうなぱっちりとした目。緩くウェーブがかった黒髪を、背中近くまで伸ばしている。真っ白なチェスターコートを上品に着こなし、どこぞの楚々としたお嬢様然とした雰囲気を醸し出していた。

「君は?」

 推理作家の指名に、女性ははっと顔を上げる。大きな瞳をぱちぱちとさせ、山口雅彰同様に長身の吾妻を見上げた。

「私は、杏奈――被害者の、栄杏奈さんと同じサークルに所属している、二年の高瀬明海といいます。山口くんから『栄さんから気になるラインが来た』って、今朝早くに連絡を受けて。それで、二人で彼女の様子を見に行こうという話になったんです」

「ということは、君も第一発見者なわけか」

 高瀬明海は「そうです」と頷いた。死体を見て間もない割りに、落ち着いた様子である。だが、寒さのせいか元々の肌質なのか、あるいはやはり死体を目の前にしたショックからなのか、顔色は驚くほどに青白い。

「なるほど。ところで、ここは随分と寒いな。こんなところじゃ話も進まない。どこか、温かい場所に案内してくれないか」

 黒のロングコートのポケットに両手を突っ込み、吾妻はひとつクシャミをした。彼らの足元を、枯れ葉が乾いた音を立てながら木枯らしに吹かれ転がっていく。



「昨日は、夕方の五時半までは文芸サークルの部屋で活動をしていました。活動といっても、毎月発行する文芸誌の作成をしていただけですけど。そのときは、僕と栄さん、それに、リーダーの美崎みさきさんの三人でした。途中までは高瀬さんも参加していましたね。五時半を過ぎたくらいに、三人で部屋を出て、鍵は僕が管理室に返しました。栄さんが部屋に戻ったのは、その後ということになるんでしょうか。僕は、そのまま軽音部の飲み会に参加して――会は、確か明け方の四時くらいまであったかな――それまで、僕はずっと軽音部の部室にいました。飲み会には、確か八人くらいのメンバーが参加していました。その後、家に帰り着いたのが四時半頃です。それから少し眠ったんですけど、栄さんから来たラインが気になって、あまり寝付けなくて結局朝の七時すぎには目が覚めてしまいました。それから、高瀬さんに相談して、一緒に栄さんの様子を見に行こうという話になったんです」

 秀和大学第一本棟の最上階。そこは学生が寛ぐための談話スペースになっているらしく、テーブルやソファ、自動販売機も備え付けられており、ちょっとしたカフェのような空間が広がっていた。そこに、吾妻と小暮警部、そして鈴坂刑事が案内された。窓際の席に山口雅彰、その向かいに吾妻、彼の隣に小暮警部が腰を下ろす。最後に席に着いた鈴坂刑事が、三人分のコーヒーを奢ってくれた。

「被害者は、なぜ文芸サークルの部屋に戻ったんだろうか」

 紙コップを真っ先に手に取った吾妻の問いに、山口雅彰は「さあ」と首を振る。

「僕にもわかりません。そもそも、栄さんからラインがきたときに、彼女がサークル棟にいるなんて思いもしませんでした。てっきり、アパートに帰っているものだとばかり思っていましたから」

「アパート、ということは、栄さんは一人暮らしだったのですか」

 小暮警部の問いに、山口は瞬時言葉を切らす。

「あ、ええ。そうみたいですね。確か、ここからそう遠くないところにあるアパートだって、以前本人から聞きました」

 どこか歯切れの悪い物言いに、警部が核心に触れるように素早く切り込んだ。

「山口さん。あなたと栄さんとのご関係を、よろしければお話願いたいのですが。被害者の交友関係は、捜査において非常に重要な情報となります。勿論、ただのサークル仲間というならそれで結構です。ただ、本当のことをお聞かせください。一刻も早い事実解明のためです。どうか、ご協力お願いします」

 丁寧な言い方ながらも、その口ぶりからはいつもの柔らかさが抜け、山口を見つめる表情にも険しさが滲み出ている。刑事らしいその物々しさを湛えた威厳に弱ったのか、遺体の第一発見者は諦めたように深々と息を吐いた。

「彼女とは――栄さんとは、一年ほど前から付き合っていました」

 苦虫を噛み潰したような顔になる。よほど被害者との関係は内密にしておきたかったのだろうか。

「一年ほど前、ですか。因みに、周囲でそのことをご存知の方は」

「いないと思います。あ、高瀬さんくらいですかね。彼女は杏奈と随分親しかったみたいだから。中学時代からの付き合いだって言ってたかな」

 事実を打ち明けたことで踏ん切りがついたのか、幾分声が軽くなっている。だが、それもつかの間、山口は不安げな面持ちを小暮警部に向けた。

「あの。やっぱり俺、疑われているんですか」

「と、いうと?」

「ほら、よくあるじゃないですか、刑事ドラマとかで。被害者の恋人が真っ先に疑われるの。痴情の縺れ、ってやつですか? 確かに、杏奈は俺とのことで悩んでいたみたいだったけれど、俺は彼女を心から愛していました。彼女とのことも、本当は親しい奴らくらいには公にしたかったけど、彼女がそれを頑なに拒んでいたんです。それでも、彼女を本心から好きだったからぐっと堪えていました。それほど愛していた彼女を殺すなんて」

 暖を取るように紙コップの上に手をかざし、何かに堪えるような表情でそう語る。

「別に、恋人だからってだけであんたを疑ったりはしないさ。ドラマの観すぎだ」

 痴情の縺れ、という言葉を耳にし、吾妻は思わず苦笑する。作家の彼だって、創作上では滅多に使わない言葉である。

「因みに、あなたとのことで栄さんが悩んでいたというのは、具体的にはどのような悩みだったのでしょうか」

 小暮警部の問いに、山口雅彰はひょいと小さく肩を上げた。

「それなら、高瀬さんに話を訊いた方が早いと思いますよ。杏奈と彼女、仲良かったみたいだから。多分、僕とのことも何かと相談していたんじゃないですかね」



「杏奈は――栄さんは、調べればすぐにわかると思うのですが、片親で育っているんです。物心ついたときには、父親は事故で亡くなってしまったみたいで。そのせいか、彼女のお母さんは人一倍に子煩悩というか。杏――栄さんのことを、本当に大切に育ててきたみたいでした」

 高瀬明海の隣に座る鈴坂刑事が、「杏奈、でいいですよ」とやんわりと口を挟む。明海はほっとしたように息をつくと、目の前に置かれているカフェオレの入った紙コップを手に取った。

「でも、杏奈はどちらかというと、そんなお母さんのことを『過保護すぎる』と思っているみたいでした。門限の時間も厳しく決まっていたくらいで。だから、山口くんとお付き合いするってなったとき、お母さんと大喧嘩したんだって、以前話を聞きました」

「彼女のお母さんは、山口さんのことをあまり快く思っていないと」

 小暮警部の言葉に、

「そうなのかなと、話を聞いた限りでは思いました」

「なるほど。ところで、あなたは昨日、文芸サークルの活動に参加していたみたいですね。よろしければ、それ以降から今朝にかけてのあなたの行動を教えていただけませんか」

「アリバイ、ってやつですね」

 明海は薄い笑みを浮かべるが、その表情はどこか力ない。

「昨日は、夕方の五時くらいまでは文芸サークルの部屋で活動をしていました。来月発行予定の文芸誌の作成をしていたんです。文芸誌といっても、校内で発行する小規模なものですけど。文芸誌の担当は、毎月サークルのメンバーでローテーション形式で作っていきます。私は十二月は担当じゃないんですけど、文芸誌内で紹介したい本があって。昨日は、その本について美崎さん――文芸部のリーダーです――と相談していました。五時くらいにはサークルを後にして、その本を街の本屋に探しに行きました。家には夜の七時半くらいに着いて、そのあとはご飯を食べてお風呂に入って。十二時前くらいには布団に入りました。因みに、一人暮らしなので家での行動を証明してくれる人はいません」

 念のため、と最後に付け加えた彼女に「ありがとうございます」と礼を述べる小暮警部。明海の隣では、鈴坂刑事が手帳にひたすら書き込みをしていた。

「因みに、彼女に恨みを持つような人物に、あんたは心当たりがあるか」

 不意に、沈黙を守っていた吾妻が口を開いた。唐突に発せられた彼のバリトンボイスに、だが明海は首を横に振ると「ありません」ときっぱりと否定した。

「彼女は、気配りができて思いやりがあって。優しい子だったんです。人から恨みを買うようなことをするなんて、ありえない」

 吾妻に鋭い視線を投げ、そう言い切った。

「ありがとうございます。では、もしかしたらまたお話を伺うことがあるかもしれません。そのときは、どうぞご協力をお願いします」

 立ち上がった小暮警部と鈴坂刑事は、高瀬明海に丁寧に頭を下げた。吾妻はというと、椅子にじっと座ったまま、何か思案に暮れたような表情でどんよりと灰色の雲が垂れ込んだ窓の外を眺めていた。



 次に一行が向かったのは、殺害現場の鍵が保管されていたという管理室である。秀和大学では一部の研究室や大学図書館、それにサークル棟は二十四時間利用可能なこともあり、大学正門横のこの管理室も、警備員が交代制の勤務で二十四時間稼動しているのだという。

「サークル棟の鍵は、ここに常時保管されています」

 ブルドックのような特徴的な顔をした警備員の中年の男が、手のひらで「鍵庫」と呼ばれているところを示す。「第一本棟」「第二本棟」「管理棟」「図書館」「サークル棟」と区別されており、事件現場となった文芸サークルの鍵は「サークル棟」というコーナーの一角にぶら下げられていた。

「鍵は、すべて似たような形なんですね」

 鍵庫から無作為に鍵を一つ取り出し、吾妻はしげしげと眺めている。

「ええ。特にサークル棟の鍵は、この名前ホルダーをつけて区別しないと、そっくりなもので区別がほとんどつかんのですわ」

 たしかに、すべての鍵には名前を書いた紙を挟みこめるプラスチックの小さな板のキーホルダーが付けられている。

「このホルダーは、警備員さんが取り付けているんですか」

「ええ、そうですよ。たまにこのホルダーをはずしてしまって紛失する生徒もいるので、定期的にチェックしたり古くなったら取り替えたりなんかもしています。ああ、あとこれも」

 ブルドックの警備員が差し出したのは、バインダーに挟まれた一枚の紙だった。レポート用紙サイズのその紙には、横向きに表のようなものが書かれている。

「これは」

「管理室から鍵を借りた生徒の一覧です。ここでは、鍵を厳重に管理するために鍵を借りた時間や借りた生徒の名前、それから万が一のときのために生徒の連絡先などを書き残さなければいけないんです」

 警備員から受け取った表に目を落した吾妻は、すぐに一つのことに気がついた。

「この、一番最後だけ、返却者の氏名が書かれていないな。それに、他とは明らかに字体が異なっている」

 吾妻の指摘した表の部分には、今日の日付と八時二十分という時刻が記されていた。事件発覚直後の時間である。返却された鍵は「軽音楽部」となっていた。

「ああ、それですね。実は今朝、『サークル棟近くの駐輪所に落ちていた』と生徒が持ってきてくれた鍵がありまして。それが軽音楽部の部屋の鍵だったのです。どうやら部室で早朝まで飲み明けていたらしく、おそらくそれで酔った軽音楽部の生徒が鍵を返し忘れ帰り際に落して帰ったのではないかと思います」

 困ったものです、と言いたげな顔の警備員。その一行は警備員が記入したものなのだという。返却者名が未記入であり、かつ他の文字と明らかに字体が異なっていたのはそのためであるようだ。

「ところで、この管理室は二十四時間体制とのことですが、警備員の勤務時間はどのように決められているのですか」

「どのように、というのは、シフトの時間ということでしょうか」

「はい」

「一人八時間勤務で、二十四時間で三人交代制となっています。それぞれAパート、Bパート、Cパートとなっていまして、Aパートが早朝四時から昼の十二時まで。Bパートが昼の十二時から夜の八時まで。そしてCパートが夜の八時から明け方の四時まで。主に大学内の警備のための見回りや鍵の管理、あと管理室に設置されている監視カメラのチェックなども行なっています」

「監視カメラ、ですか」

 吾妻と警備員の会話に、小暮警部がぴくりと反応する。

「その監視カメラには、サークル棟周辺の様子は映っているのですか」

「ああ、いえ。カメラは主に本棟と管理棟、あと図書館近辺に設置されています。サークル棟には設置しておりません」

 警備員の答えに、警部は「そうですか」と肩を落とす。監視カメラがあったなら捜査の進展も早かったであろうが、残念でならないといった落胆ぶりであった。



「栄くんが、亡くなった――」

 秀和大学第一本棟八階、八一五研究室。宗教学准教授の倉知允くらちまことは、時代がかった丸眼鏡の奥の両目を見開き呟いた。

「はい。今朝の八時十五分頃、本学のサークル棟で遺体となって発見されました」

「どうして、栄くんが」

「それを目下捜査中です」

 冷静な鈴坂刑事の応対に、倉知は落ち着きを取り戻したように深いため息をついた。

「そうですか。いや、一体何と言っていいのやら」

「お気持ち、お察しします。一刻も早い真相解明のため、捜査にご協力お願いします」

 深々と頭を下げる小暮警部に、倉知も「こちらこそ」と丁寧に応じる。

「栄さんは、先生の担当する宗教学のゼミ生だったそうですね。ゼミというのは、一年時から皆さん所属するものなのですか」

「学校にもよりますが、秀和大学では二年時からの所属になります。一年のときに入りたいゼミの教授や准教授の講義を受け、二年生に上がったと同時にゼミを選択します」

「なるほど。倉知先生から見て、栄杏奈さんはどのような生徒でしたか」

「真面目で勉強熱心でした。私の授業はお世辞にも生徒に人気があるとも言えず、ゼミも少人数でした。その分、本気で宗教学に興味のある生徒が集まっていたので、私としては講義もゼミもいい雰囲気の中で行なえていると思います。勿論、栄くんもその一人でした。ゼミの後も、よく質問のために研究室に残っていましたし。時折鋭い質問が飛び出ることもあって、彼女のような優秀な生徒が亡くなったとは、残念でなりません」

「ゼミ生同士や、他の生徒との交流関係などはどうでしたか」

「どうでしょうね。私は、生徒のプライベートにはあまり干渉しないことにしているので。ゼミの様子は至って穏やかなものでした。生徒同士で討論やグループ別研究をさせたこともありましたけど、それを見る限りでは比較的仲の良いゼミ生たちだと思っていましたが」 

 警部の問いに、訥々と答える倉知准教授。カーキ色のよれたシャツの胸ポケットに手を伸ばし、タバコの箱を取り出す。クリーム色のパッケージ。銘柄はコルツの葉巻煙草である。箱の蓋を開きかけたところで、はっとしたように顔を上げると今度は慌てた様子でズボンのポケットに箱を押し込もうとした。

「煙草、吸われるんですね」

 ここで初めて、吾妻が第一声を放った。倉知は恥ずかしそうに頭を掻く。

「すみません――学内は禁煙なのですが、時折無意識に手が伸びてしまいまして」

「わかりますよ。長年の習慣とは怖ろしいものです」

 好意的な吾妻の返答に、倉知は再び目を丸くすると部屋の壁に寄りかかった長身の男を見やる。

「あなたも、愛飲家なのですか」

「かれこれ十三年になります」

「そうですか。私はもう二十年目です。生徒からは常々禁煙するよう厳しく諭されているのですが。どうにもこれだけは止められそうにありません」

「喫煙者はたいていそのようなものです」

 肩をひょいと上げた吾妻に、倉知は「そうですね」と静かに笑みを漏らした。

「彼女からも、同じようなことを言われました」

「彼女、とは、被害者のことですか」

「ええ。『喫煙者はみんなそう言うんだ。止めるといくら言ったって所詮は口先だけ』と。手厳しいものでした」

 弱々しく微笑み、虚空を見上げる彼の声は淋しげだ。

「ところで、倉知先生は栄杏奈を恨むような人物に心当たりはありますか」

 不意の変化球が投げられたためか、倉知は瞬時ぽかんとした顔で目をぱちくりとさせる。が、すぐに「とんでもない」と首を振る。

「少なくとも、私には心当たりはありません。時々他の先生方ともお話しますが、彼女は品行方正を絵に描いたような生徒でした。勿論、我々は学内の彼女の姿しか見ていませんから、それが彼女の全てとは言いません。しかし、よく気のきく、他人思いの生徒でした。彼女がもうこの世にいないなど、何かの間違いではないかと思えてなりません」

 その後、小暮警部らは倉知のアリバイを確認したが、事件当夜はほぼ夜通しで研究室に篭っていたという。彼のアリバイを証明できる者はいないとのことだった。



     ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



捜査二 その他の証人


 事件発生から二日後。吾妻の元に小暮警部から連絡が入った。事件当夜、山口雅彰と共に軽音楽部の部室で飲み明かしていたという部員のうち、二人の生徒に話を聞くアポイントメントを取ることができたのだという。場所は、秀和大学からほど近い街中のファミリーレストラン。小暮警部の奢り付きである。

 三人掛けのソファに並んだ吾妻、小暮警部、鈴坂刑事の前に座った学生二人は、それぞれ三浦俊樹みうらとしき西村真哉にしむらしんやと名乗った。茶髪のパーマ頭にギラリと光るゴツめのネックレスをつけているのが三浦で、黒髪を軽くオールバックにしたキツネ目の男が西村である。

「早速で大変恐縮なのですが、事件当時、あなたたちが開催していたという飲み会の様子を教えていただけないでしょうか」

 柔らかく、だが単刀直入に切り込んだ警部に、最初に口を割ったのは茶髪頭の三浦である。

「あの日は、文化祭が終わったってこともあってぱーっとしたいなって話をしていたんですよ。飲みをするって決まったのも、その日の昼過ぎくらいだったかな。急といえば急だったけど、集まりはそこそこだったと思いますよ。まあ、野郎しか集まらなかったっすけどね」

 へらへらとした顔で話す三浦の後を継いで、西村もぽつぽつと話し始める。

「飲みは、夜の七時くらいから始まりました。六時くらいから、何人か買い出しとかで早めにサークル棟に来ていたみたいでしたけど――あの日はほとんどの連中がそうとう酔ってましたね。俺と山口は酒には強くて滅多に酔わないから、そのときもベロベロになった奴らの介抱係りをしていました。こいつなんて特にひどかったんで、正直途中でかなり面倒になりましたよ」

 隣の三浦を指して顰め面を隠そうともしない西村に、当の本人は「んなこと言うなよお」と冗談めいた声を上げた。

「会の最中に、部室を出入りした人はいましたか」

 鈴坂刑事の問いに、西村は「いましたよ」とあっさりと返す。

「といっても、トイレに立ったやつがほとんどです。俺も、三浦が『吐きそう』って青い顔するんで途中で外に連れて行きましたし。でも、たいてい数分で戻ってきたと思いますけど」

 西村の証言は、嘘をつくには冷静すぎるくらい淡々としていた。そこを鈴坂刑事が更に切り込んでいく。

「山口さんも、席を立ったときがありましたか」

「あったんじゃないすかね――ああ、ありましたよ。あいつもたしかトイレだったと思います」

 三浦が運ばれてきたサラダをつつきながら証言する。その様子を眺めながら、警部が質問を続ける。

「山口も、やはり数分で戻ってきましたか」

「ええ、だったと思いますけど」

「彼が席を外した際、何か特別に手に持って出たものはありませんでしたか」

「なかったんじゃないですかね。なあ」

 隣に問いかけた三浦に、西村も「ですね」と首を縦に動かす。

「スマホくらいじゃないですか。財布も置いたままだったし、別段様子がおかしいってこともなかったと記憶してますけど。刑事さん、山口のこと疑っているんですか」

 怪訝そうな顔をする西村に、小暮警部は「いえいえ、ただ当時の詳しい状況をできるだけ把握しておきたいものですから」とやんわり答える。が、西村は意外そうに「あ、そうなんですか」と鋭い両目を僅かに見開いた。

「てっきり、あいつが容疑者候補になっているのかと思ってたけど」

「ほう、なぜそんなふうに考える」

 推理作家が初めて興味深げな声を出した。低く響いたその声に一瞬驚いたように吾妻を見やった西村は、

「なぜって。あいつ、ああいう見た目だし、あるあるってやつなんでしょうけど、女癖はあまりよくないって話は出ていたんです。外面はいい奴ですし話も面白いんですけど、そういうとこに引っかかったって女子生徒の話も耳にしたことがありますし」

 やや気まずそうに目を逸らし、水の入ったグラスを煽った。同じ部の部員を警察に売ったという罪悪感でも湧いているのかもしれない。

「ま、軽音楽部の間じゃみんな知ってることですけどね、そのあたりの話は」

 三浦がさらりと言ってのけた。運ばれてきたボリューム満点のステーキ定食を目の前に、「うわ、旨そう」と顔を綻ばせている。

「因みに、山口さんがここ最近、誰かと付き合っていたというような話は聞いたことがありますか」

 探るような口調の鈴坂刑事に、だが三浦も西村も首を捻って「さあ」と異口同音に口にするだけだった。

「あいつの女事情なんて、いちいち把握してねえからなあ。割と定期的に女をとっかえひっかえしている感じだし」

「俺も知らないですね。山口はおおっぴらに自分の女癖を明かすタイプではないですけど、そういう噂は自然と広まりますから。その意味では、最近はあまり山口の浮ついた話は聞かなかったですね」

 そしてしばらくの間、五人はそれぞれ注文した料理を平らげることに意識を集中させた。その後の聴取においても、特段目ぼしい情報は得られないまま、一行は二人の参考人を解放したのであった。



「今までの情報をまとめると、単純な一つの仮説が浮かぶのではないかと考えます」

 ファミリーレストランを後にし車内に乗り込むと、鈴坂刑事が学者然とした口調でそう切り出した。

「ほう。その仮説というのは」

 片眉を器用に上げた吾妻に、彼女は「こほん」と小さく咳払いをする。

「この事件は、以前吾妻先生が『ドラマの観すぎ』と指摘された痴情の縺れにより引き起こされたものだという説です」

「覚えていてくれて光栄だよ」

 皮肉めいた吾妻の言葉を「どうも」の一言でかわした鈴坂刑事は、抑揚の無い声で先を続ける。

「被害者の栄杏奈さんは、恋人である山口雅彰に別れを告げたいと考えていた。しかし、山口雅彰はそれを許さなかった。互いの思いがすれ違いを起こし、山口雅彰にはとうとう殺意が芽生えるに至った」

 彼女が殺される直前に山口に送った「ごめん、もう、無理かも」というラインから想像したのだろう。

「密室はどう説明をつける? 警備員のおっさんから拝借した表を見る限り、文芸サークルの鍵は確かに事件当日の夕方六時前には返却され、それ以降文芸サークルの鍵を借りたものはいない。次に借り出しされたのは、山口雅彰が高瀬明海とともに部屋を訪れた翌朝の八時五分頃だ」

 コートのポケットの中で丸められていた紙を取り出し、吾妻はすげなく言ってのける。ブルドック顔の管理人に頼み込みコピーさせた、秀和大学管理室の鍵の管理表だった。

「それにだ。動機はともかくとして単純にアリバイの観点からみると、トイレに立ったという僅か数分の持ち時間しかない山口よりも、被害者の死亡推定時刻にアリバイ皆無の倉知准教授なら犯行が充分可能だったと思うが」

「それは――」

 言葉を詰まらせ、苦渋の表情を見せる鈴坂刑事。彼女を擁護するように、先輩刑事の小暮警部がやんわりと話に入った。

「密室の解明にはまだ至りませんが、私もやはり、山口雅彰が怪しいと睨んでいます。軽音楽部と文芸サークルの部屋は、それぞれ目と鼻の先です。軽音楽部の部屋にいた山口が文芸サークルの部屋にいた被害者を単純に刺殺するだけなら、ものの二、三分もあれば十分です。あとは、被害者を壁に磔にする時間と、密室を作り上げる方法――これさえ解き明かすことができれば、被害者を殺害する動機を持つ者は彼くらいしか思い当たりません。倉知先生には、被害者を殺害する動機が思い浮かびませんし」

「まあ、仮に倉知准教授が犯人だとするならば、被害者を十字形に磔にするといった、いかにも『宗教学に造詣のある自分が犯人です』とアピールするような犯行はまずしないでしょうね」

 現段階の警察の捜査において、被害者である栄杏奈の人間関係は至って良好なもので、学内外において彼女に恨みを持つような人物を特定するには未だ至っていないのだという。

「山口雅彰と被害者の関係について、何か新たな情報はあったのですか」

「昨日の捜査では、山口雅彰と栄杏奈さんが学内で思いつめた様子で話し込んでいるのを目撃したという生徒の証言が得られています。また、山口雅彰についてですが、以前彼と付き合っていたという女子生徒から『機嫌が悪いときに何度か殴られたことがある』という話を聞くことができました」

「それはそれは。人を第一印象で判断するとろくなことがねえな」

 吾妻が最後の言葉を言い終えるとほぼ同時に、小暮警部の携帯電話が鳴った。「エリーゼのために」である。以前から「携帯の着信音の変え方がわからない」とぼやいていたが、どうやら現在も購入時の初期設定のままであるらしい。

「吾妻先生、新たな情報が入りました」

 通話を終えた警部が、狭い運転席で後部座席の吾妻を振り返った。

「まずは鑑識からです。回収した被害者のスマートフォンなのですが、犯人はおろか被害者本人の指紋すら検出されませんでした。それから、スマートフォンのアプリ、というんですか。それがいくつか削除された形跡があるとのことで、今復元作業を行なっているとのことです」

「怪しさ満点じゃないですか。そもそも彼女は、少なくとも事件当夜に山口雅彰宛てにラインで最後のメッセージを送っている。その彼女の指紋すら残っていなかったというのは明らかに不自然です」

「ごもっともです。それから、被害者の司法解剖の結果が出ました。何でも、体内から睡眠薬が検出されたとのことでして」

「犯人が殺害する前に飲ませたということですか」

 鈴坂刑事の尖った声に、だが警部は頭を振る。

「いや、それに関してはもう一つ情報が入った。若宮が被害者の母親に聞き込みに行ったようなんだが、被害者はここ一ヶ月ほど不眠に悩まされており、市販の睡眠薬を服用していたことを母親が証言してくれたらしい。本人は隠していたつもりだったようだが、そこはさすが親というべきなのか、すっかり見抜かれてしまっていたみたいだな」

 若宮とは、K県警捜査一係の新米刑事である若宮暢典わかみやのぶのりのことだ。甘いマスクの持ち主で仕事熱心なことから署内では可愛がられているらしいのだが、捜査ではどこか抜けた言動も目立つ、まだまだ青さの抜けない新米刑事である。

「彼女の母親以外に、その事実を知っている者は」

「いえ、今のところは」

「睡眠薬の量についてはどうです」

「自殺を怪しむほどではないと。若干多いようにも感じたとのことですが、それでも服用量は通常の範囲内だということです」

 栄杏奈は、文芸サークルの部屋で自ら睡眠薬を口にしたのだろうか。そもそも、彼女がサークル活動を終えて鍵の掛けられた部屋になぜ、そして鍵も使わずどのように舞い戻ったのか、未だ謎のままなのである。



     ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



吾妻の閃き


 三浦と西村から証言を得た次の日。作家吾妻の活動拠点であるK県S市水穂通り中心部に聳え立つ「ラルジュ水穂」七階の七○五号室。そのダイニングルームにて、小暮警部と鈴坂刑事が吾妻お気に入りのカウチソファに腰を下ろしていた。ダークブラウンの床によく馴染むグレーのソファは、寝室を仕事部屋にしている吾妻がベッド代わりとしても重宝しているものである。

「三浦と西村を解放した後、私と鈴坂で手分けして山口と倉知准教授に再度話を伺いに行きました。被害者が服用していた睡眠薬のことについてです。私は山口に話を聞いたのですが、彼は心底驚いたといった表情で『そんなことは初耳だ。彼女はそれほどまでに悩んでいたのか』と言っていました。『自分はそこまで彼女を追い詰めてしまっていたのか』とも。あれが彼の演技なのか本心なのかは定かではありませんね」

 吾妻から受け取ったコーヒーの入ったカップを手にしたまま、警部は額に皺を刻みそう報告した。

「倉知先生についても同様です。睡眠薬の話をした瞬間、困惑したような顔で『彼女は、何かそこまで深刻な悩みを抱えていたのでしょうか』と言っていました。因みに、杏奈さんが所属していた宗教学のゼミ生にも話を聞いたところ、彼女の悩みやストレスについて彼女から話を受けたことはなかったとのことです」

 先輩警部に続き、鈴坂刑事も淀みない調子で手帳の中身を読み上げる。

「それから、高瀬明海にも話を訊くことができました。彼女は、山口雅彰との交際についての相談は受けていたが、睡眠薬の話は山口や倉知先生同様初耳だったということです。山口についての相談の中身も聞きたかったのですが、高瀬明海は話すことを躊躇っている様子でした。『ひどくプライベートなことですから』と、結局終始話の核心に触れることはありませんでした」

「被害者の母親の証言についても、若宮から引き続き報告がありました。彼女は杏奈さんから具体的な悩みの相談は受けておらず、睡眠薬の服用について問い質した際も『ストレスでちょっと眠りが浅いだけ』と突っぱねられるように言われたとのことでした。一度は医者に診てもらうよう進言していたらしいのですが、その後杏奈さんが医者にかかったという話は聞いていないとのことです。

 あと、念のためにと杏奈さんの母親のアリバイについても若宮が裏を取っていました。事件当夜は自宅で一人、娘の帰りを待っていたとのことです。なお、死亡推定時刻の十一時から日を跨いだ午前一時にかけて、自宅の固定電話で知人と話をしていたとのことで、こちらは固定電話の通話記録とその知人の女性から裏が取れています」

 二人の調査報告を受け、吾妻は「ふうむ」と顎に手をやり部屋の壁にもたれかかる。

「動機もアリバイも、はっきりしませんね」

「全くもっておっしゃる通りです。アリバイについては、倉知先生と、あと高瀬明海について証明されていません。しかし、二人には被害者を殺害する動機がない。一方、山口雅彰にはほぼほぼ固いアリバイがあるものの、動機についてはやや怪しい点が浮上している。一方が確実でも、もう片方は不確実です」

「ここまでくると、山口雅彰のアリバイを崩すことが一番確実なようにも思えるのですが、私の勇み足でしょうか」

 鈴坂刑事は、やはり第一発見者であり被害者の恋人でもある彼のことを疑っているようである。

「栄杏奈は、周囲からの評判もすこぶる良く、倉知先生がおっしゃったように品行方正そのものといった生徒でした。聞き込みを続けていても、彼女を悪く言う者は誰一人としていません。被害者がアルバイトをしていたというカフェの店員の中には、彼女のことを密かに『女神』と呼んでいる者もいたくらいでした。現場が現場なだけに、行きずりの通り魔的犯行とも考えられません。セオリー通りと言っては先生には聞こえが悪いのかもしれませんが、私には山口以外の犯行がどうにも考えられません」

 珍しくきっぱりと主張した鈴坂刑事に、「先生」吾妻は反論するわけでもなくただ黙って向かいの窓を見つめている。ぼうっとしているというよりは、どこか物思いに耽っているような顔だった。

 連日晴れ間のない不安定な天候続きで、この日も市内の空一面を重たい雲が覆っていた。真昼の時間にも関わらず、部屋はどことなく薄暗い。ダイニングルームの隅に立てられたフロアスタンドの柔らかな朱色の光が、吾妻の横顔を立体的に浮かび上がらせている。

「そういえば、吾妻先生は玄関の鍵を変えられたのですか」

 重たい沈黙を破るためか、不意の鈴坂刑事の発言に、小暮警部が「へ?」と珍しく間の抜けた声を上げた。対して、指摘を受けた吾妻本人は「ほう」と唇を尖らせる。

「気づいていたのか」

「はい。玄関で靴を並べるときに、いつも無意識的に扉を見ていたんです。サムターンの形が微妙に変わっていたような気がしたので。あと、ドアチェーンの先端が変な模様のプレートにはめ込まれていましたが、あれは何なんですか」

「防犯対策用に備え付けた迷路型ドアチェーンだ。一ヶ月前にやられたんだよ。空き巣だった。俺の部屋含めてこのマンションで七つの部屋が被害にあった。それから玄関の鍵と一緒にドアチェーンも変えたのさ」

 苦笑気味に玄関の方を振り返る吾妻に、小暮警部は「そういえば、そんな事件もありましたね。私が別件の殺人事件で忙しく動き回っていた時期です」と、うっかりというような口ぶりで額を撫でる。立ち込めていた重苦しい空気の色が僅かに変わった。

「最近では空き巣犯の手口も多様化しています。都内での侵入窃盗は年々減少傾向にありますが、我が県においてはその逆。空き巣による犯行は増加の一途にあります。鍵を変えたからといって安心は禁物です。今後も細心の注意を払うようお願いします」

 事務的な鈴坂刑事の忠告に、吾妻はおどけた表情で「承知いたしました」と首を竦める。だが次の瞬間、「ん」と奇妙な声を喉から出すと、打って変わって何やら深刻な顔をして黙りこくってしまった。

「どうしたのですか、吾妻さん」

 小暮警部が目を瞬かせ、壁に背を預けたままあらぬ方を見つめ微動だにしない彼に顔を向ける。

「鍵、か」

 囁くような小さな声を漏らすと、吾妻は二人の刑事の座るカウチソファに足早に移動し、ソファの背もたれに無造作にかけられていた自身のコートをひったくるように手に取った。

「そうか――いや。それだったらこの方法は『彼』に最も適任だ。これなら例の鍵についての説明もつく」

 独り言のようにぶつぶつと口を動かす吾妻を、小暮警部と鈴坂刑事はただただぽかんとした顔で見つめている。

「吾妻さん? 何かお気づきになられたのですか」

 搾り出すような警部の言葉に、吾妻は強気な笑みを返す。

「ああ。後は、鈴坂刑事が拘っている動機を解明するだけだ」

「つまり、密室の謎は解けた、と。そういうことですか」

「そういうことです――さ、最終問題の解答を作りにいきましょう、お二方。麗しき女神を磔に処した犯人に、及第点をもらいに行こうじゃないですか」

 挑発的な言葉を発した推理作家のその瞳には、目の前に念願の標的を見たハンターの鋭い光が宿っていた。



     ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



真相 女神の磔刑


 吾妻ら一行が再度秀和大学を訪れたのは、事件発生から六日が経った金曜日だった。「できれば人気のないところを案内してほしい。事件について話したいことがある」という吾妻のリクエストに応え、山口雅彰は大学の図書館の裏手にある小さな公園のような場所に三人を案内した。すっかり葉の落ちきった裸の木々が、見るからに寒々しい。

 月を跨いで、十二月に突入した。頬を切る風は、まるで氷水のように冷たい。トレンチコートの襟を立てながら、山口は三人を振り返った。

「それで、事件についてお話があるとのことですが」

「ああ。今日は、俺たちが考えた事件の解答を、あんたに添削してもらおうと思ってな」

 唇の端を吊り上げた吾妻を、山口は真顔で見据える。

「添削? どういう意味ですか」

「簡単な比喩表現だ。要するに、犯人がどうやって被害者を殺害し、自らのアリバイを作り上げたのか。それが正解か不正解か、当人のあんたに確認したいと言っているんだよ」

「つまり、僕が杏奈を殺した犯人だと。そうおっしゃりたいわけですか」

 小さく鼻で笑った彼に、吾妻は冷静に語り出す。

「ま、これでも飲みながらのんびり聞いてくれ――あんたは、事件当日、五時三十分過ぎに栄杏奈らとともに文芸サークルの部屋を出た。そして、その部屋の鍵を閉めたのはあんただ。仮に、文芸サークルのその“本物の”鍵を『鍵A』としよう」

 吾妻が山口に放り投げたのは、先ほど自動販売機で買ったばかりの缶コーヒーである。無言でそれを受け取った山口は、礼も言わないまま吾妻の話に耳を傾ける。

「軽音楽部の西村という生徒の証言によると、飲み会が始まる七時以前から、軽音楽部の部屋は既に開いていたらしいな。買い出しに来ていた生徒が何人かいたとか。当然、軽音楽部の部屋の鍵も、貸し出されているわけだ。その鍵を、仮に『鍵B』としようか。

 あんたは、文芸サークルの鍵Aを借りたとき、軽音楽部の鍵Bも一緒に借り出していたんだ。そして、文芸サークルの活動を終え部屋の鍵を掛けた後、鍵Aと鍵Bのキーホルダーを付け替えたんじゃないのか? サークル棟の部屋の鍵はそっくりなものだから、その区別に使われているプレートのホルダーを付け替えれば、どっちがどっちの鍵かなんてほとんどの奴には見分けがつかない。あんたはそのことを利用して、あの密室を作り上げた」

 ここで言葉を切った吾妻に、山口は「へえ」と冷めた表情で返す。

「そんなアイデア、思いつかないなあ。それで、あんたの話の中の僕は、その後どうやって杏奈を殺したんですか」

「さっきの話に戻ると、ここで二つの鍵は入れ替わったことになるよな。ここから、文芸サークルのホルダーの付いた軽音楽部の鍵を『鍵b』、軽音楽部のホルダーの付いた文芸サークルの鍵を『鍵a』とする。つまり、六時前にあんたが管理室に返した鍵bは、軽音楽部の鍵だったんだ。鍵はキーホルダーのリングのところを鍵庫の中に引っ掛けて保管しているから、警備員のおやじに鍵が入れ替わっていることがバレることはなかった。その後、あんたは『鍵a』を所持したまま軽音楽部の飲みに参加する。

 そして、ここであんたを怪しんだ理由の一つが登場する。文芸サークルの活動を終えた後から、軽音楽部の飲みが始まるまでの一時間――いわゆる空白の一時間があんたに存在していたことになるんだ」

「そんなの、飲みの準備をしていただけにすぎません。実際、軽音楽部の部屋の鍵を開けたのは僕ですし、準備のために部屋を片付けていたりしてたんですよ」

 余裕のある声色で反論する山口に、今度は小暮警部が応戦する。

「軽音楽部のメンバーから話を伺いました。確かに、部屋の鍵を開けたのはあなたのようですが、あなたはメンバーの誰とも買い出しに行っておらず、その日あなたが部屋に姿を見せたのは、飲み会の始まる十分ほど前だったということですよ」

 ぐっと言葉を飲み込むように黙り込んだ彼に、吾妻は構わず先を続ける。

「空白の一時間。その間にあんたがやったことはさしずめこんな感じじゃないのか――まず、『鍵a』で一度は掛けられた文芸サークルの部屋を再び開ける。そして、予め栄杏奈に時間を決めて部屋に来てもらうようにしていた。部屋で二人になったあんたらの間で何があってどんな会話が交わされたのか、さすがにそこまでは俺にはわからん。だが、あんたは兼ねてより計画していたことを素早く実行したんだろう。彼女を上手く言いくるめ、睡眠薬の入った飲み物を彼女に与えた。あんたは、彼女が常時睡眠薬を服用していたことを知っていたんだよ。司法解剖で、彼女の体内に残された睡眠薬の量が常用時の量よりもやや多いことがわかっている。犯行時刻まで彼女が起きないことを計算して飲ませたんだろう。そして、眠りについた彼女を、部屋の壁に磔にした――これで、おおかた下準備は整ったわけだ。部屋の鍵を再び掛けたあんたは、そのまま軽音楽部の飲みに参加した」

 事件発生から六日。久方ぶりの天候の回復で、吾妻らの頭上に広がるのは冬空らしい雲ひとつない晴天だ。だが、それとは対照的に山口の表情には段々と翳りが見え始めている。

「ここまでくれば、あとは簡単だ。壁に磔にされ、身動き一つ取れない彼女に止めを刺すのには、大した時間は必要ない。眠っていればなおさらだ。心配なら彼女を磔にしたあと、猿轡でもはめてりゃいい。

 栄杏奈のスマートフォンは、彼女を殺害した後にでも一度回収したんだろ。コートのポケットの中にでも入れて操作をすれば、軽音楽部の部屋にいるときに彼女からあんたのスマートフォンにラインを送ることはそう難しくない。まして、部の連中はだいぶ酔っていたみたいだからな。あんたのちょっとした動きまで鮮明に覚えている奴なんていなかったんじゃないのか。

 そして最後の仕上げだ。明け方四時頃に軽音楽部の部屋を出て、一番最後に鍵を掛けたのはあんただ――いや、正確には“掛けたふり”だな。管理室のおやじによると、朝方八時二十分頃、軽音楽部の鍵が落ちていたのを届けに来た生徒がいたらしい。あんたは、そのときには既に入れ替わった二つの鍵をもとに戻していたんだろう。『鍵a』を所持したまま一度はサークル棟を離れたあんたは、だが鍵が入れ替わったままではいずれ不自然に思われてしまうと考えた。そこで、朝の八時頃、学校に到着したあんたはまず、管理室から『鍵b』を借り出して、二つの鍵のホルダーを再度交換した。ここで、鍵はようやく『鍵A』と『鍵B』に戻ったってわけだ。あとは、『鍵B』で軽音楽部の部屋に鍵を掛けて、適当な場所に『鍵B』を落しておく。遅れて返された鍵を、警備員のおやじはさほど不思議にも思っていなかった。鍵の紛失は珍しいことでもなかったし、軽音楽部の飲み会のことも知っていたみたいだしな。

 最後に、文芸サークルの部屋の鍵である『鍵A』で、部屋に入り栄杏奈の遺体の第一発見者となる。発見があんた一人だと、もしかしたら警察に怪しまれるかもしれない。高瀬明海は、あんたが用意したもう一人の第一発見者だった。栄杏奈のスマートフォンは、高瀬明海と合流する前に先に部屋に戻しておいたんだろう。アリバイ作りに利用された栄杏奈のラインは、第一発見者として再び現場に戻る口実としても上手く機能したんだ。『ごめん、もう無理かも』という内容の、あれだな――以上が、俺たちからの事件の解答編の提出だ」

 吾妻が話を終えると同時に、それまで俯き加減だった山口は顔を上げた。見下すような、それでいて、諦めが漂っているような、不思議な表情を浮かべている。

「第一発見者で、しかも被害者の恋人。まるで推理小説の王道ですね。犯人は必ず現場に戻ってくる、とも言いますし。ははっ、まるで教科書通りの殺人計画だ」

 可笑しそうに肩を震わせるその物言いは、まるで他人事だ。推理小説を読み、滑稽な犯人を嘲笑うかのように。

「お認めになるんですか、自分が犯人だということを」

 怒気を抑えた口調で詰問する小暮警部。山口は笑いを止めると、今度は感情の一切が欠落したような顔になる。

「お認め、ねえ。まあ敢えて訊くとしたら、僕がやったっていう確実な証拠はあるのかってことだけど」

「鑑識が、栄杏奈さんのスマートフォンから削除されたアプリの復元を行ないました。その結果、無料のチャットトークというアプリで、あなたと栄杏奈さんが友だち同士であることが判明しました。名前はさすがに変えられていましたが、あなたのスマートフォンを押収し同様に調べれば、すぐにわかることです。そのアプリの会話の中で、事件当時の夕方のあなたと杏奈さんのやり取りが残されていました。また、同じアプリの中で、杏奈さんは別の友だちに『今お付き合いしている彼が時々暴力を振るうから怖い』というようなことを相談していることもわかっています。あなたにその傾向があることは、複数の証言者からも明らかになっていることです」

 鈴坂刑事が、畳み掛けるように言い放った。整った眉をキュッと寄せ、山口は小さく舌打をする。

「あっそう。つまり、言い逃れはできないってことか」

 キザっぽい仕草で肩を竦めると、コートのポケットからすっかり冷めたであろう缶コーヒーを取り出し、それを吾妻に向かって振ってみせる。

「まさか、この中に自白剤でも入っているんじゃないかと思っていたけど。そんなもの、使うまでもなかったってことか」

 どこか余裕すら感じる山口の言葉尻に、吾妻は不快気に眉を潜める。

「あんたにはそんなもの、必要ないさ。そんな便利な道具なんざ使って証明するまでもなく、あんたの手口は稚拙で穴だらけだったってことさ。小説のネタにすらならない、浅薄愚劣な犯行だ」

 そう吐き捨てて、吾妻は犯人に背を向けた。真冬の冷気すら凍らせるような冷たく尖った怒りの刃は、だが誰に向けられることもないままだった。



「――そうですか。栄くんの恋人が。しかも、学内の生徒だったなんて」

 脱力した声とともに、倉知准教授は肩を落とす。

「ええ。彼は、栄さんの所属ゼミがあなたのところであることを踏まえたうえで、今回の犯行に及んだと自供しました」

「と、言いますと」

「栄さんは、文芸サークルの部屋の壁に十字の形に磔にされた状態で発見されました。宗教学が専門のあなたに、捜査の目を向けさせるためだったということです」

「私を、警察が怪しむようにということですか」

「はい。浅ましい犯行という他ありません」

 やるせない声で事件のその後について報告する小暮警部。鈴坂刑事と吾妻は、警部の後ろでその様子を静かに見守っていた。

「動機は、『杏奈が他の男に現を抜かしているんじゃないかと思ったから』だそうです。実際は、栄さんは彼からの度々の暴力に耐えかね、彼と別れることを望んでいました。しかし、いざ別れを告げるとなると、彼の怒りが一層激しくなるかもしれない。そう思うと怖ろしかったのでしょう」

「可哀想でなりません」

 沈痛な声を絞り出し、倉知は頭を垂れる。丸眼鏡をそっと外し、骨ばった手を額に当て長い吐息を吐き出した。

「生徒のプライベートには関わらないと言っていましたが、こんなことになるのなら、少しでも彼女の相談にのってあげるべきでした。勿論、彼女から打ち明けられない限りそのようなことはわからないことだったのですが。彼女の担当教官の一人として、小さな異変でも察知できていればよかったのかもしれません」

「倉知先生が自身を責めることはありません。誰にも、相談できなかったのだと思います。実の母親にさえも」

 堪らずといった様子で、鈴坂刑事が声を上げた。倉知は力ない笑みで「ありがとうございます」と返すのが精一杯のようである。

「倉知先生。あなた、ひょっとしたら薄々感づいていたのではないですか」

 地を這うように部屋に響くバリトンボイスに、倉知ははっと顔を上げる。その拍子に、手元の丸眼鏡が小さな音を立てて研究室の床に落ちた。

「どういう、意味ですか」

「彼女の恋人のこと、とまでは言いません。だが、彼女が何かから逃げるようにしてこの部屋に足繁く通っていた――講義内容の質問、という名目を掲げて。元来勉強熱心な彼女のことだ、他の生徒はさして怪しむこともなかったでしょうし、彼女の深層心理なんて誰も気が付いていなかったのかもしれない」

「おっしゃっている意味が、いまひとつ理解できないのですが」

「じゃあ、もっと噛み砕いた言葉で言いましょう。栄杏奈にとって、この部屋は唯一の現実逃避の場、心の安らぎを得られる場所だったんです。煙草の火をつけるマッチの音一つですら、大きく響くくらいに静寂に満ちたこの空間。時には宗教について語り合い、時には言葉も交わさずに穏やかに時を過ごす。暴力と不安の日々から解放されるかけがえのない時間が、ここにはあったんだと思いますよ」

 天を仰ぐ吾妻を、倉知は信じられないといった表情で見つめている。

「彼氏の目には、栄杏奈は自分を拒絶し他の男に愛情を求めた裏切り者に映ったのかもしれない。あの姿は、犯人が栄杏奈という女神に下した罰――裏切り者に相応しい処刑法だったんだ」

「そんな。たった、それだけのことで」

「それだけ、で充分なのさ。犯罪の動機なんて、そんなものだ」

 倉知の目は、虚ろだった。研究という生き甲斐しかなかった一人の男に、ささやかな清福の時を与えてくれた少女はもうこの世にはいない。どんなに神に縋ろうとも、彼らは無慈悲に下界の男を見下ろすだけである。

 奇しくも、山口雅彰の逮捕から一週間後。十二月十三日の金曜日、栄杏奈は二十歳の誕生日を迎えるはずだった。

思いついた瞬間は「これ、いけるかも!」となっていても、いざ読み返すとトリックの稚拙さに肩を落とす自分がいます。

お気づきの点などありましたら、是非感想欄に。

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[良い点] 新作待っていました。 犯人はこの人だろうかと目星はついたものの見事に外し、トリックに翻弄される始末。自身も推理小説を書いているくせして情けない限りでした。 いやぁ本当に面白かったです。次…
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