臨界。
本日何度目かも忘れた調律による侵入の感覚が既に限界だと言わんばかりで、頭蓋の中に砂鉄でも入ってしまったような違和感が頭痛を加速させていく。普通なら気絶していてもおかしくはないのだろうが、既に臨界点を超えた痛みに最早足を止める筋合いなど零に等しいと高揚と傷みに慣れ過ぎた精神は当人の意志関係なく歩みを進めていった。
チャリスの牙への調律で可視化した世界は、天井の見えない図書館のような場所だった。
大理石のような白い床に整列する書物たちがその並列を軒並み崩し、雪崩れた紙の海はその情報の価値を捨てるかのように原形を留めてはいない。
人に対して随分と無茶を強いる足場を、ジェシーはなんとか波を縫うように進んでいく。
モルドレッドに言われるがままに入り込んだはいいものの、彼が欲しがっているらしい「Avalon」という単語が混じった情報の束は一向に見つかる気配がない。もしかしたら適当に文字を当て込んでいるせいで引っかからないということもあるかもしれないが、あらゆる綴りと発音を並列処理で割り出している為さすがにそれはないと思いたい。
直訳するならば林檎の島を意味するそれだが、偽名として関するにも少々露骨すぎる名前だ。一応人型だとは思ってはいたいが、まさか兵器の類か何かなのだろうか。モルドレッドのあの感情の込め方は些か複雑で察しが聞かないのが面倒なところだ。
いや、そんなことよりも城でさえもあんな状況で自分自身のこともてんやわんやだというのにまた新しい情報に触れようとしているのだ、これ以上問題を抱えさせられるのかと思うとジェシーはさすがに自分の不運を呪う。
「伝承派に、腐敗者に、今度は何が飛んでくるんだか……、と?」
軽々と情報の波を乗り越えていくと急に開けた空間が半分閉じかけた瞼を押し上げた。珍しく床の見えたそこは円状に紙束がばら撒かれ、その中央には人影らしきものがだいぶ気の崩れたような格好で座っている。戦火の臭いが全くしない上、特有の張りつめた威圧感というものもないことから敵、というわけではないらしい。
「降りてきなよ、話がしたいんだ」
人影らしきものはジェシーの存在に気が付いたらしく、俯けていた顔をこちらに向けて比較的淡白な招待を投げつける。
敵意は見えないがばれている以上潜伏し続ける理由もないだろう、警戒は解かないもののジェシーはその人影らしきものと同じ舞台に立つ。同じ直線状に見えた人影は案外、年端もいかない少女の形をしていた。
「やぁ、今晩は」
「あぁこんばんは、端的に聞きたいんだけどお前は何だ?」
懐に隠した爪刃を確かめながらジェシーは人型をした少女を観察しながら問う。
それは印象とは裏腹に灰色の髪をしていたが少なくともジェシーの持つ髪の色よりかは上等なものに見える、もはや生糸に似た細い髪を簡素に束ね、汚れや垢が一切見えない血の通っていることすら疑う透明な肌を気高く晒している。人形のように細く生きてはいない腕にはいくつかの怪我の跡が見えたが、堂々と見せつけるが如く曝すそれはむしろ勲章のように見えてくる。
気高い猫は「随分と礼儀を知らない客人だね」と手をくるりと回し顎に当てる。しかし言葉の割にしては表情は楽しんでいるように見えた。
「ボクはただの情報の塊さ、ま、一応演算とかも出来るけどね。呼び名に困るようなら『ユーサ』と呼ぶといい」
「俺も名乗ったほうがいいか?」
「そうだね、名乗ってくれると楽かな。キミがキミだと思っている名と、事実の名は違う場合があるからね」
ジェシーはユーサと名乗るそれに対して自信を証明する名を教える。死人の言葉が刻まれた名前を聞いてユーサは特に何を言うわけでもなく、むしろボールスであるという事に焦点を合わせカラカラと笑った。
「へぇ、ボールス王がここに来るなんて思ってなかったよ。もしかしてキミがアヴァロンの言ってた逸脱者ってやつかい?」
一応アヴァロンは言葉を喋ることができるらしいと考えながらも、逸脱者と称されたジェシーの心情はあまり良くはない。それはそれで結構なのだが、どうにも妙に嫌な感じというものが生えて気持ちが悪い。まるで母親の言いつけを破ったような気分だ。
怪訝と疑問符を浮かべたまま顔をしかめっ面めるとユーサは「だろうね、だからイレギュラーなんだ」と鈴を鳴らすように微笑んだ。
「ユーサ、お前はさっき『ボールス王がここに来るとは思ってなかった』と言っていたが、お前の予測じゃ誰が来ると思っていたんだ」
「ボクの見立てでなら、モルドレッド=ブリテン・ヴォルシェーブニクが来ると思ってたよ」
「……あいつそんなフルネームだったのか」
「きっと本人も知らないよ」
本人も知らない名前を何故お前が、とは聞かなかった。どうにもこのユーサという情報の塊は知り尽くしていることを淡々と答えているだけだということが、なぜかひしひしと伝わってくる。もはや問うだけ無駄だろうとすら思えてくるのは思考が誘導されているのか、本能がそう告げているのか。いや……考えるだけ無駄か。
「お前がアヴァロンの情報とやらなのか?」
「少なくとも、アヴァロンに繋がる情報ではあるよ」
ほら、とユーサはその薄ら冷たそうな小さな右手を差し出した。絵になるその姿に一瞬見惚れそうになるものの、そんな場合ではないと頭の中に残留する砂鉄が針になり食い止める。少女の右手の意味に小首を傾げると「キミは分かってないね」と呆れられてしまった。
「此処から連れ出してよ。丁度、退屈してたところなんだ」
こいつはどうにも人の都合を考えないらしい。
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再浮上する意識が現象による引き金となったのか、それは案外あっという間のことだった。
目の前に突き刺さり城の中枢をえぐり続けていたチャリスの牙に、何が当たったわけでもなく亀裂が駆け巡る。蜘蛛の目のように歪にその裂傷が牙を自壊させるにはそう時間か掛からなかった。しかしそれで終わってくれないのが不運というべきか、派手に砕け散り水晶片のシャワーの真っただ中に立ち尽くすジェシーへ飛び込む小さな影があった。
「うわっと、と、おお!?」
勢いを殺しきれなかったのが悪かったのかジェシーがその少女をうまいこと受け止めたは良いものの、
ごろごろと数回転がったところでようやく止まる。周囲からは現状が把握できても呑み込めないと言わんばかりの驚きの声が聞こえたがジェシー自身はそれどころではない。
軽くその少女──ユーサに押し倒される体勢になったまま、彼女は目を細めて鎖が小さくなるように首を傾げると楽しげに微笑みかける。
「びっくりした?」
「び、びっくりするに決まってるだろ……!」
「あれ案外現実だと混乱しやすいんだね、キミ、やっぱり面白いね。あーでもやっぱり実体があるっていいねぇ、暖かーい」
ユーサは猫が気まぐれに額をこするようにジェシーへ頬ずりをした。まったくもってスキンシップに耐性がないジェシーは死にかけていた血管が久々に仕事だとはりきったのか、顔を加熱されたように赤く染めてしまう。
無臭ということだけでまだ救いはあるが、くすぐったい上に周囲に誰がいると思っているんだ、あぁ最悪だ。
「ジェシー、その子供は」
逆さまになった視界に覗き込むようにモルドレッドが疲労に満ちた顔で現れる、ひどい返り血だ。
乱入していた竜型の腐敗者は遠目に見て肉塊になっているところからどうにかなったのだろうが、激闘でもあったのだろう。もったいないことをしたと思いながらもジェシーはため息をつく。
「え、あ、えっとなんか出てきた、一応アヴァロン? 関係らしい、けど! ユーサ! とりあえずそこを退いてくれ!」
「やだ」
「やだじゃない! 俺が恥ずかしい!」
わたわたして何とか上半身をあげることに成功すると、スイッチが切り替わったらしい捕喰者マリアがすっとジェシーの肩に手を置いた。
随分と清々しい笑顔をしているが、これは多分機嫌がいいのだろう。そうだと思いたいほどに煌めいた笑顔でマリアはもう一つの手で親指を立てて言い放った。
「よかったわね」
「どこがだよ!?」
間髪入れずについ出てしまったツッコミが捕喰者ハルトの笑いの鳩尾にクリーンヒットしたらしく、視界には映らないところで彼の爆笑する声が聞こえてくる。ゲタゲタという随分彼らしくない笑い方だが盛大な戦闘を繰り広げた後だ、熱が廻りすぎて声帯がまともな動きをしていないのだろう。そのうち自分もああなりそうで怖い。
「お前ら人が恥ずかしくて死にそうなのによくもまぁ」
「はは、一回死んでるやつが何か言ってるぞ。なぁ捕喰者、こいつどうしたものか」
「やめろモルドレッドッ! それ以上笑かそうとするな!」
主に俺が死ぬと床を叩く音が余計にジェシーの頭痛を加速させる。何かものすごく変なところに入ってしまったのは確かなようだ。
まったくもう、とユーサを何とか押しのいて立ち上がると追い打ちをかけるように地響きのような音がこの場にいる全員を襲った。しかし揺れは地面からくるものではなく、建物から伝ってくるものだ。しかし、そう何事だと考える前にそれは動き出していた。
刃の先端を失ったチャリスの牙が大きな音を立てて浮上を始めていた。天井すらなくなったそこから離れていくチャリスの牙は、一度高度を取ると目に見えてかなり高速に移動を始めていた。
そこでジェシーは、いや全員が気が付いていたのかもしれない、だが決定的だった。
チャリスの牙が折れた瞬間から、雨が止んでいた。
「おい、あれはアリなのか」
冷静に立ち戻ったハルトが、壁にいつの間にか空いていた穴の先を指差した。
嵐の後のまっさらに洗いあがった夕暮れの空を覆っていた暗雲は消え、雲の中に隠れていたチャリスの牙の本体が隠れ蓑を忘れてその姿を曝していた。
「城が浮いている、だと……!?」
言葉通りに、その城は浮いていた。
それはまるで鏡の境界面に立つ菱形の黒い城、地上へ向けられた鋭い八つの牙のうち一つは折れていた。恐らく先ほど自壊したそれなのだろうがそれこそが先ほどまでに相手していた牙と同じものだという証拠になり得てしまう。
いっそそれは空を行く巨大な蜘蛛。暗雲から伸びてボールス城の基盤譜面を食い破ろうとしていた牙は、たった一部分にしか過ぎなかったのだ。
呆然にしか言いようのない光景に立ち尽くしていると、マリアがふと思い出したように呟いた。
「ブリテンの方角に向かってないかしら、あれ」
その言葉に慌ててジェシーは頭の中で地図を広げると、確かに方角だけを見るとチャリスの牙はブリテン……アーサーが王を務める国へ真っ直ぐに向かっているように見えた。
まさか、と思いはするがまさかと思ったことが平然と起こるような世界だ。だらりと冷や汗が背をなぞってはジェシーの思考を回させる。あのまま本当にブリテンにチャリスの牙が現れたら、いったいどれほどの被害が出るのだろうか。自分は今どうするべきだ、今国を離れてもいいものか。あの人なら平気そうだがそれでも嫌な予感がぬぐえない──だが、それでも。
「──どうする、イレギュラー?」
心臓に銃口を差し向けられるような冷淡さを含めたユーサの声が、いっそ決め手となってしまった。
「俺、ちょっとブリテン行ってくるわ」
買い物に行くようなノリで言うもんじゃねえとモルドレッドに頭に拳骨を落とされたが、ジェシーの中にあった短銃の引鉄はもう弾かれたも当然だった。