警醒。
霧状の雨の中を黒い魔法馬で駆け抜けていく、唸るエンジン音と霧雨の音が混じり切り裂くような風の音が鼓膜を揺らしては体温を奪っていく。さらに吹き付ける細かな水の粒が視界の遠近を霞め、平衡感覚をぶらしては首筋に触れる冷気に意識を叩き起こす。
地上から一気に空中へ飛び上がったモルドレッドの愛馬は外周をなぞる様に航路を取り、短時間ではあるがボールス領の姿を空から映す。雨に濡れて黒に染み出した煉瓦の街並みを覆う暗雲は、奇妙なことに夕暮れ時のはずが朝焼けのような色彩を宿して空という空を覆いつくしている。
鉄の臭いが醸す水の臭いに、ジェシーは考えずとも表情を硬くする。水と、鉄と、錆びの臭い、それは死を直視する際に気道をすり抜ける死の臭いによく似ていた。
王城の方角に視線を向けると、また大きく風の壁が通り抜ける。この暴風はどうにも城を中心として波打っているらしい、その見えない波のど真ん中をモルドレッドは愛馬を手繰り突き進んでいく。操縦と送迎に集中するモルドレッドの背から少し顔を出し、ジェシーは進行方向を見やる。見慣れているはずの王城の夕影、見慣れていたはずの光景の中に大きな違和感が城の天辺を中心に渦巻いていた。
「──なんだ、あれは」
上空を覆い隠す朝焼け色の奇妙な雲から王城に向け、一つ、爪のようなものが向けられているように見えた。
遠くに見据える夕陽が照り返し、三日月のように反り曲がる爪のような影が雲の隙間から裂き込まれ、その先端を王城の見張り塔に結んでいる。──否、あれは爪というよりもまるで牙のようでもあった。空から巨大な怪物が、その大きな牙で城を砕こうとしているように、飲み込もうとしているように、……ジェシーにはそう【観】えた。
照り返す、牙の光。
紫のようにも見えて蒼くも見せる奇妙な水晶のようなガラス体が光を透過して、濁った色を持つ影が城を飲み込んでいく。
そもそもの異常事態よりも、さらに上を行く目の前の光景にジェシーは現状も飲み込めそうにもない。
「モルドレッド、あれは一体……何なんだ」
近づいていく牙への恐怖が理性に勝り、モルドレッドに助けを請う。モルドレッドはジェシーが指差した方角を眺めたあと、ふとため息をついたようにも見えたがすぐに首を振り真っ直ぐ前に向き直ると、彼はだいぶ憔悴した声で応答する。
「あれ、がどちらを指すかは知らないが。なんだ、上か、下か」
「城の上だ、あの、牙みたいなやつ」
「……【チャリスの牙】とこれから呼ばれるものだ」
「これからって、妙な言い方をするな」
「言葉のままの意味だ」
曖昧でどっちともつかないモルドレッドの言葉にジェシーは首をひねりながらも、突破するぞといわれたあたりで考えることをやめることにした。飛んでいる間に右腕に纏いつけた爪の接続を確認し、ベルトに下げたいくつかの毒の数を選定する。剣は持たないが毒はもつ、姑息ともいえよう武器の選別にジェシーは愚問を唱えることも、疑問を抱くこともない。
剣を持つほどの信念は、とうに溝のそこに捨て置いただけの話だ。
「一気に突っ込むぞ」
「事故だけは勘弁してくれ」
エンジンを切っての急降下が重力に引きずられ体感する風圧は重い、しかし今からしてみればたいした重みではないと一度濁った瞳は真っ直ぐ着地点を望む。冷静を気取っていられるような状況ではないはずなのに、不思議とジェシーの頭の中は凛とした冷たい空気で満たされている。
数秒にも満たない速度の中の世界で抵抗する騎士たちと反抗する腐敗者といくつかの魔物の姿を視認する、爪の矛先を静かに定め、秒針が傾くその一瞬何の合図もなくジェシーは魔法馬からその身を投げ出した。
「退、けぇえええええええ!」
騎士たちへ対して大きく声を張り上げて警告を落としながら、右腕に構えた六つの刃爪を腐敗者の一つに叩き落す。風の鳴る音が耳元を通り過ぎ、確かな手応えが右の手の平から伝う。腐った果実を握りつぶすような不快感に、音を立てて崩れ去る腐臭。頭に見事命中した爪の隙間にそのどろどろと崩壊を始めた血液が伝い、衣類を汚していく。
同時の瞬間、モルドレッドが魔法馬に乗ったまま複数の魔物と思しき奇塊をなぎ倒すのが視界の端に移り込む。うまいこと着地できたようで何よりだが、今はそれ以上に気にかけるべきは騎士たちのほうだろう。
「皆! まだ生きているか!」
「なんとか生きております! 現在東牢獄塔を拠点に進行中!」
頭数を目視確認するかぎりではまだ誰も欠けてはいないようだった。見張りを主に行う城の警備隊だが、確実に自分以上に立派な剣を携えた騎士だ。形式上だけの主が不在だったとしても動いてくれている、そのことは確信してはいたが実際目にするとなると安堵の感覚も異なってくる。
ジェシーは背後にそり立つ鉄の塔、本来ならば一時的に囚人を捕らえる役割を持っていたはずの建築物を見る。檻窓からは狙撃を主に使う騎士が援護に回っている姿を見ることができた。そもそもが牢獄のための塔、脱獄されないようにちょっとやそっとでは破壊されることはない、ならば背は意識せずともいいとジェシーは判断する。目の前だけを見続けるのは、ジェシーは昔から得意なのだ。
「警備隊は先攻班と後攻班に分かれてくれ! モルドレッドを立てて活路を拓く!」
前を突っ走るモルドレッドが「くたばれジェシー=コールマンー!」と叫んでいるが気にしない、警備隊に指示を飛ばし二つの班を前後に設置し警醒を覚まさせる。作戦はいたって単純、先攻隊が道を拓き、後攻隊が道を制圧する。組み立てられたいくつかの方式の中の一つで、一方通行な通路でのみ使う戦術ともいえないものだが現状単純が一番だ。複雑な戦術は時に首を絞める、奇策は自分が撃つものではない、自分以外の少数精鋭が穿つものだ。
上空に見えるチャリスの牙は王城のど真ん中、おそらく玉座の間を突き刺している。まだ時間はあるだろう、北の連絡塔を抑えることが出来れば連絡通路も使えるし小規模な譜面も隠されている。打つ手ならある、万策尽きるならばそれはそこまでだが相手はまだ殴ってくるだけだ。力で繰るなら力で制す、相手から仕掛けてきた以上容赦はしない。異説同盟の条約ではないが、先に手を出した相手が悪いのだ。
騎士たちの呼吸が整った。
「──狩りの時間だ」
右腕を霧雨の中で挙げ、宣言と共に幕切れを落とす。
鼓動を基盤に巡り始める熱が、短期戦の合図と化していた。




