浸食。
暗転する意識の最中、ジェシーは真っ暗な舞台に立つ異様な夢を見る。幾つかのスポットライトの下には空席の玉座や椅子が置かれ、その真ん中にぽつんと一人で立っている。深すぎる暗闇には翳す手さえ飲み込むようで、むしろスポットライトの照らす舞台以外には足場がないようにすら思えてきた。
どこにいこうにも踏み出せず呆然としていると、どこからか拍手が聞こえてきた。誰かがいるのかと方向を見やれば、それは確かにいた。
質素な椅子に座っては足を組み、若干踏ん反り返っているように見せては案外猫背のその男は、こちらの存在に気がついているのか猫のような笑顔を浮かべてはじっと観察しているようだった。しかしその人物にいたっては、ジェシーにはまったく見覚えがない。本当の意味での初対面なのだろうか、むしろばったり雑踏の中で出くわしてしまった赤の他人、というほうがしっくり来るのかもしれない。
「おめでとう」
猫のような笑みを崩さないままに、その男は言った。
何に対してのものなのか、そんなことよりもジェシーは彼に話しかけられたということにたいして尋常ではない嫌悪を抱いていた。逆立つ毛が精神すらも逆立てて櫛立てて、浮き出る糸が首筋をなぞっていく。異様、異質、なぜそんなにも彼のことを本能的に嫌悪したのかさえ理解しようともしない精神が、奴を殺せと猛り吼え──否、この濁声は自身のものではない、あってはならないはずだ。
背後から唸る獣の音が、そんな思考でさえも喰いちぎったような気がした。
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「──Gaア゛ァアアaaアアアアアアアaアアaaaaaaッ、!」
突槍の捕喰者ハルト=ラ・グールは、久しく焦燥に駆られる叫びを鼓膜に聞いた。
獣の咆哮よりも高らかに、竜の轟哮のように気高く。しかし人のそれではない声が、音が、切れ目に姿を見せていた満月に叫ぶ。聞き惚れるともより鼓膜を破く狼の喚呼が緊急事態とともに幕開けとすら予感させるそれに対し、突槍の捕喰者は加速する鼓動を押さえつけながらも現状把握しようと視界を巡らせる。
ジェシーと呼ばれているらしい少年が狼型腐敗者に噛まれてしまった、というところは確かに断言してもいいだろう。しかしそこからが問題なわけなのだが。声の主となってしまった彼は、その噛まれた右肩と右腕を腐敗者……狼の腕への変化を許してしまったようで現状我を失っているといっても過言ではないだろう。問答無用で殴りかかってきている彼になんとか応戦しているわけだが……と、淡々と説明してはいるが現状かなりまずいことにはかわりない。
「一体何がどうなって……!?」
「戦う気がないなら逃げろ! 邪魔だ!」
「でもボールス様を……ジェシー様を置いてはいけません!」
見た目以上に地位のある人間らしいジェシーに、弓兵は叫べど矢を向けることが出来ていない。駆けつけた騎士たちもどうしたらいいのか、状況もまるで飲み込めていないようだった。
何が起きているのか、突槍の捕喰者には暫定的ではあるが予測はついている。
感染、と言えばいいのか。
この大陸の腐敗者はどうにも自分の知るものとは違うらしく、噛み付いたものどもを同じ同胞に組み替えてしまう能力を持っているようだった。この情報があっているのなれば、彼は今最悪の状況に陥っているということになる。しかしどうにも最悪にしては何かがおかしいこともあることで、応戦により傷を負わせてしまっているのだが、その傷が知らずの間に修復されはじめているのだ。
「(人の皮を、生成した?)」
これはまるで、自分と同じじゃあないか!
加勢してくれた時点で普通とはかなり逸脱していることは察しついてはいたものの、まさかこちら側の素質を持っているとは考えてはいなかった。この大陸で狩ることを決めた時点から新人が飛んでくるなど選択肢から除外していたのだが、どうした壊歴の大陸、だいぶ不具合が出ているぞ大丈夫か。
今までにない思考加速度で回すのもお構いなしか、期待の狂人は全力をこめた右腕を振り上げる。その腕を覆う爪はすでに折れていたが、それでも攻撃の姿勢を崩さないあたり本気で暴走をしているのかもしれない。
「く、そがぁっ」
爪が着弾する直前に刀による剣風が腐敗者になりかけた少年を裂く。彼はすでに消耗していたのか、それとも感染による部分でいろいろと持っていかれていたのか彼の身体のバランスが崩れる。突槍の捕喰者は申し訳ないとは思うが得物を容赦なく振るい、彼の鳩尾に刃の背を食い込ませる。──入った。正直あまり聞きたくない音も聞こえたが、聞こえなかったことにしようと捕喰者は目をそらす。
少年はもはや立つ気力も殺ぎ殺されたのだろう、ぐったりとようやくその唸る獣の気配を断絶した。弓兵が真っ青な顔をしてこちらに駆け寄ってくるが、何が起こっていたかについては飲み込んでいるらしい「とにかく近くの宿屋に」と、今にも消え入りそうな声で言う。とりあえず生きろ、がんばれ、とだけ投げかけてから、ふと思い至る。
あ、これ巻き込まれたわ。
逃げ切れそうにないなぁと突槍の捕喰者は呆然と雨の上がった空を眺めるばかりであった。




