虹彩。
普段はどんなに意識して辿りつこうとしても辿りつくことが出来ない、王城の再奥にジェシーは通される。ここから先は一人でいかねばならないらしく、隠し扉に一歩踏み込んだ瞬間に全ての音という音が遮断される違和感を覚えた。隠し扉をよく見てみると、なにか扉に緻密な模様のようなものが描かれている。何か呪術的な力でもあるのだろうか、いやどちらかといえば神聖的なものの類か。出来れば後者であってほしいな、とジェシーは思いながらも、一人ランタン片手に薄暗い通路を進んでいく。
ランタンで照らして見える限り煤けた塗り壁で覆われた通路は湿気はない分、温度の低い路は嫌な予感よりも背徳感に狩られた。そんな冷え切った空気を吸い込んで、肺を冷やしながらも一つ、刷り硝子で出来ているらしい扉を目指す。かつりかつりと響き渡る足音が嫌にへばりつき、鼓膜に響かなかった分は静寂に吸い込まれて消化されていく、どうにしてもあまり長居はしたくない。
「ここ、だな」
仄かに光を放っているような気もしないでもない扉は、確かに言われたとおり刷り硝子で出来ているらしかった。触れてみるとひんやりと霜のように冷たく、あまり長く触れていると凍傷にでもなってしまいそうなほどだ。観察も程ほどに、ジェシーは扉を押してその隠されてきた部屋に入り込む。
──真っ青、というのが一番の印象になるだろうか。
透き通った硝子で覆われた、球体の内側にいるような継ぎ目のない壁。影を反射するわけでもなく地面の下を透過しているらしい床。その中央に鎮座する透明な水晶のような石の欠片が、細い鎖のようなもので天井(らしきものが全く見えないのだが)から吊るされている。荘厳と呼ぶべきだろうか、それとも得体の知れないものだと呼ぶべきか。どう称すべきか言葉を知らないジェシーだったが、確かに逸れは其処に在った。
「(気をつけろ、か)」
基盤譜面に一歩一歩着実に近づいていくにつれ、自分の中に息づく鼓動が大きくなっているような感覚に陥るのが、いっそまるで他人事のように感じてしまう。それほどにここは現実離れしすぎている。
「……どうせなるようにしか、ならない」
後ろ向きに肯定してくれる言葉を呪文のように一回だけ唱えて、基盤譜面に手を触れる。──接触に手順は要らない。どぐりと脈打つ鼓動が掌を通じて響き、その音はさらに強く、大きくなっていく。音が膨大に広がっていくその波に、飲み込まれていくような、水の中に落とされるような感覚が意識に漣を寄せては引いていく。
膨大な知識が直接頭の中に接続されるような傷みに飲み込まれないように、ほしいものだけを拾い集めては必要ないものを削ぎ落としていく作業が続く。在来にいたるまでの歴史なんて今は必要ない、此処から先の未来などもってのほかだ。宝石公爵からも言われているように、先読みなどしたところで意味もない。だからいらないと叩き付け、そうやって先代までの余計なお節介を踏み躙る。必要な物はそんなものではない、今ほしいのは腐敗者の情報とその他もろもろの技術だ。
ある程度の情報を引きずり出したところで、最深部への接触口が開いた。一応最深部にだけは触れておけと言われていた、気は進まないが突破するかと意識を傾ける。しかし、そんな風に意を決して基盤譜面の最深部へと触れようとしたその時。
ばつん──と意識の明かりが落とされた。
「っと、何だ?」
身体の中に引っ込んだ意識がくらくらと頭の中を揺らす。周囲の青白い光は今はぱったりと消えうせ、薄暗く寒い部屋だけがそこにある。妙な、金属を引っかいたような背筋の凍る音が微かに響いている。ひとまず緊急事態といったところか。この状態で基盤譜面にもぐり続けるのは危ないかも知れない、ジェシーは急ぎ足で王の間へと戻ることにした。
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しかしまたそこには、取り押さえられた少女とそれを押さえつけるフェイトの姿があるわけで。
丁度見回りの時間にだぶったのか、騎士たちの姿は見えない。今頃城外で大騒ぎになっているのかもしれないなとのんびり思いながら、ジェシーはまず、と目の前の状況を問うことにする。
「なにがあったんだ?」
「見ての通り侵入者だ、そっちは」
「部屋の灯りが落とされた」
「妨害調律だな。原因はこいつだろうよ」
手首から腕にかけてフェイトの魔術で拘束をかけられ、頭を床に押し付けられたままの少女を見やる。
白いような、金色のような、銀色のような、一定の色を持たない不思議な虹彩を放つ奇妙な髪の隙間から、恨めしげに見上げる眼がジェシーの視線を劈いた。それもまた妙な色をした瞳でなんと証すればいいのか分からない、強いていうなれば水に落とした油が反射したときに見えるあの何ともいえない色、だろうか。表現が薄汚いことにジェシーは自身の語彙力のなさを悔やむ。そんな風に言ってはならないと思うぐらいには、綺麗に思えた。
まぁ、どれだけ綺麗だったとしても思いっきり全力投球で殺意向けられているのは事実なのだが。
「放せ……! 放せと言っている!」
奇妙な色の少女が吠える。このままにしておいては妙な悪意を上げるばかりだろう、余計な蟠りは作りたくないし仮にも相手は女の子だ。あまり乱暴な真似はしたくない、だって目覚めが悪くなる。目覚めが悪いと疲れが溜まって活動効率も悪くなる、だったらやることはひとつだろう。
「フェイト」
「噛み付くかもしれないぞ」
「情報の駄賃と考えれば軽い」
「やれやれ」
一応と言わんばかりに腕だけを拘束魔術は残したまま、フェイトはその少女を立ち上がらせた。光の当たり具合が変わった所為なのか、またその瞳の色が変わった様に見える。今度は金色、いや小麦色だろうか。
どういう仕組みなのだろうという興味も程ほどに、その少女はジェシーよりも二、三歳年上のような印象を受ける。さらに衣服などはこの大陸ではまず見ないであろう、身体に密着した機動力の高そうなものである。材質はすくなくとも布ではない、恐らく革でもない。どうにしても【異邦人】のように見えるのは当然のことだろう。
冒険者かと疑ったがそれとも違う、冒険者ならばこんな風に安易に感情を剥き出しになんてしないし、逸れにましてあの冒険者の匂いともいえる空気のようなものが、この少女にはなかった。これは衣服の問題でもない、見た目の問題でもない、根本に何かが違う……言ってしまえば、自分たちとは一線違えた全く別の生き物のようにすら思えた。さて、どう声をかけたものか。考える前に声は動いていた。
「手荒でごめんな、ひとまず話をしたいんだけれど」
「うるさい! お前らなんかに話すことなど何一つない!」
「本当に何もないのか?」
「あったとしても話すものか……!」
あ、ダメだこれ。
どうしよう? とフェイトに目で聞くが、フェイトは肩を竦めるだけだ。とにかくこの少女はかなり熱が回っていての暴走状態にある、一旦落ち着かせたほうがいいのかもしれない。落ち着かせるにはどうしたらいいだろう、この場においての手段はなさそうに見える。一度どこかへ確保して時間を置くかと思った矢先、「何!?」とフェイトの驚く声が思考に歯止めを刺す。
少女が拘束を解いたのか、その自由になった手にナイフを握ったまま此方へ突っ込んできていた。
「その命貰い受ける!」
眼前にまで迫るナイフには明確な殺気が込められているようだった。
しかし、そのナイフも殺意も、ジェシーには届くことはない。
「……んな、」
「悪い、あげられる命もないんだ」
ジェシーの掌に、ナイフが食い刺さった。とっさの防御は相手にとっては随分と想定外だったらしく、少女は瞳を見開いては困惑の表情を浮かべていた。
掌から伝う血液と言う熱が、事実の証明と言わんばかりに垂れ下がる。やっている本人としてはかなり痛いが、それでも耐えきれる程度に収まっている。殺意も暴力も傷みですらも、今更響かない、もはや自分の体は部品と思っているのじゃあないか。それぐらい分かっているのだ、自分が真っ当ではなくなったことは。
「──まったく、」
少女がナイフを手放し倒れこむ、脇腹に数本針が刺さっているのを目視すると同時に誰がやったのかは見当が付いた。顔を上げれば視線の先に宝石公爵が立っている、そういえば貴方は暗器使いだったなとフェイトが舌打ちしたのが聞こえる。この二人、似ているからこそ相当仲が悪いらしい。
宝石公爵が微笑みながら此方に歩いてやってくる、怒られるだろうか。相変わらずこの人の笑顔は中身が読めないから恐ろしい。
「無茶をするな、キミも」
「ついうっかりだよ」
「だろうな。その娘はどうするつもりだ?」
倒れこんだ少女を見る。フェイトの拘束魔術を力ずくで破る力、そもそもこんな所まで侵入できた運の良さと技術。得体の知れない外見。不安を煽るばかりだが、同時に殺して終わらせるには惜しい。
「……客室に迎える、情報全部吐き出させたら」
「殺すか?」
「まさか、土産持たせて家に帰すよ」
やれ思わぬところで調律が中断されたが、必要最低限は頭の中に焼き付けた。深入りしすぎなくて正解だったと思っておくことにしよう。
悪魔め、と宝石公爵とフェイトがため息をついたのは、一応見なかったことにしておくか。