自陣。
舞い上がる噴煙は夜の闇に溶けていく。響く剣戟に濁った咆哮と時々悲鳴、風に乗ってこちらにまで届く血の匂いに対し、セージュは慌てて外套を着なおしては呼吸器官の守りを固めなおした。それでも貫通しては喉を貫通する生々しさを突き詰めた生き物の臭いは、どうやっても不快にしか思えない。
小雨があがったことによって地表からむせあがる熱気に、思わず顔をしかめては覗き込んでいた望遠鏡から振り払うように視界を空へと逃がした。
「さすが専門職、やること派手だなぁ」
前略、『セージュ=アーベルジュ』は宿屋の騒動を遠くの屋根の上から望遠鏡で観察している。夜に差し掛かる時間帯だからこそ人の視線は地面に行きやすい、案外というべきか実際人の目に触れることもなくセージュはらしくない潜伏に興じていた。
いままでがいままでだったからこそ、今更にもほどがあるが今の状態がセージュにとっては一番楽な状態だった。抱えた得物からしても潜伏向きなのは、確かに明らかではあったのだが状況がそれを許してはくれなかった。
それでも、表舞台に引きずり出してくれたあの状況が今は尋常じゃないほどに焦がれているわけなのだが。
「お前にもそれぐらいの思い切りがあればよかったんだが、な」
かつりかつりと瓦を踏む音が背後に立つ。その気配にセージュは敢えて振り向こうとは思わない。しかしそんな様子に──猫系の亜人、『マーフィ』がやれやれと大げさにため息をついたようだった。以前身につけていた義足を替えたおかげで、ガチャガチャと大きな音は出なくなったものの相変わらずの金属がぶつかる音と、本人の人格はかわる様子もみせやしない。かなりのことは経験したはずなのだけれど、ぶれないあたりやっぱりマーフィは大人なのだろう。
それは至極最高にむかつく理由にもなるのだが、今は口に出さないことにした。
「様子はどうだ」
「今リーダー格の首が飛んだ」
「……首、飛ばせるものなのか」
「風穴増やすよ」
「勘弁してくれ」
とにかく、この奇怪で奇妙な状況はセージュからしてみてもまた「どうしてこうなった」としかいいようがないのだけれど。
灰色の街の舞台裏を統べてきたマーフィと、ただの田舎島出身の少年セージュの不可思議な共同戦線は相当妙な運命の絡み合いによって誕生したといっても過言ではないだろう。猫の亜人とセージュ、この二人に共通するのはある一つの敵に対する敵対感情のみだった。
以前の敵であったフェイトはむしろ今でこそ味方、そこからすこしだけ離れた全く別の敵。固定名もなく漂い続けては災厄を招くそれにたいして、打倒であり妥当の舞台に二人は押し上げられていたといったほうがいいのかもしれない。
そういう話で、まぁ色々あったわけでして、結論的にセージュはこの大陸にやってくる理由となった少女の隣にいることが出来なくなった。出来なくなってしまった。随分と遠い場所まで来てしまった、だがそれは現在進行形の話であって今からはもっとさらに遠くの場所へ行かねばならないのが、セージュとしては相当胸の痛む話だ。
吹き上がった煙がとけきったことで視界が綺麗になったと踏んで、セージュはもう一度望遠鏡を覗き込んでは状況を確認する。
望遠鏡の先ではすべての腐敗者をなぎ倒しては弾丸の補給を行う鋸鉈の捕喰者と、その隣にぐったりと座るバン王の姿がある。宿屋の窓を映してみれば窓の隙間からちらりと様子を伺う二人の少女の姿があった。
「なぁ、本当にあれが原因なのか」
セージュは思わずマーフィに問う。なんやかんやで冒険者と同じような仕事を前提行動でしなければならないという理由で、現在セージュとマーフィはある任務についている。
とはいっても一つの行動をこなすたびに新たな任務が更新されていくタイプの、先の見えない長期型任務だ。最終目標は今のところ不明。だが現在目標はとりあえず分かっている。──『原因』を殺せ。いうだけなら簡単な話だけれどすこし前まで一般人だったセージュには、かなり重い。こんな任務普通なら受けやしないのだが、今の旅の目的に近づくためにも仕方のない状況なのが足場を切り崩している。どうやったとしても逃げ切れない話は正直苦手だ。
「これから確かめる必要があるな」
そんな感情など持ち合わせていないといわんばかりにマーフィは淡々と視線を飛ばす。しかしこれでも行動は丸くなったほうだろうと心の中だけで感じることにした、きっと以前までならば容赦なしにすべての首を獲っていただろう、今は原因だけを見定める体勢になっているあたりまだ温情だ。後ろから大鎌突きつけてきたあの頃とは確かに違う。もういっそ、彼に全部押し付けたいぐらいなのだけど。そうもいかないのがこの大陸の常らしい。
ぽつりぽつりと、また雨が降り出した。
「戻るとしよう」
「宿まだ開いてるかな」
「最悪窓から入ればいい」
「なんだか犯罪者みたいだなぁ……」
「部屋は既に借りているんだ、入室方法の差異など些細な問題だ」
そういう問題じゃないよね。この認識のズレには大体なれたつもりだったけれど、経緯が違う過ぎるおかげでやっぱりまだすぐに飲み込むことなんて難しい。
一々突っかかっていては時間を無駄にするだけだ、セージュはやれやれと立ち上がっては屋根から飛び降りる。フリーランの技術があったおかげでこういう街並みを飛ぶことに関しては抵抗はない。むしろ都合がよくて楽でいいぐらいで、そういった趣味でさえ利用せざるおえなかったりするあたり、全てが都合がよすぎて気持ち悪いぐらいなのだけれど。
小雨が肌に打ち付ける、べたべたする雨なんて好きな要素すらないからこそ風が吹けば体温も奪われる。最悪な気候、じめっぽい街。島にいた頃から考えれば到底考えられない環境でかなり憂鬱にしかならない。マーフィが遅れて降りたのを確認するとさっさと宿屋に向かって歩き出す。この程度の雨ならばフードも被る必要はないだろうし、最悪あとでシャワーを借りればいい。
都会は便利だけれどすこしその辺が雑になってしまうのが、どうなのかなぁなんて田舎者らしく考えて見るけれど。結局便利なものは便利でしかないわけで。
雨の臭いが腐臭に変わったような気がして、すこし複雑だ。
ただ、そこで普通に宿屋に帰ることが出来ていればきっともう少し自体は簡単だったのだろうけど。
「……」
「セージュ、荷物は最低限のほうが動きやすいぞ」
「いや、分かってるけど」
裏路地に蹲る少年が視界に入った。それがスラムだったならばすぐに目を逸らしたのかも知れない、けれどそれはあまりにも異様だった。
か細い呼吸はまだしも、放り出されたように力なく垂らした右腕が異形のそれでしかない、まるで右腕の中に内包されているはずの骨が変質して、無理やり肉を突き破って露出しているようなおぞましい状態で。大怪我というよりも必然的にそうなってしまったような、妙な納得感がさらに意識を引っ掛ける。雨に打たれて流される血液が、視界を焼き付けてしかたがない。
「……ごめんやっぱり無理」
迷って、でも即決に近い状態で。
セージュは、少年に手を差し伸べた。