演者。
ホテルの内部は想像以上に荒れ果てていたが、少なくとも最低限の環境は保たれているようでまたちらほらとまともな形をした人たちが出入りしている様子がうかがえる。やっぱりといえばそうなのか、ホテルとしての経営は既に破綻しており、比較的常人としての生活を求める人間が此処を住処にしているそうだ。既にいろんな意味でつっこみが耐えない状況下なのだが、ここはそういった環境下であることが前提として回っているらしい。なんとも凄まじいが、あのスラム生活を思い出せばまだましだとすら思えてくる。こんなところでド底辺の根性だしてもどうなんだろうとは同時に思うが。
「エレベーターには乗るなよ、老朽化がひどい」
「それは危険だな」
「あぁ、危険なんだ。自殺志願者にとっては絶好スポットらしいぜ」
「臭い大丈夫かそれ」
「3日で慣れるんじゃないか」
「慣れてたまるか」
そりゃそーだとローディが314号室の扉を開けると、ふんわりと焼いた馬鈴薯の匂いが漂ってくる。
足をくじいているので有無も言わせずにソファーに座らされたアーサーが不思議に思いながら部屋を眺めると、この部屋は結構広いことにまず気がついた。大きなテーブル、四人掛けのソファー、奥にはベッドが四つ、家族向けの部屋らしい。ホテルの内装に手を加えているわけでもなく、必要最低限の物だけが部屋の隅に寄せられている。定住しているというわけではなさそうだ。
そして備え付けのキッチンの前に、頭に包帯を巻いた背の低い少年が立っていた。少年はすぐさまこちらに気がついたのか、振り返って小首をかしげた。
「お客さん?」
「客っつか拾い物」
「人を拾ってくるのは初めて見たよ」
「なんなら猫のほうがよかったか?」
「オレをくしゃみで殺す気か」
おそらく少年がローディの言う仲間のようだが、それ以上に気になることがある。
この少年、どこかで見たことがある。比較的最近、とくに街で。その背丈といい、髪の色といい、雰囲気といい。随分と似ている存在を知っている気がする。さて誰だったかな? 腐り落ちてはないと過信する脳にしまいこまれた記憶をひっくり返しながら、思い出の棚という棚を引き出して思い出そうとかりかり追憶を廻す。
「……ラタキアか?」
記憶の節に引っかかりを見せた憂い顔をする少年の名が、ふと喉を掠めて宙へ飛び出していった。
自身の声帯が名を出したことで記憶はようやく思い出す。そうだ、ラタキアだ。あの苦い思いをした灰色の街で出会った、自身の兄を撃ったと語った冒険者によく似ている。どこがといえば全体的な話だ、取り巻く雰囲気は若干の差はあるが同列の空気を見せ、髪の色と質はまさに同じと呼べるそれ、背丈は曖昧だが自身を尺としてみた場合かなり近い。
ラタキアを呼ばれた少年は驚いた顔をしたが、どこか懐かしそうに顔を綻ばせると「まさか弟の知り合いにここで会うとは思ってなかったよ」と語る。
「弟? それじゃあキミは」
「オレはアステル、ラタキアの双子の兄さ」
ひどい偶然もあるものだ。
まさか旅先でラタキアの縁者に会うとは思っておらず、自信の運に感心する。そうかそういうこともあるのかと。しかしそうとなると、アステルの頭に巻かれたその痛々しい包帯は、実の弟の手によるものが原因なのだろうか。事情に踏み入ってはならないとは分かっているのだが、断片的に知っていると逆に勘ぐってしまう。そんな風に考え込んだり思考を勘ぐりまわしていると、此方のことはまったく気にせずにローディとアステルはざっくらばんとした会話を繰り広げ始めていた。
「まあラタの知り合いだっていうんなら信用できる、知ってたら「演者」じゃないもんな」
「俺のカンも捨てたもんじゃないだろ」
「今回だけは褒めてつかわす」
「上から目線かよ!」
演者という明らかに本来の意味で扱われていないであろう単語に疑問府を浮かべながら賑やかな会話を聞いていると、唐突にオルゴールを逆巻きしたような金属音が鼓膜を揺らす。音が聞こえた方向を向けばそこは明らかに外なのだが、外にこんな妙な音を、しかも大音響で響かせる物体や施設なんてあっただろうか。妙な胸騒ぎを飲み干しながらなんだなんだと窓の外を見やる。
表現もへったくれもなく、空が割れた。
言葉のあやだとかそういう生易しいものではなく、まるで今まで空をおおっていた景色が画像か何かだったかのように、ひび割れた。しかも割れた先の空は全く不可思議な紫水晶の色彩を見せている。あまりの光景に言葉を失いかけていると、ローディが「やっとかー」とため息をつく。
「あれはなんだ!?」
「夜が来たんだよ。まーそこら今から説明すっから、落ち着こうな」
ご飯食べながらでいいよね、と付け足したラタキアの言葉と二人の落ち着きっぷりに、アーサーはひとまず黙ることしかできなかった。
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空が割れたことに関する衝撃やななんやらを飲み込んで、一通りの空間に対する説明を聞く。その間についでという感じでくじいた足に凍り袋でも当てながら。
まず前提として、この空間は隔離領域と称される「特異的な世界」であること。独自の法則に基づいて廻っていく、いわば人形劇の舞台のような世界だそうだ。その法則自体はまだローディたちも理解しきっていないらしく、とにかく突飛でもない事柄が平然と起こる常識の通じない世界のようだ。
そしてそれを肯定するように、先ほど割れた空の話題が飛び出してくる。
現在は夜と呼称される時間帯であり、この空間に存在する人間たちはこの時間帯のみ通常の全うな活動ができるという。なぜ昼ではないのかといわれれば、昼間は雪と化け物と心的外傷を抉る事象が闊歩する街に豹変するからとてもじゃないが出歩けない、というのが大きな理由だ。完全な昼夜逆転の街というわけなのだが、この街の住人の多くは精神が不安定又は何かしらの問題がある連中ばかりであり、とにかく一貫性がない。
ローディやアステルは街の目が死んでいる連中をあっさりと「ろくでなし」と呼称しているのだが、それ自分たちにブーメランしてないかとは言えるわけもなく。
ただ、此処で厄介なのが街にいる人種だ。
「ろくでなしにも種類があるみたいでな。俺らみたいなただ巻き込まれただけの連中と、何かの法則性に沿って動いている連中がいる」
何らかの事故や事象、偶然でこの空間に放り込まれてしまった人々とは別の存在。後者に当たる者たちは「基本的に何を言っても言葉を返さず」「何の行動をとっても幻影のようにすり抜けてしまう」。まるでそこに立ち尽くし未練を訴え続ける幽霊のようだと思うが、その行動には人間らしいパターンがあるらしく、さらには運が良ければ辛うじての会話もできる。だがそれだけで、結局深いことは何もいえないし出来ない。
まるで何かの舞台を演じるために台本を読み続けている存在。舞台の主役が不在でも舞台を廻し続けているように思えてくる奇妙な者たち。
「俺たちはあれを暫定的に「演者」と呼んでいる」
先ほど聞こえた演者の意味はこれだろうと確信する。
演者自体に害はないようだが、今まで害のある演者がいなかっただけで、もしかしたら此方を殺しに来る縁者がいるかもしれないから警戒は怠るなという話だ。
二人がある程度教えてくれたお陰で自分のいる状況がある程度だが掴めた気がする。とにかく此処の世界はおかしな世界であり、何かの法則にのっとって動いている。その何かが分からない上、結局自分がしなければいけないことはさっぱり分かっていないんだが。そこらは自分で探すべきなのだろう。
一気に話して疲れたのか、ローディはため息をつきながらさらに問いを重ねてくる。
「で、お前のことなんだが。アーサー、お前ここに来てから妙な空間に入り込まなかったか?」
思い出したくないほどには妙な空間には心当たりがある。レイスがアンダーワールドと称した鉄と汚臭に満ちた空間、嫌に吐き気を逆撫でさせる雰囲気に首を締め上げてくる残響、心臓を握り締めてくるような圧迫。
アーサーは「できれば二度と入りたくない世界には行った」と比較的素直に伝えると、ローディは「そうか」とまたあっさり返した。
すると先ほどから何か考え込んでいたアステルが、思い出したように割り込んでくる。まるで流れを切り替えるように、そのタイミングの良さには変な気持ち悪さがある。
「アーサーはこっからどうするつもりなんだ」
現状はわかったことを繋ぎ合わせたとしても、当初の目的はとくにぶれるようでもなくアーサーは「頃合いを見て港にいくつもりだ、待ってる人がいるらしい」と語る。その言葉を聞き何を思ったのか、アステルは「じゃあ港に行く前に教会に行くことをおすすめするよ」と寄り道することを推奨してくる。何故と問う前にアステルは零す。
「多分、まだ会えないだろうし」
確信めいた言葉に動揺しつつも「どういうことだ?」と問うと、「ただの勘」だとばっさり切り捨てられてしまった。会話の流れを打ち切られどうしようかと悩んでいると、ふいにアステルが此方を見る。
「何すりゃいいのか分かってないんだろ」
打ち抜くような言葉に、一瞬思考と言葉が凍りつく。的を射られるような感覚に陥るアーサーのことなど気にもせず、「迷ってるなら教会に駆け込めばいい、あそこは迷子を導くのが仕事だから」とアステルは続けた。
教会にはあまりいい思い出がないのだが、たしかに教会になら人がいるかもしれない。何か聞けることもあるだろうし。今は本当になりふりか待ってられない状態だ、少々精神に障るが行ってみるべきなのかもしれない。
港で待っている人物のことはあるが、正直、今のまま行ったとしても何も起こらないような気がするのだ。何も起こらないのが一番いいのは分かっているのだが、それでは間違っている気がしてならない。何かを、思い出さねばならない感覚が纏わり付いて離れない。
やっぱりこの街に来てから自分は何か変だ、アーサーは切に感じる。
「──まぁ、本当に知りたいことは教えてくれないけど」
しかし最後の一言だけは本当に恨めしそうに言うのだ。この少年は。