決壊。
漠然とした生きることへの執着が、今では確固たる執念の塊に変化している。あぁそうだ、気がつけばその音は聞こえていた。大鎌の刃が首へ達する寸前、アーサーは思い出す。あの絶壁から叩き落された最悪の夕暮れ、あの日手にした「手段」の事を。その手段は、今、手の内にある。思い出せば行動に移すのは速かった。
「……ね、ない」
ぼそり、吐き捨てるようにこぼれだした言葉の受け皿は真っ赤に染まっている。死神の刃の進行が、そこで歩みを止めるのを確かにアーサーは聞いた。
その後に続いた驚愕の声をかき消すように、懐を重くしていたそれをアーサーは死に物狂いで掴み取り、至近距離まで迫っていたマーフィへと標的を差し向ける。刺された腹部を押さえたことによって自身の血液で真っ赤に染まった右手が、鋼鉄の銃把を確かに握り締め。その真っ赤に染まりつつある指先は、今確かに銃爪に掛かっていた。
「──まだ、死ねないッ!」
ありったけの、ほんの残りかすしか残されていなかった力を総動員して銃爪を弾いた。
突き刺さるような反動にその手段を手放しかけながらも、その弾かれた鉛は確かに撃ち出され空気を切り裂きながら跳ぶ。一秒遅くすら感じられた破裂音は静寂を食い破るに充分の声量をたたき出し、宙に大きく真っ赤な花が咲く。そして花は数秒も持たずに枯れ落ち、無様な汚物染みた花びらは必然のようにアーサーへ降り注いだ。雨は一瞬で降りやみ、その雨にぬれることになったアーサーは衝動的に起こした自身の行動を、その瞬間に後悔していた。後悔をしていいほど身分がいいわけではない、だが、アーサーを見つめるその人を殺せる憎悪に似たぎらつきが、自身が行ったことへの証明のように思えて仕方がなかった。
「撃った、な」
急所を撃ち抜かれたマーフィはただそう言い残すと、闇に溶けるように姿を消してしまった。するとこの瞬間を待っていたかのように、ぽつりと小さな雫か落ちてくる。雨だ。本当の、雲から生成される濁った雨がバケツをひっくり返したように降り始めた。激しく打ち付ける滝のような雨、土砂降り、雨粒の一つ一つが重く、当たれば痛みを発するほどに。ただその勢いあってのことなのか、濁りきった雨は地面に放たれた花びらを洗い流していき、まるで何事もなかったように袋小路の井戸はしんとした静寂に包まれた。
「……、」
息が上がりきったアーサーは刺された痛みのせいで立ち上がることすらままならず、呆然と座り込む。
凌ぎきった。
本来はそこで喜ぶべきなのかもしれない。だがどうしてもそんな気分にはなれるはずもなかった。人を、撃った。なぜか斬るよりも重く感じられるいとも簡単に成立してしまった損傷行為は、アーサーの精神の隅に大きな穴を開けていた。風穴。すでに一度頭に風穴を開けられているのだが、そんなことよりももっと大きな、通り抜ける風全てが痛みに変わるような荒々しい穴が開いていた。もっともこの原因は全て自分にあるのだが。そんなこともう分かっている。
超えてはいけない一線を、超えてしまった。そんな気分だ。
どす黒いなにかが穴から溢れていくような感覚に溺れそうになる、雨の音に飲み込まれるように思考は緩やかに墜ちていく。この雨でも今流れ出すどす黒い何かは流し拭えないような気がしてならなくて、大きくて冷たい鉄の塊が喉を通り過ぎるように息が詰まる。ただ、いまだ手の中にある拳銃が鈍く温度を伝えていて、その重みからアーサーはこの意味をようやく本当の意味で理解する。
そうだ。これはそういうことだ。
剣は、損傷行動を成立させることもできる武器ではあるがそれと同時に誓いの柱になったり、守りとしても扱える。そういった意味では剣は正義を体現した特別な道具なのかもしれない。だが、アーサーが今手にしているこれは、明らかにそういった意味を持つことすらないのだ。
銃はただ撃つだけだ。撃って、当たり所が悪ければ死ぬ。当たっても当然のように怪我をする。さらに弾丸は鉛だ、体内に残ってしまえばさらに悪影響が出る。なのにそれを使うにはこの引き金を弾くだけ。そうだ、これは守るための道具ではない、勝つための道具でもない。ただ、殺すだけの道具なのだ。そこに何の感情を乗せてもただそこには風穴が開くだけ、結果は変わらない。調整なんてそもそも出来やしない。不条理な言い分に怒りを覚え我武者羅に手に取ったのは、それは自分の思っていた道を真っ向から否定する道具でしかなくて、結局何も分かっていないのは変わっていなかったのだ。
考えるだけ考え付いてどっと疲れたのか、腕も頭も精神が切断されたように動かなくなる。
「……結構痛い、なぁ」
打ち付ける雨によって降りかかった花は溶かされていく、消えていく。ただただ自身の傷口から流れ出る血液が溢れていくばかりで、自身の命が削られる代わりに証拠を消すような、そんな奇妙な感覚さえ覚えた。
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駆けつけた冒険者たちに保護され、アーサーは宝石公爵の隠れ家まで運ばれた。井戸の中はかなり綺麗な状態でいっそ幻想的だったのでそのことを移動中に口にしたら、「やばい早く治療しないと」と逆に不安にさせてしまった。今思えば、アーサーは血液を大量に失ったことで若干ハイになっていたのだろう。
そんなこんなで宝石公爵の隠れ家で治療を受け、アーサーは行動不能と張り紙を張られてしまいベッドの上に拘束されてしまっていた。
出来ればちゃんと最後まで仕事を手伝いたい、というか半分以上一連の行動はアーサーの意思から始まったようなもので巻き込んでいったのはアーサー自身だ。だから責任は負うといいたいのだが、フラットやアンナに「無茶しまくるやつの隣の胃の調子を考えろ」「けが人は寝るのが仕事」「つかてめぇあと何回死にたいの? ねぇ? ばかなの?」と散々説教されてしまい、仕方なく大人しくすることになってしまった。
刺された傷はルダさんの治癒魔法のお陰で塞がったのだが、やはり完治するまでは二日は掛かるらしくそれまでは本当に何も出来ないのが現状だ。
「ねぇ、アーサーさん」
流石の子供も手出しはさせてもらえないらしく、暇を持て余していたラタキアがぼんやりと話しかけてきた。ラタキアは返事も聞かずに「暇だし話聞いてよ」とぐったりとしながら続ける。別にいいよといったら、欠伸をしながらラタキアは話しをはじめた。本当に暇だったらしい。いや、実際アーサーもかなり暇だったのだが。
「僕ね、兄さんを撃ったことがあるんだ」
拳銃で頭をばーんと。
開口一番とんでもない話が飛んできた。思わず聞き返してしまうぐらいには平常の思考を保てているアーサーだが、いやいや待って待って何話してるの。撃ったって、何。ていうかお兄さんいたんだ。困惑しているアーサーを差し置いてラタキアは続ける、それは本当に事故だったということも。それでも撃ったのは自分の意思でしかなくて、後悔はしてないということも。どうして後悔してないんだと聞けば、だって後悔しても仕方がないんだもの。と消極的な答えが返ってくる。
「それだから聞きたいことがあるんだ」
ラタキアは特になんでもないように、また欠伸をする。
「アーサーさんは、後悔してる? 撃ったこと」
アーサーはその質問にはすこしだけ考え、だがその考えを振り払い苦笑した。苦笑しながら話すような話題でもないのに、どうしてかそうしてしまった。いつからか感じ始めていたズレが意識するように大きく露呈し始めたように、まるで最初からそうであったように。
「後悔してるよ。『ちゃんと』」
言葉を見失ったように、ラタキアはただ「そうなんだ」と視線を泳がせながら欠伸を噛み殺す。
雨は、まだ止む気配を見せてはいなかった。