白夜。
半強制的に再接続された意識に、フラットは一瞬ではあったがくらりとよろめきそうになってしまった。
がくりと落とした足場は狭く、かなり急な角度でわたわたと体勢を直すのにかなり精神を使ってしまう。冷や汗をかきながら周囲を見渡せば、海岸? いや海岸付近にある高台の階段らしい、しかしどうしてこんなところに? フラットは急な場面転換に頭がついていかない。
思い出せ思い出せ穿り返せ、最後の記憶はどこだった。アンナとお茶をした喫茶店から外へ出たあたりだ、あれからどれくらいの時間がたったというんだ。いやいやその前に、どうして記憶が跳んだ? 白昼夢? そんなことある訳がないだろう。混乱に絡まる動揺に熱暴走へ脳回路が焼かれて爛れていく。無意識に視界を回した世界に、ある一点だけは逃さずにそこに留まっていた。
「あ、アーサー」
「…………、あぁ、『やっと』合流できたな。フラット」
潮風に髪を揺らしながら振り返った少年の瞳が、どこか赤く腫れている。どうしたことだ? 何があった? フラットには何も分からない。少なくとも喫茶店をでて、何らかの経緯があってここにいるのだろうが、その経緯がさっぱり分からない以上状況もまったく理解が追いつかないのだ。アーサーは笑っていた、へばりついた笑みで笑っていた。夕刻に差し掛かるのか、その暗がり染みた日差しが薄っすらと影を作っていく。
──あぁそうか。
あの時出会った『目』と同じだということに、フラットは気が付いた。あの日、まるで必然のように見つけた遺体を回収したのはフラットだった。そして再構築された彼の目は、今確かに見据えている物とほぼ同一であった。狂気染みた自信、妄信するように結合した思考を巡らせる、あの目。フラットがバン王として国の未来を賭けた目。しかしそれが同一であったとはいえ、やはり状況が違えば印象も違うのだろうか。いや、印象が違うという理由ではないのかも知れない。確証はないが。
アーサーがくるりと身を翻し、淡々と階段を降りていく。その足取りはどこか軽い。
「俺さ、死んだんだ」
浮ついた、無理やりトーンを引きずり上げた声にフラットは急ブレーキを踏み込んだ。こいつ今なんていった。フラットの急停止にアーサーは気にも留めず、どんどん先へ先へと進んでいってしまう。
「冬だったかな、飢えて、飢えて仕方がなくて、」
ゴミですらあの頃は食糧だった。アーサーは感情を乗せることなく昔話を続けていく。
「生きることが辛かった」
「でも俺は馬鹿でさ、死ぬ方法すら思いつかなかった」
「頭がどうにかなってたんだと思う、そりゃあもう大昔に」
「こうするしかないって、苦しいだけなのに生きることにしがみついてた」
風が、背を薙いでいく。まるで背筋を凍らせるように冷ややかな、季節はずれの凍えた風で。
「でもな、ある日気が付いたんだ」
楽しげに語る昔話に、フラットは自身に限界を感じ始めていた。許されるならば耳を塞いでしまいたい、それほどの悪意のない言葉は標的を間違えているようにあっさりと飛んでいく。
「冬の海ってのは人を殺せるんだよなってさ」
彼は何を話しているのだろう、何を話しているつもりなのだろう。冗談にしては黒々しい、生々しい。笑い飛ばせる話にしては程遠い。冬の海、人を殺せる? 誰にでも分かる話を平然に進めていく彼の目には、恐らく今のフラットの姿は映っていないのだろう。楽しげに、ひたすらに懐かしむように、その中に真意はないように思えた。まるで自分を落ち着けるようにただひたすら話を続けているようにしか、そういう風にしか聞こえない。
にしても話の内容は凶悪すぎるのだが。だんだんとフラットは理解が追いついてくる。今までずっとアーサーという人物は一般人だと思っていたことを此処に表記する、それ故にフラットはそういう風に接してきたつもりだった。だからある意味では気を使ってはいなかったのだ。だが、違ったのだろう。彼は本当にスラムの、いっそ鼠と呼ばれ罵られているようなところからやってきたのだろう。ここまでやってきてようやく知ることができたのは、幸運と言うよりかは不運だった。
そうでなければ、此処までうろたえることもなかったろうに。
「案外、海の中って温かいんだよなぁ」
まるで呼吸を殺ぐように、彼は一呼吸置いて続きを話し続けていた。
もうフラットは声すら聞いていなかった。階段を降りていくアーサーが、光のあたり具合のせいなのかさらに深みへ落ちていくような、そんな風にフラットは見えていた。アーサーは、そういう類の人ではないとフラットは思っていたのだが、いや傾向はあったとしてもきっかけがそもそも見当が付かない。
たん、たん。足音が潮風に混じって響いていく。暗がりへ降りていく、墜ちていく。自分の意思か? 本当に? 待って待って、お前そっちの住人じゃあないだろう。確かにお前は王だろうけれど、いや王なら必然的にそっち側だろうけれど、お前はせめてそっちへは行くな。そっちのことを考えるのは俺だけで十分だ。そっちにいるのは俺だけでいいんだ、行くな、往くな、落ちては駄目だ。
揺れる鼓動に突き動かされて、フラットはアーサーの腕を掴む。
「何するつもりなんすか」
崩れるような声にフラットは自分自身でも驚いてしまった、そうか、自分はいまそんなにも動揺していたのか。アーサーは一向に振り返る様子を見せず、また演技掛かった声で答えるのだ。
「やってみたいことがある」
何を?
「手を貸してくれ」
一体、何に? 思考をおいていきながら、アーサーは振り返る。思考はすでに硬直してしまってどうしようもないのだが、いっそ加速しすぎて壊れてしまったのかも知れない。しかし今においてはそれが好都合だったようで、フラットは半分以上流されるように笑顔を取り繕り、やれやれといった風にため息をつく。思考を離れて行われる行動に軽く恐怖を覚えつつも、フラットはいつもの笑顔でこう答えるのだ。
水面下でひたすら彼の無事を祈りながら、せめて転落はするなよと冷や汗を滝のように落としながら。冷たい空気を吸って頭を冷やしていく。
「今更な話っすね、アーサー王」
剣にかけて誓った身、断る選択肢というものは最初から存在しない。マーリンが何を仕組んだのかは分からないが、フラットは自分の意思でどうにかこうにか彼を手助けするだけしかない。今は彼の考えていることがまったくもって読めないが、実際問題、完璧に読める小説とは違う。読み違えていて上等、ぶち抜けていたなら幸運。その程度の話にしておけばいい。思考回路にセーブをかけて前に進む、潮風は確かに冷たくなっていく。
それと同時に街に着実に明かりがともされていく、灰色の街に夜が来た。フラットにとっての何回目の夜になるのかはもはや覚えていないのだが、あとでちゃんと日付を見て考え直せばいい。大丈夫だ、手立てはある。情報もある。一度アーサーには全てを話すべきなのだろう、この街に関わるであろう全ての話を。まだ砂糖の話も、飴玉の話もしていないはずだ、この街で行動を起こす気なのだろうし全て教えよう。本当はただ通り過ぎるつもりだったのだけれど、こうなってしまったらアーサーはきっとてこでも動かないはずだ。
カリバーンとやらには申し訳ないが、ここは一つ頑張ってみようじゃないか。フラット=バン・ベンウィック。
手放した腕がせめて人間に向かないように、やってみせよう。やってやろうじゃあないか。なぁ、アーサー。
遅すぎた幕開けに、踏み込んでいく覚悟を決めよう。