掃溜。
ここで一つ話をしよう。スラム街というのは、街や国によってかなり環境の落差がある。
例えばベンウィックのスラム街とこの灰色の街のスラム街、同じスラム街だがベンウィックのはあれはほぼ住居区といってもいい、比較的に貧困階級の者達が住んでいるというだけであって、少なくとも掃き溜めのような環境ではなかった。
さて問題のこの街、グレイスタウンのスラム街はというと。
──……物凄く懐かしいな、この劣悪さとか。
正真正銘の掃き溜めだった。どれぐらいかといえば、アーサーがかつて住んでいた最悪の環境と同等なほどに。まだ外は日中だというのに薄暗く肌寒い、さらには風通しも悪く汚水の匂いが行き場のないクラゲの様に漂っている。ぬるぬると滑りやすいレンガの地面を踏みつけながらアーサーは走る、とにかくあの少年を捕まえなければ。幸い、下水道という環境下な為足音などがかなり響きやすく、少年が駆ける音を聞き逃すことはない。
脂臭いランプが薄暗い道と影を照らす最中、いくつかの肉塊を横目にみるが、そういう場所なんだなと勝手に納得してさっさと銀髪の彼を視界にいれる。
少年はすこし走り疲れているようだ、アーサーはここで追いつこうと速度を上げ、そのままの勢いで飛び、蹴り飛ばす。
「うぎゃあっ、」
「やっと、つか、まえっ、たァ!」
蛙がつぶれたような声をあげ、銀髪のスリはばたんと倒れこむ。そしてその上に乗っかる形になったアーサーは、ようやく銀髪の少年の状態に気がついた。
服装はぼろぼろだが教会に所属するものに配られる十字架の入った黒いコートだったのにも驚いたが、それ以上に少年は随分とやせこけていた。普通に考えて、歩くので手一杯だろうというレベルでだ。そんな様子に驚いていた矢先、ぐぅ、と何かが呻くような音が聞こえる。
どこからといえば、少年の腹部から。
「……あんた腹減ってるのか」
「だ、だったら……なんだよ……。つか、退けっ、重いっ」
「いや今退いたらあんた逃げるだろ、とにかくスったもん返せ」
「分かったっ、返すっ、返すから退け!」
言質を取ったアーサーはすぐに立ち上がり、少年に手を差し伸べる。しかし「自分で立てる」と少年はいい、手は叩き落とされてしまった。ふらふらと立ち上がるスリの少年は立ち上がった時点で既に倒れそうなほどに血色も悪く、とてもじゃないが見てられない状態だった。
「まってろ、今……、」
少年はポケットから銀時計を出そうとしたのだろう、だが出そうとした瞬間にくらりと少年は身体のバランスを崩して倒れてしまった。アーサーは慌ててそれを抱きとめたはいいものの、さてどうしようかと考える。宿に連れて行こうかとも考えたが、思えばここには勢いのままきてしまったのだ、どうやって地上に戻るか、その道すら知らないのだ。
悩んでいると少年はまだ意識を手放していないことにアーサーは気がつく。
「なぁ、あんたどこに住んでるんだ」
「……そこの角、右。……そのまま、突き当たりの」
「分かった」
アーサーは少年を担ぎ、言われたとおりの道順で下水道を歩いてく。少年は軽い身体だったからアーサーでも担げてしまった、だがそれは同時に少年の体調はかなり良くないという結果を突きつけている。手持ちに携帯食糧があったはずだ、少年の家についたら何か食わせなければ。あぁでもそうしたらすこし加工したほうがいいのかな、など考えながら進んでいくと、少年が「なんで」とぼんやりと呟いた。
「理由なら、あとで聞かせる。今は助けさせろ」
苦い過去の既視感に喉を濁らせながら、アーサーは少年へ向けて零す。少年はその後は何も言わなかった、事切れたわけではないのだろう。まだ鼓動は聞こえている。
そんなこんなで水路の突き当りまでやってくると、バリケードの塊のような家を見つけた。これが少年のいう「家」なのだろう、
アーサーはその「家」の中に入るとまた懐かしい臭いにため息をつく。
床はそのまま地面がむき出しの部分もあれば、どこからか拾ってきたのか剥がしてきたのか木の板が敷かれている場所もある。そのほかには廃棄されたのを持ってきたのであろう小さなテーブル、ガラクタの山はそのまま棚になったり椅子になったりしてそうだ。そして壁に沿う位置に積み重ねられた布たちがベッドなのだろう。アーサーはそれを直感で察して、少年をそこに寝かせる。
この付近の水路はそこまで汚染されていない、というよりかは丁度海水が入ってくる位置にあるのだろう。汚臭は他の場所よりかはマシに思えた。
「はい、メシ」
「……いいのか」
「でなきゃ渡さないだろ」
「……それも、そうだな」
適当に食べやすいように加工した携帯食糧を少年に投げ渡し、アーサーは比較的綺麗な床に座り込んだ。少年は黙々と渡された携帯食糧を食べるが少しずつといった風だったので、その間にフラットに連絡を取ることにした。
ベルトに括りつけたバッグの中から、イヤーカフに近い形をした機械を取り出しそれを右耳に取り付ける。そしてもう一つ黒いカードのようなものもバッグから取り出し、起動スイッチを押す。するとカードから半透明の青い板が生えるように現れ、その板には「log in……良き一日を!」という文字が浮かぶように現れ、すこしすると消えていく。消えて言った後板に表示されたのは、様々な情報だったり会話の記録だったり色々だ。
これは旅を始める当初にエイトから受け取った機械、「端末」と呼ばれるものだ。
本来は冒険者たちが共通で持つ連絡用端末なのだが、それの性能をすこし落とし普通の旅人向けに改造されたもので、エイトから譲り渡されたものでもある。緊急時や戦闘時などにも普通に遠くへ連絡を取ることができる便利なもので、アーサーとフラットは分断された時用にこれを常備していた。
さて、フラットもフラットのほうでこれを既に起動していたらしい、右耳につけた音声伝達から「今どこにいるんすか!」と彼の声がする。アーサーは端末に会話の返事として『スリしてきたガキの家にいる』と打ち込み送信する。そうするとそれをちゃんと読んだらしく、「まじすか、攻略早いっすよアーサー」と音声が返ってくる。
現在フラットは宿にいるらしく、端末を通じて情報を集めていたようだった。アーサーが『遅くても明日には戻る』と伝えると、フラットはあっさりと了解といい連絡を切る。
このあっさりさがアーサーにとっては頼もしかった。
「ごちそうさま」
丁度少年は携帯食糧を食べ終わったらしい、食器などを置いて手を合わせていた。
その後ちゃんと銀時計を返してもらった。時刻を確認すると今戻ってもいいぐらいだったのだが、どうにもアーサーにはさっさと帰る気にはなれなかった。少年にあまり無理をさせたくなかった、というのは言い訳になるのだろうか。少年はここに泊まっていけとはいわなかったが、帰れとも言わない。どうせだから何か話を聞いてみようと、アーサーは殆ど興味本位でここに居座ることにしてみたのが結果だった。
「そういえば、お前の名前は」
確かに名乗っていなかったな。とアーサーは思い出す。素直に「アーサーだ」と答えると「変な名前だな」といわれてしまった。考えてみればすこし変な名前なのかも知れない、何がどうとはいえないが。
「そういうあんたはどんな名前なんだ」
「忘れた」
「まじか」
「けど昔はジェシーって呼ばれてた」
「ジェシー?」
「大昔の義賊の名前だってさ」
ドロだらけの顔で笑う少年ジェシーは、どこか昔の自分を思い出させた。