羽化。
それはまるで空から産み落とされたかのような巨体だった。広場を中心に落ちたそれはそれなりの広さがあるはずだというのに、半分以上をその肉塊で埋めてしまっている。腐敗者だとは思うがどうにもその外皮は白く、雨のせいもあってか湿っているように見える。ぶっちゃけて言ってかなり気持ち悪い物体だ。
しかもその気持ち悪さを加速させるのが、周囲に立ち込める獣の臭いだ。湿気と熱気と異臭のせいでここはさながら家畜小屋の空気のそれ、大型の腐敗者だということもあってか他の討伐参加者と思わしきものの殆どが口元に覆いをつけて、少し離れた場所から様子を窺っている。スモーカーとセージュもまた、その他と同じくして様子を窺っているものの一人だった。
三階建ての建物をゆうに超える白い巨体は一つ咆哮を唱えたかと思えば、急に丸くなってしまい静かに息の根を繰り返すのみという状態になっているというのだ。
どちらが先に手を出すか、というよりもこの場の連中……冒険者や旅人、中には捕喰者と思わしきものも今は出来るだけの戦力が集まるのを待っているようだった。
いわゆる待機の状態、今のうちに準備を整えておくべきなのだろう。恐らくもうじきに始まるはずだ。
「セージュ、一応聞くがあれは何なんだ」
「腐敗者が間違って魔族を取り込んだのか、わざと取り込ませて落としたのか、どっちかかな。なんていうんだろう」
「──【セラフ】だ」
敵情報の確認にするりと割り込むように、そしらぬ声が上から降ってきた。反射的に振り返れば、別の家の屋根上に立ち黒く煤けた外套を靡かせた青年が得物を手に取ったままこちらを見ている。出で立ち的にも得物を見てもそれは捕喰者のようだった。一応捕喰者の関係にはそれなりに知り合いがいるほうだったが、どうにも顔見知りの中の一人ではなさそうだ。色々とぶっ飛んだ連中にはあってきたつもりなのだが、得物が鋸鉈というある種基本に忠実な捕喰者という条件に該当するものはいなかった。
「【天使】? それがあのデカブツの名前か」
「暫定名だがな、もうじき羽化の段階に入るようだ」
今のあの塊の状態はさしずめ天使の卵というわけか、セラフと暫定名を付けた人物はいい趣味をしているようだ。一生関わり合いになりたくはないが。どうにも並列処理の悪魔しか思い出さないような名前ではあるが、そういう名前だからこそ今回はかなりの人数が集まったようだ。
悪魔の名を冠するものよりも天使の名を冠するもののほうが交渉の余地もなくえげつないことを平然とするものである、機械でも魔物でもその法則には変わりないようだ。
「どおりでこんなに集まっているわけだ……」
「狙ったね、確実に」
「あぁ、狙って名付けたそうだ」
「ロマンもクソもないね」
「ところでセージュ……さん、カウントダウンを任せていいか」
「いいよ、その代り所初手は貰うけれど。針の刻スタート?」
「あぁ、針の刻だ。初手は構わないむしろ持って行ってくれ」
どうやら鋸鉈の彼はセージュのことを知っていたらしい、しかし彼にカウントダウンを任せるというのは不思議な話だ。普通なら実力のある冒険者の一人が行うものだが、まぁセージュ自体なにか一物抱えていることはこれまでのことでも確かな話である、スモーカーの知らない力ある役職を握っていても何らおかしくはない。
いや、まて、針の刻となるともうすぐじゃあないか、手元にある使える限りの武器の確認を終わらせておこう。とはいっても弾薬は限られている、近接武器でどうにかするしかないだろうか。できれば近づきたくはないのだが、一番の節約になるのだからどうにもならない。あのぶよぶよとした白い皮に刃が通ってくれれば、の話だが。
しとしととした雨が降り続く中、痛いほどの静寂がただただ転がり落ちていくと、ふとセージュがクロスボウを片手に立ち上がった。
針の刻となったようだ、静寂が呼吸に揺らぐのを鼓膜に聞く。
「──炎と愚者の盟約の元に、世を縫い歩く隣人たちよ!」
普段のセージュとは想像もつかないほど凛とした声が、水面の鏡を保っていた広場に波を立てていく。波は次第に個にぶつかってはさらなる流れを生み、各自が武器を得物をとる音がかすかに聞こえはじめた。
「今は共に同じ流れに在ることを光栄に思おう!」
銀の鏃を構えたクロスボウを上空へ向け、その引き金を弾かんと指をかけるセージュの行動を機にその場にいた殆どの参加者が構えを取る。異質なほどの一体感、誰が示し合わせたわけでもないただの偶然が引き起こす鼓動の調律にスモーカーもまた喉をうならせる熱に火をくべる。
「目標、害なるモノ【セラフ】」
はじまったカウントダウンに便乗したのかどうなのか、雨がふと風に撒かれて霧状に吹き付ける。冷気の壁と化したそれに関しても余裕で無視を噛ませ、声よりも武器の慟哭が静かに時を待つ。
「──参、」
天使の卵に亀裂が奔った、めきめきと軋み始める音が雨の音を掻き消し熱気が輪のように周囲へとまき散らされる。
「──弐、」
しかしもはやその熱は熱ですらなかった、埋めいて蠢く全く別の熱が肺腑を焦がす。これはもはや殺意や戦意といった単純なものではないことを、自覚してか無意識か、皆知れたことだった。
「──壱、」
いっそ、称するなれば。
「【セラフ】討伐戦、開始──ッ!」
──これこそ戦場の慟哭と呼ぶに相応しい。
セージュが弾いた銃声が先か、聲が先か、声、声、聲、雄叫びに限りなく近い聲という名の音が一気に爆ぜると共に戦場の熱は一気に加速する。物陰に隠れていたもの、屋根上に構えていたもの、地上から今か今かと時を待っていたものが一斉に飛び出し、罅割れ羽化を果たした生まれたばかりの天使に容赦なく刃を振り下ろす。その中の一人としてスモーカーもまた飛び出し勢いのままに相棒の牙をセラフという巨体に食い込ませる。沈んでいく刃の感覚が掌を通じて脳に伝わるも、鈍い。切れてはいないものと判断せざる負えない。
「硬ッ、」
「押し通すッ!」
セラフの表面から跳び距離を取ると同時に隣を掠めて突っ込んでいった影が、片腕を覆うような形をした見覚えのある爪を壱点集中させる形で白い外皮に突き立てるのが辛うじて見える。尋常ではない重みをもっていたのかどうなのか、あまりにも柔く硬かった外皮に赤い罅割れが奔った。
あんな細腕一本の一撃で、と考える前にスモーカーは反射的に叫んでいた。
「あの時のクソガキか!?」
雨避けの外套を羽織っていたせいで一瞬では判別がつかなかったが、あの特徴的な鈍い銀髪といい細腕に込められた異常な重力といい、なによりもあの『爪』は見間違えるはずもない。数週間ほど前、伝承派として調律による直接対決を挑み勝負を預けた相手、ジェシー=ボールス・コールマンのそれだ。なぜこんなところにと問い詰める暇も時間も猶予もないがまさか同じ敵を相手にすることになろうとは。
「げっ、煙野郎いたのかよ!? 再戦はまた後でな!」
今は目の前で忙しいと言わせるなよバカ野郎という高速の罵声は無視するとしても、ジェシーであることは間違いはなかった。
だったら負けてなどいられない、とにかくセラフにダメージを与えヤツよりも先にラストキルを頂くのみ! 空回りしかけていた熱が噛みあった歯車が如く心拍を強くあげていくのをじかに感じ取りながら、スモーカーはジェシーが出現させた罅へと再度攻撃を叩き込もうかと起き上がったセラフを見上げる。
丸くなっていた時よりもさらに弐倍近くの大きさになったそれは、まるで粘土で作られた化け物だ。しかし的が大きいこともあってか、ただ単純に派手なだけか、ジャイアントキリングのチャンスだと挑戦する猛者たちに恐れというものは見ることもない。むしろ、楽しい、楽しくて楽しくて仕方がないのだ。無論スモーカーも、例外ではない。
「(最高だ)」
背を預ける相棒がいなくとも、先行する鼓動が既に足を動かしていた。跳ねる心臓と共に硬直すら見せ始めていた口元が綻び、歪みのを遠い視線で感じ取ることさえできる。あぁ自分は笑っているのだ、このどうしようもないほど大きな大きな暴力を目の前に。笑っていられるのだ、このぞわり立つ精神が示すのは恐怖ではない、高揚だ。
戦いの臭いが鼻腔を劈いて、目に見える世界はすでに罅割れた傷跡へと集中する。いつの間にか振り上げられた右腕が、重力に従って振り下ろされる。──命中、反動の痛みが今でこそ心地よい。
「火を、火を、燃えるような血を! ブチまケろォオオオオオオオオオッ!」
背後から迫る雄叫びに譲るように身を躱せば、そこにさらに無慈悲な鋼の塊が叩きつけられた。巨大な剣、大剣、機械剣の主は雄叫びの名と同じくして炎のような髪をしていた。
セラフの巨体から伸び出てきた無数の腕のようなものをその大剣の主にかわって切り伏せると、大剣の主はすっとんできた返り血にイラついたのかどうなのかもう一撃ほどセラフにどつくと足場が揺らぐのを感知したのかすぐさま建物の上へと跳んだ。先ほどから重力がおかしなことになっているなと考えていると、他の足場に移動するのが遅れてしまった。大きく動いたセラフにしがみつくこともできずに、放り出されてしまう。
「しまっ、」
「口チャック! ベロ噛むよ!」
地面に叩きつけられるかと思いきや、案外そうでもなく。声が聞こえた瞬間には首根っこを掴まれて空中にいた、誰だと思い目線を動かせばそれは白金の魔法馬に乗った魔法使いの法衣を纏った少年だった。いやこいつもスモーカーは知っている、悪戯小僧のラビット=ファルーカじゃあないか。確かこの大陸出身だったか、場違いな奴もいるものだ。
「ラビット! お前まで出てくるとは奇妙なこともあるものだな!」
「それはこっちの台詞だぜスモーカー! まさかオマエだとは思ってなかったぜバカァ!」
「はぁ!?」
なんでか知らないがバカと言われる最中、屋根上に立つ人物がふと視界を掠める。この国までやってきてしまったその一番の理由に酷似したそれは、確かに本当によく似てはいたが間違えることはない。どうにもこのおかしな重力空間を生み出しているのは彼だったようだ。
「(替玉まで来るとはな……っ)」
アーサー王の影武者まで討伐戦に出張ってくるとはどうしたことか、想像以上にこの目の前のセラフというものは危険なものだったのかもしれないがもはやどうでもいい。アンクが装飾された細剣を手に調律を施してくれているというならば、もう落下や跳躍は好き放題やれということなのだろう、これだけの人数を抱えてまで顔色一つゆがめていないのが驚きだが、どうにしろ好都合だ。
「スモーカー! とりあえずオマエをセラフの頭まで連れて行ってやる! 一発叩き込んでくれよ!」
「なんで俺が!」
「オマエが一番の【適任者】なんだよ腹ァくくれェッ!!」
ラビットが叫びと共に魔法馬のエンジンを吹かす、首を持っていられる体勢を続けるにはかなり辛すぎるから無理やりにでもラビットの後ろへと乗ってやる。ラビットが「やるじゃねえか」と言っているが主にお前のせいだからなこんなに苦労してるの。
セラフの背から映える腕という腕が参加者を掴もうと動き続けている、その標的の一つとしてこちらにも腕が何本も伸びてきたがそれが掠ることはなかった。ラビットの迷いない操縦もそうであったが、こちらに伸びる腕が標的を定めた瞬間に刈り取られ、撃ち抜かれを繰り返している。
スモーカーは咄嗟に後ろを振り返る、まさかと思ったがそのまさかだった、伸びるセラフの腕を打ち抜いていたのは他でもないセージュだったのだ。
『いいさ、譲ってやるよ』
声のない聲がそう言い放ったようだった。いつになく挑戦的で口角を軽く釣り上げたような表情をしたそれに寒気を感じる瞬間、また一つ人影が横を掠る。
あまりの速さに驚き目線を奪われたが、その正体は猫系の亜人のようだ。いやまて義足をつけている、義足、猫、亜人、そしてそこに構えている得物が一瞬だが正気を欠く。──何で灰色の街の管理者マーフィが此処にいる!? 世話になった中でも二度と会いたくない人物ナンバーワンだというのになぜだ!? 混乱しかけるスモーカーのことなぞいざしらず、ラビットがまた呼びかけてくる。
「二で落とすぜ!」
「ゼロで落とせ!」
既にセラフの眼前にまで飛んできていたのか、視界を埋めたのは目玉という目玉の海だ。いくつもの目玉がそこには生え、おぞましい色と共に複眼のように視界を動かしているようで、しかもその視界の中心にいるのは間違いなくスモーカーただ一人だ。
よくも考えずに飛ばされてきたはいいものの、押し上げられたという事実は変わらない。潜在的な感覚が告げる、──引きずり出された、と。
どこにだとかそういう話ではない、もはや空中に投げ出されたスモーカーに選択肢は存在しない。振り上げた右腕が、軍刀を逆手に振り落とされる。
「hiaxagyaxaaaxaaaaaaaaaaaxauaagiyxaaaaaaaaaaaaaaaaaa──」
悲鳴に近いごうという咆哮がびりびりと肌を刺す、突き刺さった軍刀は引き抜けない。だがそれでもダメージが足りていない、というよりも「これではない」のだ。ここに突き刺さるべき剣は「こんなものではない」、セラフの無数の腕が迫ってくる、思考が凍りかける、喰われる、跳ぶにも時間がもう足りない、もう戻れない、戻れないのだ。この舞台からは。もうここからは戻れないのだ。
「──くれてやるよ、あんたが一番らしくていい」
銃声が、思考もろとも食い破った。
誰が撃ったのか、もはや意識がたどり着こうとはしていない。目の前の現象がただただ、異質なだけだった。
心臓が熱い。焼けるように熱い。いや、違う、焼けているのだ。
「なん……、──ッ!?」
穴が開いていた。
体の、心臓があるべき部分に。確かな穴が開いていた。人が焦げる臭いと爛れていく痛みが、ああ、嗚呼、あゝ、目の前のこれは、なんだ。──手を伸ばした先にある、これは、なんだ。──引鉄だ、それも確かな。──柄だ、装飾も何もない。──銃口が、殺し切れなかった天使の目にむけられている。──矛先が、殺せと叫ばれた化け物の目にむけられている。──銃と剣が融合したようなソレが、まるで既に主を決めたかのように突き刺さっている。
撃たれて、それで、目の前に、銃剣が、赤くなりかけた思考回路が現状を整理するほどの力を持っているはずがない。
ただ、スモーカーには言うべきことがあった。
叫ばざる負えなかった。
「──こんの身勝手共がァああああああaaaアアアァアaaaaaaaaaaaa!!」
一番どうでもいい奴が、一番の主役へ。
(いっそすべて狂えばいいのだ)
(狂って狂って脚本家さえも■してしまえ!)