火とかげ~サラマンダー~
2.火とかげ
危険だ、と何かが教えていた。何がと問われても答えられない何かが警鐘を鳴らし続けている。だが、焦る心に反して身体はピクリとも動かない。何物とも得難い生の恐怖が心を支配していく。
『誰か、誰か!誰か!!』
叫びが喉をついて出そうになるのをカズヤは必死で押さえていた。
闇に沈む街は、人間以外の何かが巣くっているかのような不気味な静寂に包まれていた。人間以外というより生気を持つ者以外というべきだろうか。殊にこのオフィス街には。
待ち合わせの相手は女だった。人相も名前も分からない。ただ、判っているのは服装と目印のイアリングのみ。
「ふぅ」
溜めていた息を一気に吐き出す。何だってこんなところでこんな時間に取引をしなければならないのかカズヤには解らなかった。決してヤバイものの取引ではない。だが、相手はこの場所この時間を指定してきた。
何本目かの煙草に火を点けたところで人がやってくるのに気付いた。
女だ。指定どおりの紅いドレス、紅い靴。場違いなほどに派手な服。そして目印には赤に金の散った、趣味の悪いのと奇抜なのの境界の大きなイアリング。
――――心の警鐘は限界まで鳴り響いていた。
「失礼ですが……」
カズヤが話し掛けたときだった。
女は何かに怯えたように後ろを振り向くと、カズヤの持っていたアタッシュケースをひったくるように取り、バックから封筒を取り出すと、していたイアリングと一緒にカズヤに手渡した。そして、ことの成り行きについて行けず呆然とするカズヤの目の前で、掻き消えてしまった。
「な……な……」
限界だった。何かがカズヤの中で解放される。
『誰か、誰か!誰か!!』
声にならない叫びを上げ、カズヤは『何か』を解放した。
足音が近付いてくる。複数の男の足音。カズヤはゆっくりと足音の方に振り向いた。男が二人何か叫びながら駆けてくる。体格のいい小柄な男と長身で痩せぎすな男だ。女が怯えていたのはこのせいか?
カズヤの目に一瞬、憎悪が走った。
ギャア、と叫びを上げて小柄な男が煙を立てて燃え出した。長身の男はそれに目もくれず走ってくる。
肉の焦げる嫌な臭い。カズヤは我に返り、キョトキョトと回りを見回す。何が、何が起きたんだ?
「……てろ! それを捨てるんだっ!」
長身の男がカズヤに追い付き、封筒とイアリングを手からもぎ取ると、遠くに投げ捨てた。
封筒が少し開いて紙切れが散らばる。
次の瞬間、かっ、と眩しい光が目を覆った。
男の体が覆い被さってくる。
「な……」
塵芥が二人の上に振ってくる。カズヤは目を瞑って埃がおさまるのを待った。
「大丈夫ですか?」
予想に反して柔らかな声で男に話し掛けられ、カズヤは目を開け立ち上がった。
心の警鐘はもう鳴っていなかった。起こるべき事が起こってしまったのだから。
「ケガは、ありませんね?」
男の黒い瞳がカズヤを見つめる。
「ええ」
短く答えて後ろを振り返る。濛々とした埃の向こうで先の小柄な男がまだブスブスと燻っている。苦い物が喉に込み上げて来た。
「行きましょう。見ない方がいい」
男はカズヤの肩に手を掛け、燻っている男に背を向けて歩くように促した。
高度に成長したこの時代。人間は新たな進化を始めていた。それは、形こそ異なれ確かに進化だった。いや、退化と言うべきかもしれない。人間の持つ六つ目の感覚、能力が開花し始めていたのだ。しかしこの能力は余りにも特殊であったため、制御が難しく、この新しい能力を使いこなすには道徳の面で人間はまだ幼すぎ、ともすればそれは犯罪につながりやすかった。
そういった犯罪を未然に防ぐため、国際警察機構はその内部に新たなる組織を編成した。
探偵。犯罪を未然に防ぐために編成された組織の中にあって、特に遠見の能力を持つものがこう呼ばれた。あるいは予知能力そのものを。
深谷はカズヤの肩に手を置きながら、探索の網にかかっていながらも再び逃してしまったあの女のことを考えていた。
破壊。それがその女のイメージだった。
無差別に殺戮して行く。誰が、何が、彼女を動かしているのだろう。
そして、この男。この男もまた組織にとり込まれてゆくのだろう。部門こそ違え、火とかげのようなこの男。扱い次第では強力な助っ人となるはずだ。死んでしまったジムの替わりに。
ああ、今夜もまた“止まり木”が必要らしい。