機尋―ハタヒロ―
機尋
「はたひろはある女夫の出てかへらざるをうらみ、おりかゝれる機をたちしに、その一念はたひろあまりの蛇となりて夫の行衛をしたひしとぞ。「自君之出矣不復理残機」と唐詩にもつくれり。」
『鳥山石燕画図百鬼夜行』より
1.
高校生活最後のクリスマスに彼氏もいない、そんな寂しい自分達の為にお互いマフラーを編もう、って。
今にして思えば随分と滑稽な理由で始めた作業だったけれど、それがどうしてなかなか、良い暇つぶしになっている。
「また編むんだ。飽きないねぇ」
「そういう千紗こそ」
学校帰りのいつもの喫茶店で、頼んだカフェモカが来るより先におもむろに取り出した編み棒と毛糸、編みかけのマフラー。それも二人して。そんな光景がおかしくて、お互いに忍び笑いを漏らす。
少し肩が凝ったので首を傾げる。伸びた前髪がちょっと掛かったけれど、直すのも煩わしいので、そのままにして手癖で続きを編んでいく。こっちは元から手芸部だし、企画の発案者でもあったので、さして難しいことはない。対する千紗の方はといえば、面白そうと企画に乗ってくれたものの、慣れない編み物に苦戦を強いられているようだった。
「うう、疲れたぁ。細かくてわかんないってぇ」
簡単なガーター編みを教えてあげたけれど、それでも集中力が持たないのか、ものの数分で音を上げる。その度に私は、
「代わりに編んであげよっか?」
と、言うのだけれど。
「いい。自分でやる」
だってさ。
2.
思い返すと、千紗が私に話しかけてきたのも編み物がきっかけだった。
あれも丁度、今と同じような木枯らしの吹く季節。文化祭で作った手芸部の制作物を、教室で手直ししている最中だった。それまでクラスの女子の中だと別のグループに居た千紗が、こちらをしきりに眺めていた。その視線に気づいていたけれど、こちらからは何も言わず、ただ棒針を動かしていると。
「ね、それって編みぐるみ?」
背後から、息がかかるくらいの距離で。
「そう、だけど」
私の答えによほど満足したのか、次の瞬間には飛びきりの笑顔を向けて「かわいいね」と言ってくれた。私はまるで自分の子供が褒められたみたいで、なんだか恥ずかしいような嬉しいような気分でどうして良いか解らなくなっていた。
そう、解らなくなっていたんだと思う。
「じゃあ、あげる」って。
ぶっきらぼうに直しかけのネコの編みぐるみを差し出すと、彼女は驚いた様子も見せず、それを恭しく受け取ってから、
「大事にするね」
そんな風に、心の底から嬉しそうに笑ってくれた。
ああ、彼女は人からの善意に慣れてるコなんだな、って、最初はそう思ってしまった。そんな風に物事をうがって見ることしかできない私なんかじゃ、彼女とは合わないかなとも思ったけれど。
「ねぇねぇ、こないだの編みぐるみ、作り方教えて」
人懐っこい笑顔を添えてのお願いに、私は大量の毛糸を抱えて応えることになる。
でも。
「千紗さんは飽きっぽすぎる」
胴体なのか丸い毛玉なのか解らない、そんな物体を机の上に置いたまま千紗は大きく伸びをした。
「だってぇ、こんなに難しいと思わないじゃん」
それなら最初はもっと簡単なのにすれば良い、とか言いたかったけれど、いきなり彼女の望むままに押し付けたのは自分だ。どっちが悪いとも言えない。
「ね、代わりに作って」
子供が駄々をこねるみたいに。不器用なその手を絡ませてきて無理を言う。
「今回だけだよ」
やった、って、こちらの肩に抱きついて感謝を表す千紗。
それから、そんな自由でワガママな彼女と一緒にいることが多くなった。
3.
着々と伸びていくマフラーと、黙々と作業をする私達。
今日は人のいなくなった教室で二人きり。私以外の手芸部の人も帰ったみたいだから、部外者の千紗を呼んでも誰も文句は言わないだろう。
少し手を止めて、千紗の手つきを見る。
細くて白い指を一所懸命に動かして、一目ずつ丁寧に編んでいっている。小さい子が料理を作るのを見守っているような、不安だけど頼もしい光景。
「爪、綺麗だね」
ふと口を出た言葉に、千紗の方も顔を上げて嬉しそうにはにかむ。
「へへ、いいでしょ。シールだけどね。ウチ、ネイル禁止だからさ」
自分の手をよく見せてくれようと、千紗は座っている椅子をこちらに近づけてくる。作業の邪魔になるくらい詰まった距離の中で、彼女は猫の手みたいに丸めた自分の指先を、こちらの口元まで近づけて。
小さな星が千紗の爪の上できらめいていた。
溜め息を漏らしそうになったけど、この距離だと手に当たっちゃうかな。
「あ、キレイ」
「え?」
突然の千紗の言葉に私が顔を上げると、彼女の方も驚いた風に手を引っ込めて顔を背けた。
「うわ、変なこと言ったぁ」
「何が?」
「ほら、爪見られてたら星が瞳に反射してて、なんか少女漫画みたいだな、って」
「それで私がキレイだと」
「だから変なこと言ったって」
「こら」
私が編み棒の柄で千紗を小突く。面白そうに痛がってみせた後、ひとしきり笑うことになった。
「ほらほら、手を動かす。こんなんじゃ編み終わらないよ?」
「はーい」
「今回は最後まで自分でやるんだからね」
私の言葉に、千紗は恥ずかしそうに小さく頷いた。
あの日から、何度も何度も私に編み物を頼んできた千紗。自分じゃできないからって投げ出して、その度に私が仕上げて彼女に渡してきた。
いつだったか、それでこんなことを言われたことがある。
「なんでいつも作ってくれるの? 私のこと好き、とか?」
とか、なんとか。
それで溜め息。ワガママで自分勝手で、自由な彼女の言葉を真に受けても仕方ないけど。
「編み物はね、完成させないと作ってる最中の思いや感情が残っちゃうんだよ」
「そうなの?」
「そう。それを放置すると妖怪になるんだって。前に中学の先生が言ってた。だから私は、作りかけの編み物が妖怪にならないように毎回きちんと完成させてるの」
滑稽な理由で。だけど千紗は納得したように深く頷いてて。
その時は、それで終わった話題だったけど。
「いつも、ありがとね」
またも投げかけられた突然の言葉に、思わず手を止めてしまう。
「私さ、飽きっぽいし不器用だからさ。本当は完成させたいんだけど、どうしても最後に頼っちゃって」
「今さらすぎる」
「だからぁ、今回はちゃんとやるからさ。ね、見捨てないでね」
編みかけのマフラーを手に、千紗はこちらに弱った顔を見せる。
いつも、いつも。
4.
自室に帰ってくると、まずビニール袋に入れていた毛糸と編み棒を取り出して勉強机の上に置く。
例のマフラーは、自分一人の時では編まないようにしている。
それは勿論、一人でやると簡単に終わってしまって、千紗の作っている速度と合わなくなるから。そうなると今度こそ彼女は作るのをやめてしまうだろう。
自分で自分に贈るマフラーを編むなんて馬鹿げた真似だけは避けたい。
千紗はちゃんと編んでくれるだろうか。
作りかけのマフラーを自分の首に巻きながら、これを彼女に渡す時のことを考える。長すぎないとは思う。毛羽立ってもいない。色はどうだろう、千紗の明るい髪に合うかな。
吐息が漏れる。
小さな湿気がマフラーに染みこんでいく。
「私だって、不器用なのに」
彼女はずっと、私を頼ってきた。自分で作れないからって、何度も編み物を任せてくる。いつも快く、とはいかなかったけれど、それを拒むことは一回も無かった。
「そもそも作らなければいいのにね」
独り言の相手は、いつか彼女にあげたネコの編みぐるみの色違い。結局、手芸部の展示で必要だからと、まるまる一体別に作ったものだ。
千紗はマフラーを受け取ってくれるだろうか。ううん、彼女は私のためにマフラーをちゃんと編んでくれるだろうか。
ふと、私は勉強机の上に置かれたビニール袋を見遣ってから、その下にある手紙のことを思い出す。宛名は男子のもの。名前もよく知らない、顔はもっと。
おざなりなもの。好意を伝える程度の、中身の無い手紙。
「伝えなければいいのに」
小馬鹿にしたような笑いを添えて、それをゴミ箱へ投げ入れた。
窓を見る。部屋が暖かくなってきたからか、そこに少しずつ雫がつき始めていた。外は溶けた鉛みたいな色をして、それでも寒々しい風の音を時折聞かせてくれる。
早く明日にならないかな。
そうしたら、またマフラーが編めるから。
5.
「編まないの?」
私の言葉に、怯えたような様子を見せてから、千紗は小さく手を合わせた。
「ごめんね、今日、朝急いでて、持ってくるの忘れちゃった」
「そう」
もしかしたら、とも思った。
また彼女は、いつもの飽き性を発揮してしまったのだろうか。あれだけ言ったのに、また私が、結局は自分で編むのだろうか。
「クリスマスには、間に合わせてね」
「そ、それはモチロン! ちゃんと家でも編んでるからさ、いけるってば」
「頑張ってね」
そのすぐ後に担任が来たから、そこで会話が終わってしまった。
いや、その日は、そこで会話が終わってしまった、だ。
マフラーを編むという名目が無くなると、ことさらに千紗に会いに行く必要が無くなってしまった。彼女の方も、私を待って一緒に帰るとか、そういうことは無い。でも、昔は一緒に帰ってたりしたんだから、これは気分の問題なんだろう。
お互い、マフラー一つ無くなっただけで、なんだか何もかも投げ出したくなってしまったんだ。
一人きりの帰り道、葉を落とした銀杏の並木通りを歩きながら、いくらか前のことを思い出す。
「クリスマスにさぁ、彼氏もいないのは寂しいじゃん」
千紗がそう言ったのは、文化祭の後だったかな。
彼女が好意を寄せていた相手に告白をした後、見事にフラれてしまっての一言。強がりだったのだと思う。でも彼女は自分の強がりを信じられるくらいは、やっぱり強い人で。
「じゃあ、プレゼントくらいあげるよ」
そう言ったのは私。
だから、私が彼女の為にマフラーを編むのには、責任がある。
「だったらさ、私も贈るよ! 一緒にクリスマスに贈り合いっこしてさ、寂しさを紛らわそー!」
じゃあ、そう言った彼女は。
次の日も、千紗はマフラーを忘れてきた。
毛糸がほつれていく感じがした。
何か、どこかで編み目を間違ってしまって、それを直す為に解かなくちゃいけないから。でも、ここまで編んだんだから、そんな小さな瑕疵は捨て置いて、このまま編み続けてしまっても良いような気がする。
どちらが正しいのだろうか。
6.
本当にごめん、って千紗はそう言ってた。
「こんなことになるなんて、人生何が起こるか、解らないもんだね」
冗談めかして言うから、私もそれに合わせて笑う。笑ってあげる。
「おめでとう」
私がそう言うと、千紗は照れくさそうに頬を掻いてから、俯いてしまった。暗い部屋の中じゃ、それだけで彼女の顔が陰になって見えなくなる。
久しぶりに、放課後に二人で教室に残った。外は灰色。電灯もつけなかったのは、二人とももうマフラーの編み目を気にしなくて良いから。
「それじゃ、クリスマスのプレゼントは私があげなくてもいいかな」
私は持ってきた紙袋を、これ見よがしに振ってみせる。
「あ、ううん! えっと、やっぱ欲しいな、なんだか凄く悪い気もするけど……」
「冗談だよ。ちゃんとあげる。せっかく編んだんだし」
私は紙袋からマフラーを取り出す。リブ編みの、赤いマフラー。しっかりと最後まで編んだ。彼女が自分で編むのをやめてしまってから、一人で編んでいた。
それを私は広げてみせ、千紗の感動の声を待つ。予想通りにこちらへの感謝を伝えてくれて、いつもみたいに私を褒めそやしてくれる。私の手が何でも作れるって、そう信じてくれるなら。
「巻いてあげるね」
私はマフラーを彼女の首元に掛けてから、一巻き、二巻き、細い首に絡めるように。
「千紗、彼氏さんと仲良くね」
「うん」
「飽き性なんだから、気をつけて」
「大丈夫だって、ちゃんとやってくから」
そう、そっちは大丈夫なんだ。
彼女の首にかけたマフラーを、しっかりと絡めていく。ほつれないように。
「でもね、ギリセーフ。ぜんぜん。こっちも相手も、クリスマス前の駆け込み需要みたいなもんだし。あ、だけど心配はしなくて良いよ! 私、絶対ちゃんとやるからさ」
「そうだね」
手に力が入る。
もし、このまま引き絞ってみたら。
「それじゃ千紗、編んでたマフラー、彼氏さんにあげるの?」
私の言葉に、反応が無くなった。私はそれが怖くて、彼女の首元を見つめたまま視線を動かせない。
「うん、えっと、それなんだけど。やっぱり、いきなり手編みのマフラーって重いかなって。同じマフラーでも、結局、その辺のデパートで買ったやつにした」
「そっか」
首筋に指の先を触れさせる。柔らかくて、冷たい。さっきまで外に居たから仕方ないよね。
「私も、そう思うよ。手編みはさすがに重たいよね」
少しだけ手に力が入る。マフラーが巻かれていって、絞めるように彼女の首に絡んでいく。
もう少しだけ緊く。
「あ……、ん、そんなしっかりやんなくて良いって。苦しいから」
ここでようやく私は千紗の顔を見た。幸せそうで、それでも戸惑っているような、弱々しい顔。
「じ、自分でやるから……」
千紗が私の手を掴む。
「じゃあ――あのマフラーどうしてるの?」
指と指が、編み目みたいに絡んでから。
「ああ、アレね……。えっと、まだ、そのままなんだ」
それだけ聞いて、私はゆっくりと指を解く。
「そうなんだ」
千紗の首から垂れ下がる、赤いマフラーの凹凸を指でなぞりながら、彼女に這わせていた手を離していく。一つずつ、編み目を確認するように。編んだ時の気持ちを思い出すように。
「代わりに、作ってあげよっか?」
「え?」
「嘘だよ」
まだ編まれていないマフラーが残っている。誰のためのものか、もう解らないそれが。
「ちゃんと自分で編みなよ」
うん、と頷く彼女は、それ以上は何も言わずに俯いてしまって。だから私は、彼女を待っている人の所へ行けるように、彼女を寒空の下に押し出す。私の編んだマフラーを巻いて。去り際まで、彼女の顔は戸惑ったような顔だったけれど。
私は一人、暗い教室に残る。
私は彼女が飽き性でいてくれるように祈る。
いつまでも、あのマフラーが編みかけでいてくれれば良い。
そうすれば、私を――。