第5章 最後の大勝負1
「ただいま」
戸を開けると予想通りすんなりと開いた。また千里が来ているらしい。本当に自分の家と仁の家の区別がついていないのではないかと疑いたくなる。
「おっかえり~~」
「おかえりーじゃない。何でお前がまた家にいるんだよ」
呆れたような声音で問えば千里のへへへ……といつも通り反省しているとは思えない笑い声が帰って来た。
「ごめんごめん。あ、仁に手紙きてたよ」
「お前な……。家に勝手に上がるだけじゃなくて郵便受けまで勝手に見るなよ。で?どこから?」
「さ~?差出人ないから」
ハイッと差し出された手紙には、住所が書いてない。恐らく直接郵便受けに入れられたのだろう。そして、千里が言うとおり差出人の名前は無い。
仁は真っ白で何の変哲も無い封筒の封を破り、中から三つ折りの紙を取り出した。真っ白なコピー用紙に印刷してあるもので、無機質な文字が中央付近に印字されている。
『斉藤心の死の真相を知りたければ、地図の場所に来てください』
内容に目を見張り、慌ててもう一枚を見る。そこには地図が印字されており、地図の一点に赤い丸が書かれている。ここから車で一時間ほど行った場所にある森の中らしい。正確には『青磁の森』というが、薄暗く不気味な雰囲気の場所で、自殺の名所でもあることから、死の森とも呼ばれている。そこは、決して立ち入りたい場所ではない。だが、一度は諦めた真実がここにある。罠かも知れないが、その懸念よりも真実を知りたいという思いのほうが勝ってしまう。罠ならばそれでもいいとおもうほどには。
千里に何も言わずに家を飛び出した仁の様子に何か嫌なものを感じたのか、慌てて追いかけてくる気配がした。
アパートの下でタクシーを拾うと、追いついてきた千里も一緒に乗り込んだ。
「仁!!どうし……」
ジッと手紙を見つめる仁の様子にただならぬものを感じたのか、それを覗き込んだ千里の表情が凍りつく。それ以来千里も一言も話さず、タクシーの中に重苦しい沈黙が広がった。
一番災難なのは……タクシーの運転手かも知れない。
「心愛、希!!」
希たちが家に帰りつくなり慌てて駆け出して来た章が二人の名前を呼ぶ。ここまで動揺している章を見たのははじめてかも知れない。
「どうかした?」
「今、瞬さんから連絡があって原憲明が姿を消したらしい。東雲楓とも連絡がつかない」
目を見開き、顔を見合わせた希と心愛が小さく頷く。
「ということは、斉藤先生を囮にする必要は無いね。意味を成さないみたいだし」
「いや、やっぱり斉藤師範代を呼び出そう」
「なっ!!」
口を開きかけた希の言葉を遮ったのは心愛だった。
「希。保険。もし東雲楓たちが封印できる広い場所に居なければそこまで誘導しなければならない。魔に憑かれた彼女に届くのは「復讐」の二文字だけ。その時に斉藤先生が必要になる」
「それなら、居ることにすれば……」
「そんな嘘が通用するほど甘い相手では無いし、今ここでしっかりと封印しなければどの道斉藤先生に害が降りかかる」
希にもそれ以外の道が既に閉ざされていることは判っていた。それでも、最後まで抵抗したかったのだ。だが、それももう限界だ。これ以上引き伸ばすことは危険を大きくする。
「わか……った」
今にも泣きそうな表情の希の返事に三人は小さく息をついた。ほっとしたような、酷く悲しいような、そんな不思議な気分だ。それと同時に心愛が窓を大きく開ける。眼鏡を取った目に一体何が映っているのか他の三人にはわからない。だが、それが何を探しているのかは判る。
重苦しい時間が過ぎ……。クルリと振り向いた心愛の目に困惑が浮かんでいた。
「東雲楓の魔の気配が……追えない」
「え……?あれだけ強い気配を持ってたのに?」
頷く心愛に三人は顔を見合わせた。
「なら、仕方ない。俺と心愛で師範代の家に向かう。その通り道で魔の気配を少しでも感じたらそこから気配を追う。その場合は師範代の家には美鈴に代わりに行ってもらう。俺等から連絡があるまで美鈴は出来るだけ楓の行方を追ってくれ。希はどちらかの結果が出るまで待機」
章の提案が今出来うる限りの最善の手であることはわかっている。彼等は同時に頷き、夫々の仕事の為にその場から駆け出した。
「章、ありがとう」
仁の家までの道を自転車を漕ぎながら心愛が章に言葉を投げた。言われた内容が瞬時には理解出来ずに困惑したような表情を章が浮かべる。
「さっき、仕切ってくれて。本来なら私達の仕事なのに」
そう、魔祓いは心愛たちの仕事で、仕切らなければならなかったのは心愛か希だった。でも、それを無視して章が仕切ってくれた。その事は感謝してもし切れない。あの状態のまま任されても何も出来なかっただろう。
「お前等、この頃おかしいだろ。多分、師範代が仕事の依頼に来た頃から。希もだけど、心愛も。俺は、見えないし判らないからかもだけど、お前等がここまで魔を払うことに固執する理由すらわからない。……最も聞き出すつもりも無いけどな。それが俺らのルールだ。俺も美鈴も話したくないことはあるからな。でも、頼るとこは頼れ。じゃないと一緒に仕事をしている意味が無い」
「…………あり……がと……」
コクリと頷き、直にそれでは伝わらないことに気づいた心愛が小さな声で答えた。
心愛の頭に一枚の写真がよぎる。遺影として使った写真。いつ撮られたものなのかはわからないが、あの事件が起こるよりもずっと以前から取られていた写真だったことは確かだ。その写真にのみ黒い靄が写りこんでいた。それが何を意味するのか、心愛にはわからない。ただ、その写真から感じる気配が恐ろしく、あれ以来視界に入れようとさえしてこなかった。
そんな嫌な映像を頭から締め出そうと前を向いた心愛はギクリと立ち止まった。自転車を乗り捨てて慌ててアパートの部屋に駆け寄る。
「心愛!!」
背後から呼ぶ章の声さえも心愛には届かない。目の前に浮かぶ黒。そして、嫌な予感が頭をよぎる。
黒いものが郵便受けに残っているのが見える。これは単なる残り香だが、だからこそ嫌な予感がする。慌てて戸を開ける。鍵が掛かっていなかったのか、なんの障害も無くすんなりと開いた。それだけでも嫌な予感がする。鍵をかける間さえなかったのだと物語っているような気もした。中にも残り香があるが、そこに人の気配も、魔の気配もしない。
再び外に出た心愛は町を見下ろす。そして、ここから少し離れた位置に黒い靄が漂っているのが見えた。移動スピードから恐らく車だろう。
靄の移動が止まった。ここから一時間ほど行った場所にある青磁の森だろう。別名死の森と言われていて、自殺の名所でもある。好んで近づきたい場所ではない。
「やられた……」
「心愛!!どうしたんだよ?」
「残り香がある。……憑かれたのか、もしくは魔に連れさらわれたのか……。とにかく死の森に行ったみたい」
再び駆け出した心愛の横を電話をかけながら章が付いてくる。どうか、間に合いますように。強い願いが胸を焦がした。
アパートの前でタクシーを拾う。章も直に乗り込んできた。
「死の……青磁の森まで」
タクシーの運転手が表情を凍りつかせたが、今の心愛にそれを気にする余裕はない。どうか、間に合って下さい。そう、願うことしか出来ない。