第2章 晴嵐高校
晴嵐高校は入学してから3年間一度もクラス替えがない。そのため、今年2年生になった希は去年と同じように章と一緒に教室に入った。1年生の時には指定されていた席も今年は自由らしく、生徒たちは大抵仲のいい者同士近くに座っていた。希のそばに座りたいという人間はほとんどいないが、章の隣に座りたい女子は後をたたない。だが、章はいつものごとく彼女たちを完全に無視して希とともに隅に腰を下ろした。そこがうるさい女子に煩わされたくないという願いが一番かないそうな席なのだ。
生徒の代わり映えはないが、希たちのクラス担任は去年辞めてしまっているため、新しい人が来る。いったい誰が来るのか前情報が皆無なので、生徒たちの話題は自然とそちらに集まっていた。それは、希たちも例外ではなく、だからこそ、教室の戸が開く音に皆がいっせいに振り向いた。
「おはようございます」
教室に入ってきたのは二人の男性教師だ。どちらも相応に若いが、特に後からついてくるほうは、20代前半くらいに見えた。その顔を見た瞬間、希は大きく息をのんだ。
「あ……せん……せい……」
小さく小さくつぶやかれた声は隣に座る章の耳にも届いたらしい。軽く眉をあげて希の顔を見た。
「希?」
小さく耳元で呼びかけても、希は衝撃を受けたような表情で教壇に立つ男性を見つめているだけだ。
「君たちの担任になった賀茂川瑠依です。女みたいな名前だけど男です」
おどけたような口調の賀茂川の言葉に生徒たちから小さな笑いが漏れる。どんな先生が来るのか緊張していた生徒たちの肩の力が抜ける。賀茂川は確か去年3年生の担任をしていたはずだ。直接かかわりがないから、詳しくは知らないが女子生徒にはかなり人気があったような気がする。
「副担任となりました、斉藤仁です。去年大学を卒業した新米ですがよろしくお願いします」
やけに丁寧な口調で話す先生だと思った。生徒に対するというよりはどちらかというと目上の方と話しているかのような印象を聞いているものに与える。だが、希にとって重要なのはそこではない。“斉藤仁”それは、昨日目に焼き付くくらい何度眺めた名前だった。カタカタと手が震えだす。それを周りに悟られないように机の下で手を握り締め、俯いた。思考がフワフワと漂い、過去の事がまるで走馬灯のように流れては消えていく。
「…………み、希」
耳元で大声で呼びかけられ、希はハッと粋をのんだように顔を上げた。クラス中の人の視線が希に集まっている。
「え……?なに?」
「何って……。お前聞いてなかったの?今、自己紹介中で、席順なんだけど、今お前の番」
あわてて立ち上がったため、椅子がカタカタと大きな音を立てた。
「き……霧島希です。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げて座ろうとした希の腕を章が再度引っ張る。
「出席番号と名前、それから趣味と今年の抱負」
長々と告げられた項目に希の顔が凍りつく。だが、できる限り先生の顔を見ないようにうつむいたまま言葉を紡いだ。
「……出席番号13番、霧島希。趣味は読書。抱負は……目立たず適当に」
それは決して抱負ではない……が、霧島希とは去年からそういう人間として通っている。故に生徒は誰も気にしない。仁だけは、驚いたように目を見張っていたが。
「それは……抱負ではないと思うけど……。対は、隣の男子」
「出席番号22番。藤堂章。趣味は、運動。抱負は、今年こそ先生を負かすこと」
きっぱりと言い切った章の言葉はクラスのほとんどの人間にとっては意味不明だったが、ただ1人、仁だけはわかったらしい。肩を震わせて軽く笑っている。
「なんだそれは?」
不思議そうな表情の鴨川は、それ以上言及せずに章の前に座っている女子生徒へと視線を移した。
「希?何かあった?」
家に帰って2人きりになるなり開口一番に尋ねてきた心愛に希は小さく息をついた。その顔は未だ色を失っていて、「何でもない」と答えるのはあまりに嘘くさいような気がした。大体、明日の始業式には心愛にもわかることだ。できる限り心の準備をしておいた方がいい。
「…………今日、うちのクラスの副担になった先生、新任の先生なんだけど……。“斉藤仁”っていうの」
心愛の顔からストンと表情が抜け落ちた。顔が蒼白になっている。今にも泣きだしそうなその様相に希はギュッと心愛の体を抱きしめた。
「それって……同姓同名じゃなくて?」
「顔が……先生にそっくりだった。雰囲気も」
唇をかみしめて告げる希。2人は、ただ、何をするでもなくずっと、抱きしめあっていた。まるで、そうすることでお互いを守ろうとするかのように。
だが、2人はもうわかっていた。逃げ続け、蓋をし続けるのに限界が来ているのだろう。どこかで、何かが壊れる音が聞こえてくるような気がした。
晴嵐高校には立ち入り禁止の場所がいくつかある。そのうちの一つはいつも鍵がかかっている屋上だ。以前は普通に解放されていたが、数年前にふざけて遊んでいた生徒が転落する事故があってからは、鍵は厳重に管理され、生徒は屋上に入ることができなくなった。
その屋上の鍵を手に、希はいつも向かう道を辿っていた。この晴嵐高校の理事長を親に持つ章と美鈴のおかげでその屋上への出入り権を手に入れた福集屋Rの高校生メンバーはお昼を毎日のようにそこでとっている。合鍵は4人が全員持っていて、鍵を開けて外に出たら、外側からその鍵をかけることでその秘密を守ってきていた。
だからこそ、屋上の戸が開いていことなんてまずありえない。それなのに、普段と違う官職に希は厳しい表情で屋上の扉に手をかけた。それは、何の苦もなく開いた。
扉を開けた希は次の瞬間声にならない悲鳴を上げた。屋上のフェンスから身を乗り出しているのは、このごろ彼女たちの心をとらえて離さない彼の人の姿。自殺……ではなく落ちそうになっている紙片を取ろうとしているようだが、下手をすれば簡単に落ちてしまうだろう。
希は考えるよりも早く、常人離れしたスピードで仁に走り寄った。伸ばした手で仁の体を後ろに引っ張り、自分は少し身を乗り出して右手の指を軽くひねる。ふわり、と風が舞い、仁がとろうとしていた紙片が希の手に収まる。その一連の動作にかかった時間は一秒にも満たない。普通の人間には起こったかさえもわからないはずだった。
希は手にした紙片……どうやら写真のようだ……を手にクルリと仁を見た。茫然自失状態の彼はいつもの穏やかな教師像とはかけ離れているように見えた。
「先生、自殺するつもりじゃないのなら、あまりに愚かな行為だと思いますが?」
憤りを隠すことのできない希に仁が軽く苦笑した。
「すみません。とても、大切なものなのですよ」
どこか悲しげな表情で写真を見る仁の視線を追って写真に目をやった希が軽く目を見張る。見覚えのありすぎる男性と……幼い男の子。
「この人……は……?」
「兄です。もう、何年も前に殺されてしまいましたが。いまだ、その犯人は見つかっていない。俺は……そいつをたとえ何年たっても、どんな手を使ってでも見つけ出してやる!!」
最後のほうは冷たい響きのある声で、希はただ、ただ、仁の顔を見つめることしかできない。
彼のその望みが決してかなわないのだと知っている彼女にとって、彼のその表情はひどく苦しいものだった。自分たちのために人の傷を深める行為が……鋭い刃となって希の心に突き刺さる。
「ごめ……なさ……」
小さく、小さくつぶやかれた声は、どうやら仁までは届かなかったらしい。
「すみません、嫌な話をしましたね。……ところで、霧島さん?何をているのですか?ここは生徒は立ち入り禁止と聞いていますが」
「許可はもらっています。大体、先生には感謝されても怒られる筋合いはありません」
きっぱりと言い切った希の表情からは、さっきまでの悔恨の表情は消えていた。すべてを拒絶さえしているように見えるその顔に、仁は言葉を失った。
「そう……ですね。それでは、邪魔者は消えるとします」
ニッコリと笑みを浮かべ、屋上を後にする。その仁の姿を見送る希の表情が今にも泣きそうに歪んだ。
「……み。希!!」
どのくらい立ち尽くしていたのか、気がついたら、章・美鈴・心愛の3人が希の周りに集まっていた。みんな、どことなく心配そうな表情を浮かべている。
「あ……。ごめん、何でもない」
いつもと変わらない表情で言ったはずなのに、彼らの不審気な表情は消えない。特に心愛は心なしか悲しげな表情を浮かべているようにも見える。だからといって、心愛にだけは言えない。希よりも、誰よりも苦しい思いを抱えている心愛だからこそ、今のやり取りを伝えることができない。
「本当に何でもないって。早く食べよう」
いつもと同じように弁当を広げる希には何を言っても無駄と判断したのか、誰もそれ以上のことを言及しようとはしなかった。
「章。この間女子に呼び出されてたけど、また?」
だしぬけに聞いたのはココアだった。今の空気を換えようとしているのかまったく関係のない話題を何の脈略もなく繰り出す。
「ああ。おれは、ここで彼女は作らないって言ってるのにな」
ぽつりとつぶやいた言葉の意味をココアも希も知らない。ただ、彼がこの学校の誰に対してもそういう特別な感情を持たないようにしていることだけはわかっていた。
「それでも、自分奈良っていうおバカさんが多いんじゃないの?」
ぷりぷりと目を怒らせている美鈴は、双子の兄がモテるのがたいそう気に食わないらしく、そういう話が彼女の耳に入るだけでひどく不機嫌になる。
「そうかもしれないけど…………美鈴、あんた、いちいち怒ってたってしょうがないじゃん」
「仕方ないよ、希。美鈴は自他共に認める〝ブラコン”なんだから」
「な…………私はブラコンじゃない!!」
キッと視線を鋭くしてココアや望みを睨みつける美鈴の顔は真っ赤で、まったくもって説得力がない。
くすくすと笑い出したココアや望みにつられるように美鈴や章までもが楽しげに笑い声をあげた。屋上に響く声、今、ここにある日常を、大切にしたいと思う。たとえ、それが見せかけだけのものであったとしても。
ガツン、静かな音が真っ白な部屋に響く。機械の音と、人の息遣いが静かに聞こえる中で、章は目の前に眠る少女の頬をそっと撫でた。
「久しぶり、瑞樹」
小さな声が病室に響く。瑞樹は機能と何ら変わりない姿で眠っている。何一つ変化がない。それは、昨日からだけではなく、何年も、体は成長するのに一向に目を醒ます気配がない。章と美鈴の幼馴染はいつまでここで眠り続けなければならないのだろう。
「この頃、希と心愛の様子がおかしいんだ。……あいつらが止めていた刻が動き出したのかもしれない。多分師範代が関わっているんだけど、俺は知りようがない。俺たちの中にあいつ等が踏み込んでこないのと同じで俺たちがあいつらの中に踏み込む事はない。……お前だったら、きっとあいつ等の首根っこ捕まえて怒鳴りつけるんだろうな」
から笑いのような乾いた声が空気を揺らす。章は熱を持った柔らかな手を握りしめた。
「……なぁ、いいかげん起きてくれよ。俺は……そうしないと、俺たちの刻は動かないよ」
ギュっと手を握りしめて、のろのろと立ち上がった。
「じゃあ、瑞樹。俺帰るな。またな」
章の声に瑞樹は全く答えない。反応一つしない彼女の体をもう一度見つめてから、章は病室の外に出た。
「美鈴、お待たせ」
一度瑞樹の顔を見てから、一足先に病室の外に出ていた美鈴と合流する。美鈴は悲しげに微笑んでから章の手を握った。病院から帰るとき、2人はいつも手をつなぐ。そうすることでお互いの存在を確かめなければ、呼吸することさえもままならない。
「章、今日は事務所に直?道場によるの?」
「道場に行く。お前は……」
「わかってるくせに」
ごもっとも、というように頷いて、章と美鈴は手を繋いだまま、道場の方に足を向けた。その様は兄妹というよりは、恋人通しのように見える。
「次!!」
道場から聞こえてきた大音声に、章は驚いたように目を瞬いた。
「章?」
「これ、師範代……?」
驚いた表情のまま道場を覗き込む。道場の中心で立ち回っているのは予想通り斉藤仁だった。ただし、普段以上に鬼気迫る様子はまるで鬼のようにさえ見える。“鬼の斉藤”という異名を持つ彼は、確かに学校でいつも見ている優しく穏やかな教師像からは想像できないほどに道場では厳しい。だが、それとて理由のある厳しさ。いわば、門下生に対する師範代としての厳しさだ。それなのに今の仁はどう考えてもおかしい。
それは、普段なら何度投げられても果敢に挑んでいく先輩門下生たちがしり込みし、逃げ腰になっていることからもわかる。
目があった瞬間ぐるりと回れ右して逃げ出したい気分に陥った。
「次、章」
誰も名乗り出ないことにしびれを切らしたのか、それとも入口に突っ立ったまま入ってこない章にしびれを切らしたのかはわからないが、とにかく彼にお鉢が回ってきたらしい。
冗談じゃない。ただでさえ最年少師範代でありもっとも師範に近い位置にいるとうわさされる仁が相手だというのに、今の仁は絶対に手加減なんてしてくれないような気がする。
一歩下がってクルリと回れ右をする。
「美鈴、帰ろう」
「え……あ、うん。いいの?」
いまだ呆然と仁を見つめる美鈴の手を取って脱兎のごとく逃げ出そうとした……が、案の定失敗。一歩踏み出すよりも早く、先輩門下生に道場の中に引きずり込まれた。
「げ……。先輩!!俺嫌ですよ」
「諦めろ。師範代は今、心の底から機嫌が悪い。ヘタに機嫌を損ねたら、あそこで倒れている人たちが本当の屍になるぞ」
ぐるりと見回すと道場の床で昏倒している先輩たちの姿が。一応生きてはいる……が、次に無理やり起こされてまた相手をさせられたらその保証はなくなる。
「どうしたんですか、師範代」
「知らん。道場に来た人間を片っ端からのしてるんだ。しかも見学の連中や一般人も見境なく」
唖然とした。仁は確かに他人にも自分にも厳しい。だが、それは師範代として。よって一般人に手を出した門下生をもっとも厳しく罰するのもまた仁なのだ。その仁が見学者や一般人の見境なく技を繰り出している姿なんて想像もできない。
「グェ!!」
躊躇している間に、また犠牲者が……。
「章」
強く言われしぶしぶ彼の前に立つ。……が、相手の動きを認識するよりも早く鋭い衝撃を腹に漢字、意識を手放した。その間、コンマ一秒。ありえないほどの早業だ。
「章!!」
耳の奥で悲鳴のような声が聞こえたが、章の耳にその声は聞こえなかった。
「ちょ……アンタ、何やってるのよ!!」
突然目の前から響いて来た怒声に嫌そうに顔を顰めた。ガンガンと痛む頭にその大声は嫌に響く。
「うるせーー」
千里の方には目もくれずに再び酒をあおる。
「申し訳ありませんが……」
耳に響くのは今日の放課後に会った女性の姿。申し訳なさそうに、それでもきっぱりと捜査続行不可能を突き付けてきた。最後の糸が切れた絶望が仁を襲った。道場で門下生……一般人もいたような気もするが……とにかく、彼らに初あたりをして、その上家で自棄酒をしているというのに、未だ気分は晴れない。
「飲み過ぎよ!!」
パッと目の前から酒瓶とコップが遠ざけられる。
「返せ」
「嫌よ。一体何があったわけ?あんた、こんな飲みかたしたことないじゃないの」
「……操作実行不可能だと。6年前の事件じゃ手がかり一つ残ってないってさ」
グダグダと言うその言葉に千里が顔を顰めたが、仁はそれを見ていない。差し出されたカップの中身を飲み干した。どうやら水のようだが、もう、それすらどうでもいい。
「それ、おかしいわよ」
「うるせーー。知ったような……」
「私の時も初めの1か月は手がかりなしだったわよ。でも、彼ら、多少料金はかかるけど、時効成立まで調査を続けるかって選択肢をくれたわ。しかも、初めての手がかりは半年後よ。1か月で完全に不可能と切って捨てるはずがないわ」
霞がかかっていた頭が突然晴れた。あれだけ酔っぱらっていたいたにもかかわらず、思考回路が戻ってくるのがわかる。
「どういうことだ?」
「さぁ、ただ、その態度がおかしいってだけ。もう、諦めるの?」
千里の言葉に首を左右に振った。この態度がおかしいなら……その理由を突き止めるまでだ。どんな手を使ってでも、あの事件の真相が欲しい。
明日、もう一度行ってみよう。
まどろむ頭で、仁は強く決意した。