恋とは尊くあさましく無残なもの
男は長年連れ添った女に別れを告げた。
連れ添ったといっても夫婦ではなかったが。
女はふと遠くを見るような目をした後、頷いてくれた。
最近男には他に気になる女の存在があった。
男は女に対して情は持っていたが、昔の様に燃えるような何かはすでに持っていなかった。
だから女も自分と同じだと思っていた。
しかし―――
男はある便りを受け、急いである場所に向かっていた。
胸が騒がしい。
大きな音を立てて扉を叩くと老女が出てきた。
男の顔を見ると顔を顰めたが、すぐにいつもの表情に戻る。
「これはこれは・・・。お久しぶりでございます。何用でございましょうか?」
「・・・あれが、身投げしたと聞いた。」
「・・・。」
「無事なのか?」
「・・・。」
老女は黙ったまま踵を返した。
追い返さないところを見ると中に入っていいようだと判断し、老女の後に続く。
見覚えのある扉の前で老女が声を掛ける。
「お嬢様、お客様がお見えですよ。」
「まあ、誰かしら?お通ししてちょうだい。」
中から聞こえた女の声にどうやら無事のようだと男はほっとする。
部屋に通されると、以前来た時より殺風景に見えた。
その奥で寝台に身を起こした女がこちらを見ていた。
少し痩せたようだが、他には変わりがないように見える。
「お前が大変なことになったと聞いてひどく驚いた。しかし無事で安心したよ。」
「・・・。」
何も言葉を発しない女に少し疑問を持つが男は続ける。
「何処か調子が悪いこところはないか?何か足りないものはないか?」
「・・・いいえ、大丈夫です。」
男は女の固い声に怒っているのだろうと思った。
「すまない。まさかお前がこんなに思いつめているとは知らずに・・・。」
「・・・あの。」
「ん?なんだ?」
男は優しく問いかけたが、次の瞬間血の気が引いてしまった。
「貴方は一体誰です?」
女が首を傾げると、きれいな髪がさらりと流れた。
老女の話によると、発見が早く処置が素早かったため大した怪我も後遺症もないらしい。
ただし、記憶がなくなっているという点を除いて。
男は愕然としたが、老女はそれでよかったのだとぽつりと言った。
男に別れを告げられた後の女は見ているだけでもつらかったという。
食欲がなくなり、外には出ず部屋にこもりがちになり・・・。
傷悴しきった女は老女が目を離した隙に何処かへ行ってしまい、そして―――
男は老女にこれからこちらに通いたいという旨を伝えたが、頑なに拒まれた。
ならばこっそり見守るしかないのかと大きく息を吐いた。
天を仰ぐと男の心情をよそに、晴れ晴れとした青空が広がっていた。
その日も男は密やかに女のもとを訪ねようとしていた。
最近の女は外で日光浴をしていることが多い。
記憶をなくしてからの女は、少女の頃に戻ったような可愛らしさがあった。
もともと美しくはあったが少女めいた態度が加わり、そのアンバランスさがたまらない。
男はいつしか女のもとを訪ねるのが楽しみになっていた。
だがその日はいつもと様子が違った。
女の隣に若い男がいた。
その若い男のことは知っていた。
以前から女に想いを寄せていたはずだ。
時々挑む様な視線を感じていたことがあったのでよく覚えている。
こっそり2人の様子を窺っていて、男は愕然とした。
女は若い男が話しているのを熱心に聞き、時には相槌を打って、一緒に大きな声を上げて笑っている。
なにより女の表情が優しい。
愛しむように若い男を見つめている。
そして若い男もそんな表情を女に見せていた。
これ以上見ていられなくて、男は足早にその場を去った。
「ふふふ。」
「・・・どうなさったの?」
「いいえ、なんでもありません。貴女がこうして私の目の前にいる。幸せだと思っただけです。」
「あら。・・・私もよ。貴方に出会えてよかった。」
若い男は女をぎゅっと抱きしめた。
女は蕩けそうな顔をして若い男の胸に顔を埋めると抱きしめ返した。
男は落ち込んでいた。
以前まで通っていたある女の所にも行く気にもなれず、1人酒を飲んでいた。
声を掛けられ振り返ると、そこにはあの若い男が立っていた。
「どうなさったんです?最近あまり調子が良くないようですが・・・皆さん心配されていますよ。」
「お前には関係ない。失せろ。」
そう言ったにもかかわらず、若い男は男の横に座り酒を注文し始めた。
その様子にうんざりしていると、若い男がくすりと笑った。
「・・・何がおかしい。」
「すみません、思わず。何でしょうね・・・貴方の愚かさに、でしょうか。」
男はかっとして持っていたグラスをテーブルに叩きつけた。
「なんだと!?」
その声に周りはざわっと注目する。
それを受けて若い男は肩を竦めた。
「落ち着いて下さい。騒ぎが大きくなると貴方も困るでしょう?」
「っ!」
男は気分を落ち着かせ周りに簡単に謝罪した。
「・・・何が言いたい。」
「彼女のことですよ。別れた事を後悔しているんじゃないですか?」
「・・・。」
「図星ですか。あぁ、そういえばあの女いい体しているでしょう?」
「!!」
はっとして若い男の顔を見ると、妖しく微笑んでいた。
「貴方が単純な方で助かりましたよ。」
「・・・お前が差し向けたというのか?」
「そうですよ。あれは私から見てもいい女ですからね。気に入って頂けたようで嬉しいですよ。」
「・・・。」
「あれも貴方を気に入ったようですし、いやぁ良かった。」
男の顔はすっかり青ざめて、ぼそりと女の名前を言ったようだった。
それに気づいた若い男は目を細めた。
「安心なさって下さい。彼女は私が幸せにして差し上げますから。」
それだけ言うと席を立ち静かに去って行った。
残された男はただ呆然と座っていた。
「こんな時間にどうなさったの?」
「ようやくすっきりしたので、貴女に大切な事を伝えに。」
「大切な事?・・・何かしら。」
女は若い男が持ってきてくれた花束を壺に活けていた。
その後ろからそっと抱きしめ耳元で告げる。
「私の妻になってくれませんか?」
「・・・え・・・。」
女は振り向こうとするが、若い男がそれを許さなかった。
「すみません、今顔が真っ赤なので貴女に見せる事ができません。どうかこのままで・・・。」
「・・・本気で言っているの?」
「信じられませんか?」
「だって・・・貴方は若いし、とても優秀だと聞いているわ。私は―――」
女の言葉を遮って体の向きを変えさせると、強引に口づけをかわす。
女は初めは抵抗しようとしていたが、次第にあきらめ若い男の首に手を回す。
しばらくしてからようやく解放された時には、女はぐったりと若い男に身を委ねていた。
「私は貴女がいいのです。どれほど貴女に焦がれていたことか!」
「・・・本当に?」
「貴女しかいりません。・・・もし拒絶されたら私は何をするかわかりません。」
その言葉に女はきょとんとすると、小さく笑った。
「ごめんなさい。でも大げさではなくって?」
「心外ですね。本当のことです。」
拗ねた若い男の頬をそっと包み込むと、今度は女の方からくちづけをした。
「信じるわ。私も貴方が欲しい。」
「!!」
若い男は目を見開くと満面の笑みを浮かべ、女を軽々と抱き上げた。
向かう先は寝台。
「貴女の事をどれ程思っているか、体でも教えて差し上げます。」
「お手柔らかにね・・・。」
室内の明かりが消され、2つの影が重なった。
若い男は隣ですやすや眠る女の髪を丁寧に梳いていた。
「計画通りだな。」
その声に反応したのか女が寝返りを打ち、若い男の懐に転がり込んできた。
それを愛おしそうに抱き留めると、頭に優しくくちづけを落とす。
「ようやく貴女を手に入れた。この時をずっと待っていた。」
体を少し離し、女の顔を窺う。
幸せそうに穏やかな表情で眠っている。
今度は耳にそっとくちづけると、若い男は囁いた。
「もう何も怖い事はありません。私がこれからも守って差し上げます・・・ずーっとね。」
すると女はそれに対し笑ったように見えた。
若い男はそれに微笑むと女を再び抱きしめ眠りについた。