ペンギン・ジョンの難題
南極大陸の辺境に「氷の谷」という、左右が巨大な氷の絶壁に囲まれた谷があった。
谷はちょうど吹雪をふせげるため、安全を求めてペンギンが集まった。
やがて「氷の谷」は、ペンギンが年に一度、繁殖期になると群れをなして定住する──いわゆる繁殖地となった。
ペンギンの群れのなかに、仲間からはジョンとよばれるオスペンギンがいる。
ジョンには妻がいた。それと、もう少しで孵ろうという卵があった。
ジョンは愛する妻とともに、まん丸に大きな卵を交代でかかえ、孵る日をいまかいまかと待ちわびていた。
「もうすぐかしら」
「ああ」
ジョンはしあわせだった。
雪のように真っ白な羽毛をもった美しいメスと、子をなし、温めている。
オスペンギンにとって、この上ない幸福だった。
まわりのペンギンたちは、もう孵化した組もあれば、まだな組もあった。
孵化したばかりの雛鳥たちが、ぴいぴいと賑やかに鳴き声をあげる。
自分たちの子どもも、生まれたらきっとあんなふうにかわいいのだろう。いや、ちがう。あの雛鳥たちより、抜群にかわいいにちがいない。
「そろそろ、腹がすいて死にそうだ」
しばらく卵を温めていたジョンがそういった。
「餌場に行ってくる。餌をとりに行ってくる」
餌場というのは、ここより往復二週間ほどの地点にある海辺のことである。この時期、ペンギンの夫婦の一方がそこへ餌を食べにいき、もう一方がコロニーにとどまって抱卵するのだ。
「そう、わかったわ」
「卵をたのむ」
「ええ」
ジョンにはわかっていた。自分が帰ってくるころには、卵はすでに孵化している。
その瞬間をみたいものだが、自分の体力には代えられなかった。
妻が卵の面倒をみてくれるというので、安心して餌場へむかった。
餌場へむかう途中、大きな地響きがした。
ジョンは思わず地に前脚をついた。
「なんだ!」
地響きは次第に大きくなり、やがて──静まる。
いやな予感がした。ジョンは振り返って、走りだした。コロニーへと後戻りした。
コロニーはなくなっていた。
否、なくなったのではなく、みえなくなったのだ。仲間たちの姿はとんとみえず、ただあたりはおびただしい雪の山と化していた。
雛たちの賑やかな声も聞こえず、氷に閉じ込められたように、一切の音がしない。静寂につつまれている。
ジョンは目を疑った。なぜ? ここにあったコロニーはどうした。仲間たちは?
──妻と、子どもは?
ジョンは駆け出していた。
考えるより先に身体は動く。巣のあった場所へむかうと、雪をかき分けた。
かき分けても、かき分けても、底がみえない。積雪はひどく分厚かった。
ここではないかもしれない。ジョンはそこら中を懸命に掘り返していった。
視界のすみには、崩れた崖。
あれだ。「氷の谷」を形成していた絶壁が、たった数時間前に崩落してきたのだ。
コロニーは、その犠牲になったのだ。……
何十分、いや何時間経ったか。
とうとうジョンは妻をみつけた。
妻だったものを。
「……ああ」
雪のように真っ白な羽毛は見間違えようがない。
そばには、つぶれ、ひしゃげた卵の残骸もあった。
「……あああああああ……」
ジョンは顔を覆う。その手は、血まみれだ。
一匹のオスペンギンは、果てしなく続く雪の平原にその慟哭を響かせた。
そのとき──雷鳴。
本来、南極大陸に雷が起こることはない。しかし、一介の鳥類であるジョンにそれを知るすべはない。
空が、白い紙を広げたように、煌々と輝く。
雷鎚はうなりをあげてジョンのはるか頭上を龍のように舞ったかと思うと、一直線に彼へと落下した。
全身を引き裂くような激痛が訪れた一瞬ののち、ジョンの意識は途絶えた。
¶
「もうすぐかしら」
視界が最初にとらえたのは、慈愛のまなざしをする妻のすがたであった。
──……?
ジョンはただぼんやりと口を開けたまま混乱している。
「どうしたの、あなた」
妻だ。妻がいる。
ジョンは白昼夢に襲われた気分だった。
おのれの下腹部をみやると、そこには卵。割れていない、つぶされていない卵。
「あなたきいてるの?」
とたん、彼の内側に恐怖と喜びのないまぜになった感情が爆ぜた。
いますぐにでも抱きつきたい気持ちだったが、かかえている大きな卵のためにそのような俊敏な動きはできなかった。
ただ死ぬほどの安堵と、愛情が、胸を引き裂かんばかりに訪れる。
しかし、やがて、喜びは焦燥へと移行する。
「きいてくれ」
ジョンは意を決していいはなった。
「これから崩落が起きる」
「崩落……?」
「あの氷がくずれるんだ。それで、このコロニーは壊滅する。すべてがまったく埋もれてしまう」
妻は、突如として夫の口走ったセリフに首をかしげた。不審げな顔つきである。
「信じてくれ。ほんとなんだ」
いいながら、ジョンは自分でもはちゃめちゃなことをいっていると自覚した。
これから起こる出来事を、だれが信じられよう?
ましてや、ペンギンである。動物である──今日生きて、食えることに命をそそぐ野生動物。未来、リスクなどといった言葉を、当然のごとく彼らはもちあわせていない。
それでもジョンは胸の内にわきあがる不安、焦燥に耳をかたむけずにはいられなかった。
「たのむ」
必死の懇願であった。
妻はうすく目を閉じると、悩ましげにくちばしをゆがめ、
「……わかったわ」
と、うなずいた。
──いまほどまでに彼女を健気だと思ったことはない。
ジョンは心が満たされるのを感じて、そしてすぐに恐れのうちに背筋をのばした。
彼女へと、いま自分がみた一連──否、これから起こる一連を説明する。声には熱い訴えの思いを託して。
妻は、なにもいわずにすべてを聞いたあと、
「それで……どうすればいいの?」
と訊いた。
「どうすれば、その崩落を回避できるの?」
「それは……」
ジョンにもわからない。
ただコロニー一帯、いやさそれ以上の広範囲で雪崩が起き、たちまち仲間とともに沈んでいくのだ。
妻も。あと数日で孵りそうな卵も。
「仲間たちはどうなるの? ……私たちの、卵は?」
と問われ、答えに詰まってしまった。
ただ判明することといえば、
「ここにいたら、すべてが雪につぶされてしまう」
「それは、卵も?」
「ああそうだ。まわりの雛の声もすっかり消えてしまうんだ」
「……そんなこと」
「一切、消えてしまう。覆いつくされてしまう」
妻はいまにも泣きそうな顔をした。
「でも、この子を置いていくわけにはいかないわ」
二匹ともわかっていた。卵をもって避難することは、土台不可能であると。
一抱えもある、重く、大きな卵。これを持ち運ぶには、腹の下に入れて地面をすり足で歩くほかない。
この時期、南極は厳しい寒さで、常に卵を腹の下に温めていないといけなかった。もしも地面に直接置こうものなら、親の体温と地面との温度差で、ぱきりと亀裂が入り、たちまち中の子どもは死んでしまうだろう。
無論、
「いつ崩落は起きるの?」
ジョンは思い出す。餌場へ出発してから、三十分となく地響きは起きた。
「……もうしばらくもない」
いまから出発したところで、とても間に合うものではない。
「あなた」妻がやにわにいった。「卵をかして」
なにか策があるわけでもないはずだが、妙に堂々といわれたので、命じられるままに卵をわたした。
ペンギンの夫婦が卵をやりとりするとき、それは慎重である。
ほんの数十秒でも肌から離せば、この氷点下。外気にさらされた卵の命はない。
迅速に、かつ丁重に、夫は卵を受け渡した。
するとなにを思ったか。妻はそのまますり足で歩き出したのである!
「おまえ、なにをしているんだ!」
これにはさしもの夫も絶叫せざるをえなかった。
周囲のペンギンたちが、何事かと視線を集める。
「なにって、避難よ」
「その卵を抱えてか? 間に合うわけがないだろう!」
「じゃあ、この子を置いていくっていうの?」
ジョンは窒息しそうな表情になる。あえぐようにのどからひゅ、と冷えた空気を吐きつつ、
「それでも、犠牲はすくないほうがいい」
「……っ!」
「いますぐに避難すれば、おれたちは助かる。もう時間がないんだ。二匹で一緒に逃げよう」
「あなた、自分でなにをいっているかわかってるの……?」
まるで正気でない者をみる目つき。
妻のこんな目つきははじめてだった。
ジョンは彼女に真っ向から責められたように感じた。
「ああ、わかってるとも。自分のいったことくらい自分でわかる」
「じゃあ、なんで」
「だからこそだ!」
もう、自分でもわけがわからないくらいジョンは吠えていた。大声で、まるで威嚇のように。
ジョンの脳裏に、積雪の圧力で真っ赤に裂け、ぶちまけた妻の肉片がよみがえった。
「だからこそ、いま避難しないといけないんだ! それとも、おまえはおれを置いて死にたいのか!」
オスの怒鳴り声はコロニー全体に反響した。それでペンギンたちは、一匹の気の狂った者がコロニー内にいることを知った。
群れの白眼視が一点に集約する。
──ときに、ペンギンは集団行動によって過酷な自然環境を生き抜いている。野生のペンギンが一匹で群れからはぐれれば、その命が長くもつことはほぼないといって過言ではない。
「あなた、やめて。そんな大声で」
「……っ、おまえが聞かないからだろう!」
「もういい! もういいわ、もういいから」
なだめるような女の口調に、刹那、怒りの糸がゆるむ。
「じゃあ、ちゃんと避難するか、二匹で」
「いいえ、しない。……」
──ジョンの頭に血がのぼった。
「私はこの子をもって運ぶ」
非常に芯のある声で宣言した。
この宣言に対し、ジョンは、
「いいだろう、おまえがそうしたいなら、それがいい。おまえの勝手だ。おれは、おれの勝手で動く」
となかば早口にいって、憤然として餌場の方面へと飛びだした。
コロニーを出てからしばらく経っても、ジョンの頭には粘度の高いマグマじみた血液が対流していた。
──忠告はした。最善の案もだした。
それで納得しないのなら、それまでである。
もとよりほかに方法はないのだ……とジョンは歩きながら、自分に言い聞かせた。
ジョンは一縷の希望にしがみついていた。自分のみたものがすっかり嘘であり、幻であり、白昼夢である。という希望に。
群れのペンギンたちの、目。まるで自分を奇人のように扱っていた。
いまから起こること、おのれの主張することが、ろくでもない与太話である気がしてきた。
そう、すべて与太話である。
ジョンは自得し、うなずいた。満足していた。ただ、異常なまでの胸騒ぎと、肉を剥がされるほどの恐怖の予感さえなければ……。
そのときである。──さきにみた白昼夢とおなじく、強烈な地響きが鳴り響いたのは。
縦方向へ大幅にシェイクする大地には、とてもじゃないが直立していられない。
そして、やんだ。
そのときジョンの脳裏に浮かんだ観念は、後悔という言葉では足りない。懺悔、愚か、諦念、……彼は猛然と走りだしていた。
たどり着いたコロニーは、やはり、と称してしまえばあまりにも残酷で救いがたいものがあった。
ジョンは以前とまったくおなじに取り乱し、穴をほり、血まみれの手で頭をかきむしるのである。
「…………」
もう信じられずにはいられなかった。
現実である。運命である。まざまざと見せつけられた家族の死体と残骸に、そう納得せざるを得なかった。
ジョンの心は二度目の喪失感に襲われる。
その頭上へと、堕ちる──雷。
白い天蓋が張りめぐり、その中央を割り裂くように電流が閃く。
一瞬の激痛。
──静寂。
¶
「もうすぐかしら」
「…………」
慈愛のまなざしで、妻はジョンのかかえる卵をみやっている。
ジョンは空っぽの顔つきで、彼女の雪のように真っ白な羽毛と、流麗な横顔をみつめる。
妻がこちらに気づいて顔をあげるまえに、ジョンは目をつむった。
それから、心をひたすら平坦にして、
「なあ……すこし頼みたいことがあるんだが」
「? なあに?」
小首をかしげる。こんなにきれいな女性がいただろうか。新鮮に、驚く。
「おれは腹がすいて、ここからどうにも動けそうにない。餌場のほうにいって、餌をとってきてほしい」
「まあ」
夫はげっそりとしていた。なるほど数日間、数週間は食べておらずこうして卵を温めている。
本当のところは、げっそりの理由は断食以外にもあったのだが、それを妻が知る由もない。
「ほんとうに、一歩も歩けないの?」
「ああ、一歩も。腹が減りすぎた。ぜひおまえに餌場にいってきてほしい」
厳密にいうと、夫婦間でペンギンは食物をやりとりしないのだが、この夫妻はとくべつ仲がよかった。
「わかったわ、そこまでいうなら」
といって、妻は出立した。
彼女が遠く離れたのを見送って、彼はまなじりを決する。
腹から声をだし、群れの全員へと呼びかけた。
「みんな、いますぐ避難しろ。じきに雪崩が起きて、ここはまっさらになる。ここに留まるやつはすべて死ぬ。いますぐ餌場の方角へ逃げるんだ──そうすれば、命だけは助かる」
真っ当なことを言っている。そんなジョンの確信とは裏腹に──当然といえば当然だが──群れのみんなは、まず信じなかった。
こいつは、いったいなにを言っているんだ?
ペンギンたちの顔は一様にわかりやすく、そう述べていた。
なりふり構ってはいられない。再び、声がかれるくらい、ジョンは警告を叫ぶ。
「逃げろ、いますぐに! もう時間がない、あの氷が崩れ落ちてくるんだ。さっさと逃げるんだ、生き残るにはそれしかない」
すると、ヘンリーというジョンの長年の友がやってきて、
「おいジョン。やめろって、おまえらしくもない。おまえ狂っちまったのかよ」
「おれは狂ってなんかいない。おれの言っていることは真実だ」
「そうか、だがな、いまどきそんなジョーク流行らないぞ」
ジョンはつとめて冷静にいようと耐えていた。
しかし、群れのペンギンらの呑気な風景。
まるでなにが起こるかわかっちゃいない。どころか、自分の言葉を一ミリたりとも真に受けない。
ジョンはおのれの社会的地位の低さを呪った──が、もしこれが群れの重鎮がいったことだとしても、だれも真に受けなかっただろう。
ジョン自身、だれかが同じようなことをいっていたら、単にそいつの気が触れたとしか思えない。
それほど荒唐無稽な話だった。
ペンギンたちにとってこの谷は長年の実家であり、吹雪をふせいでくれるいちばんの安全地帯だった。
「おまえももう立派な父親なんだ」
ヘンリーはゆるやかな口調で諭すように、
「わかるな? 群れの秩序を乱しちゃいけない。群れからの信用をなくしてはならない。おれらは父親になるんだ、いつだって子どもに胸張れるパパでいようぜ。な?」
と、ジョンの肩に手を置いた。
ジョンの胸には、怒りと、呆れと、悲しみが去来していた。
なにをいっても通じない。なにをいっても伝わらない。
死にたいやつは死ね、と叫びたい気分だったが、もう、そんなことをいってもだれも聞き入れないのは確かだった。
「ヘンリー。きみだけでも逃げてくれ」
「雪崩が起きるって? 本気でいってるのかい」
「ああ」
「オーライ、オーライ。だとしたら、雛はどうする?」
ヘンリー家はすでに卵が孵っていた。灰色でふわふわとしてかわいらしい雛が、三十メートル先の巣でよちよちと歩いている。おぼつかない足取り。ヘンリーの奥さんがそのそばにいて、時折こちらを心配げにみやっていた。
ただでさえ子から目を離せない状況なのに、ジョンのところへきてくれたのだ。
そんな彼にこそ、生きのびてほしかった。
「雛や卵をかかえて逃げるのは……難しい」
ジョンは重々しく、その事実を放った。
フレンドリーだったヘンリーの顔色が急激に曇った。
「ジョン……いい加減にしたらどうだ?」
「…………」
「さすがのおれも付き合いきれねえ。おまえ、タチ悪いよ」
冷ややかな侮蔑の表情。
友情がいまここに決裂する音がした。
冗談でもいっていいことと悪いことがある──ヘンリーの内心がジョンにも伝わってきた。
もし逆の立場なら、ジョンもその友を確実に軽蔑していただろう。それはもう、縁を切るレベルで。
もしこれが本当の冗談だったならば、それが一番よかったのに。いますぐヘンリーに土下座して、許しを乞えた。
いまのジョンに、その選択肢はない。
「そうか、それでも、おれは逃げる。もし崩落が起こったときは、迷わずすぐに餌場のほうに逃げるんだぞ」
まだ言い続けるか、と不快な顔を示す友をあとに、ジョンは一匹、出発した。
腹の下に卵をかかえて、一センチ、また一センチ……とすり足で進む。
作業は慎重を期した。膨大な神経を要する。とてもじゃないが、一匹でたもてる集中力と体力ではない。
……もしかして、妻もおなじことを行ったのだろうか。
先の白昼夢で、妻もこのように、たった一匹で卵を運んでいたのか。
ジョンの満身は、はやくも悲鳴をあげていた。
後ろを振り返ると、愕然。最初の位置からぜんぜん進んでいなかった。コロニーを出てすらもいない。
走っていけたら、どれほどいいだろう。いまごろはコロニーを出て、雪崩の影響のない安全地帯までたどりついたかもしれない。
ちらりと下腹部に目を落とす。卵の重さがすこし恨めしかった。
ジョンが額に汗して懸命に卵を運ぶ間にも、刻一刻と時はすぎる。コロニーのペンギンたちが強烈な地鳴りとともにすっ転んだのは、ジョンが出立してから五分と経たないころだった。
ジョンは卵が割れないように身をかがめ、覆いかぶさっていたが、すぐにでもその姿勢が長持ちできないことに気づく。
氷の断崖絶壁に大きなひびが入ったかと思えば、一瞬にしてその一部が崩落し、幾匹かの同胞が無惨にのみこまれた。
雪が着地した衝撃に、もう片方の絶壁も崩れ落ちる。はさみ撃ちだ。つぎつぎと氷の塊が降りそそぎ、雪の波がしぶきをあげて流れ込んできた。
落下、轟音、爆風。
ペンギンらの悲鳴は、大自然の音量にまたたく間にかき消される。
ジョンは圧倒的な恐怖を前にしても、決して卵を離すことなく守っていた。けれども、災厄が次第に過酷を増すにつれて、いよいよもって、そのときが来てしまった。
卵が、割れた。
孵化したのではない。頭上から降った巨大な氷塊を避けようと跳躍した際に、ジョンの肌から一瞬にして卵が転げ出た。
卵の姿は一瞬にして消えた。
ジョンも無傷では済まなかった。身体中が痛い。
災厄は、嘆く暇さえ与えなかった。
ジョンはほうぼうの体で逃げ出していた。そこには本能しかなかった。圧倒的な恐怖、質量、死の直感。……
コロニーから先んじて離れていたジョンはからくも逃げ延び、生き延びた。不幸中の幸いか、自然界で回復不可能なほどの怪我は負わなかった。
その下腹部に、卵はなかった。
妻が帰ってきたのはその直後のことだ。
もっとも、直後というのはジョンの体感である。少なくとも立ち込めていた雪煙が消えるくらいには時間が経っている。
雪の平原と化したコロニーを眺め、ジョンはひたすら呆然としていた。魂が抜けたように、ただ雪野原をみていた。
立ち尽くす彼をみつけたのが、妻だった。
妻は即座に、なにが起こったのかを夫に問いただした。とくに、卵の行方に関しては、毛並みを振り乱して血走った眼で訊いた。ジョンはしばらく一切声を発さずに、すがりつく妻をうろんな目で見下ろして、それから急に思い立ったかのように魂を取り戻し、彼女を頭から喰い尽くすほど強くだきしめた。
その日、群れ全体で生き残ったペンギンは四割にも満たなかった。
ジョンを除いて、そのすべてが餌をとりにコロニーから離れていた個体である。
雛と卵に至っては、無事なものはひとつもない。
生き残った個体は、ある者は嘆き、ある者は虚脱し、ある者は気が変になって高らかに笑っていた。
──ペンギンは、夫婦の一方が餌を取りに行き、もう一方がコロニーで抱卵する──。
生き残った者たちのなかで、家族をなくさなかった者はいなかった。
餌場にむかった者の大方が当日中に戻ってきて、残りは数日経ってから戻ってきた。
コロニーにたどり着いた彼らは、毎度似たような反応で嘆き、悲しみ、その多くがつらい現実を拒絶した。
ジョンの妻もその一匹であった。
「……まだ、餌場へ行く気は起きないのか?」
「食べる気がしないの」
「……そうか……」
夫が話しかけてもこのような有様である。
妻はいよいよ精神が参って、終日うなだれていた。その状態が二日、三日……一週間と続いて、これはどうにかしなければ、とジョンは自らを奮い立たせ、できる限り彼女に寄り添った。
パートナーとは一方が陰鬱になると、もう一方はそれをなぐさめるよう心が働くのかもしれない。
妻はショックのあまり心を病ませていた。寝たきりだ。群れの一員としては、これはよろしくない。ただでさえ個体数が減った。復興のために各々が動き出している。新しい縄張りとなる地域をもとめ、開拓していた。その作業に参加しないのはフリーライダーであり、いまのコロニーにはもっとも邪険とされる存在。
代わりに、ジョンが多めに働いてカバーした。
妻の分も二倍働き、だれにも文句をいわせなかった。
夜になって、ジョンは仮の巣に帰ると、いまだ悲しみに消沈する妻の姿をみとめる……かと思いきや、この日の妻はいつもより生気を取り戻した顔つきをしていた。
「おかえりなさい」
と、久しぶりに彼女のほうから声をかけられる。
ジョンの心のうちに花が咲いた。やっと、やっとだ。彼女は少しずつ前向きになってくれたらしい。
「もう……大丈夫なのか」
「ええ。ごめんなさい、心配かけて」
「いいんだ。いいんだ……」
ジョンは妻に涙ぐむところを見せたくない。くるりと反転し、隠れて涙をぬぐった。
「おれこそ、すまなかった。守れなかった。卵を、おれたちの子どもを」
「いいのよ」
と。
透明なその声に、ジョンは少々違和感を覚える。
「いいの。もう、いいの」
妻をみやると、その目に光はなく、すがるように天を仰いでいた。
「卵が消えてしまったのはしょうがないこと──それが運命だったの」
……いま、だれが彼女を責められよう?
それは、これからを生きる者の本能だった。
過去を受け入れ、悲しみを乗り越える者の姿だった。
「そうでしょ、あなた」
ジョンは、即座に肯定できなかった。
自分が妻の言葉にショックを受けているのだと、彼女が寝入ってから、ジョンははっきりと自覚した。
目が冴えていた。
まさか、と思う。なぜ、とも思う。
それは妻にむけてでもあり、おのれ自身に対しての疑問でもあった。
あんなに卵を守りたがっていた──自分の命にかえても──その妻の口から、あんな言葉が出るなんて。
あんな、諦めるような、言葉。
否、諦めたのではない。受け入れたのだ。
現実は続く。現状はたえず変化していく。自然界の摂理である。
妻は生きるために、その摂理を受け入れたにすぎない。
「おれは……」
ジョンは自問する。
妻は卵の喪失に心の決着をつけたのだ。
…………自分は?
「おれは、みたくなかった」
みたくなかった。あんな妻を。
エゴだ。
「……もどしてくれ」
ジョンは叫ぶ。
「すべてを、もとにもどしてくれ!」
天を仰ぎ、一匹のオスは咆哮した。
空が真白く、煌々と輝き出す。ひび割れたその隙間から現れる青白い電光。
どんな肉食動物よりも獰猛な、荘厳な唸りをあげて一筋の龍が舞い、鋭い速さで地上のジョンへと直撃した。
脳天からつま先まで焼き尽くされる感覚。
次の瞬間には、彼の自我はこの世のどこからも消えてなくなっていた。
¶
ジョンは決心していた。
今度こそ、すべてに向き合う。と。
「もうすぐかしら」
浮上する意識は、妻の横顔をとらえた。
彼女の慈愛のまなざしの先──腹の下の卵も健在である。
ジョンは決して焦らず、いうべきことを伝える。
「なあ」
「? なあに?」
「聞いてほしいことがあるんだ」
「なによ、そんなにあらたまっちゃって」
「つらい話になる。でも本当のことだ。最後まで、しっかり聞いてほしい。頼む」
いつになく真剣な表情に、妻もつられて襟を正した。
ジョンはつつみ隠さず説明した。これから起きること。被害状況の大きさ。
「…………」
妻は一言も発することなく、それを聞いていた。
そして、悩ましげながらも、
「わかったわ」
とうなずいた。
ジョンの胸にすとん、と落ちるものがあった。かつてのケースを思い出す。
仲間たちは、信じてくれたか?
自分の突拍子もない話を、群れのみんなはまともに聞いてくれただろうか。
否。妻だけだ。
彼女だけが自分の話をなにもいわずに聞いてくれた。
妻だけが、自分を信じてくれた。……
「それで」妻のつぎのセリフをジョンはすでに知っている。「どうすればいいの?」
ジョンは淡々と、いたって真面目に、
「崩落はまもなくだ。それ自体をなくすことは、できない。逃げるしかない」
「……この子は?」
不安そうに、妻は卵をみやった。
ジョンは深呼吸をし、
「いいか」
はっきりした声色で、
「おれはおまえを尊敬している。愛している。いつだっておれはおまえの味方でいたいし、そうありたいと思う」
「…………」
「おまえの選択を尊重する。おれは、おまえの選んだ答えに命をかけて、応える」
ジョンは妻の答えを待った。
「私は」
妻が口をひらく。
「私は、この子をもって運びたい」
ジョンは誠実な面持ちで「わかった」とうなずいた。
二匹は交代交代で卵を運んだ。互いに励ましあいながら、受け渡すときは慎重に。一センチ、また一センチと着実に進んでいった。
一匹では成し得なかった距離まで、二匹は進むことができた。
一匹では精神的な重圧と疲労に押しつぶされた道のりも、二匹でなら、気概と体力が腹の底から無限に湧いてくるようだった。
ときが来て、地鳴りがはじまってからも、彼らは決してあきらめなかった。卵を運び続けていた。
コロニーの端まで来られた。
しかし、ここまでだ。
崩落がはじまった。
はるか頭上、およそ五十メートルはあろうかといった氷の絶壁が、亀裂し、崩壊し、落下する。
後方から同胞の地獄のような悲鳴が聞こえてきた。
二匹は、なおも前進する。
「あなた」
と、隣にいた妻が、抱卵したまま歩き続けるジョンへといった。
「ありがとう」
二匹へと氷塊が降りそそぐ。




