第一話 空っぽの心で、扉を開けた
生きている、ということになっていた。
朝になれば目が覚める。何も食べなければお腹が空く。冬の風に吹かれれば、身体は寒さに震える。少女が明日を望んでいなくても、心臓は休まず、明日へ向かって血を送り続けていた。
身体は、生きることに迷わないらしい。
少女には、それが不思議だった。
夜の街には、帰る場所を持った人たちが溢れていた。駅の改札から吐き出された人々は、それぞれの方向へ散っていく。誰かに電話をかける人も、買い物袋を提げる人も、少女を追い越すころにはもう、自分の行き先を選んでいた。
どうして、みんな歩けるのだろう?
一日働いて、疲れて、眠る。目が覚めれば、また一日が始まる。その繰り返しのどこに、足を前へ出すだけの理由があるのだろう?
少女にも、好きなものはあった。
続きを待っていた物語も、会うだけで嬉しくなる友達もいた。夕焼けを写真に撮って、実物のほうが綺麗だったと残念に思ったこともある。
今も空は色を変える。物語には続きがあり、スマートフォンには時々、友達からの連絡が届く。
けれど、少女の心だけが応えなくなっていた。
家へ向かう角を通り過ぎ、知らない道へ入った。どこかへ行きたかったわけではない。帰りたいと思うまで歩くつもりだった。
細い路地の奥に、灯りが見えた。
木の扉の上に、小さな看板が掛かっている。「BAR」という三文字のほかには、店の名前さえなかった。窓から漏れる琥珀色の光が、濡れた石畳を照らしていた。
少女は立ち止まった。
酒を飲む場所に用はない。それなのに、あの灯りを通り過ぎてしまうことが、なぜか惜しかった。
気づくと、取っ手に手を掛けていた。
扉の鈴が鳴り、カウンターの向こうで男が顔を上げた。綺麗で整った髪に、袖をまくった白いシャツ。男は少女を見て、静かに会釈した。
「いらっしゃいませ」
「あの、私、お酒は……」
「飲まなくても大丈夫ですよ。温かいホットミルクはいかがですか?」
少女は頷き、端の椅子に座った。
ほかに客はいなかった。棚には色の違う瓶が並び、その間に、読みかけらしい本が伏せて置かれていた。
「ここ、前からありましたか?」
「ええ、ずっと」
「知りませんでした」
「人生に疲れた人にしか、見つけられない店なんです」
少女は男の顔を見た。
「……冗談ですか?」
「そう聞こえますよね」
店主はそれ以上説明せず、小鍋にミルクを注いだ。
少女も尋ねなかった。不思議な店の仕組みより、自分が人生に疲れた人として、すんなり椅子に座れてしまったことのほうが気になった。
白いカップが目の前に置かれた。
両手で包むと、冷えていた指先が少し痛んだ。
「疲れたって言えるほど、何もしてないんですけどね」
少女は呟いた。
「学校へ行って、帰ってくるだけ。頑張ってる人なんて、ほかにいくらでもいるのに」
店主はカウンターの向こうで手を止めた。
「その人たちと比べると、疲れたと言いにくいですか?」
「だって、甘えてると思いませんか?」
「まだ、お話を聞いていませんから何とも言えないですね」
少女はカップへ目を落とした。湯気が上り、形を持たないまま消えていった。
「日本は、すごく恵まれているって、みんな言います」
言い慣れた説明をするように、少女は続けた。
「私も、そう思います。食べ物は美味しいし、仕事だって探せば見つかると思うし。少なくとも私の暮らしている場所には戦争もなくて、こうして夜に一人で歩けるくらいには、治安もいい」
そこまで話してから、少し黙った。
「でも、つまらないんです」
声にした途端、自分がひどく身勝手な人間になった気がした。
「明日食べるものにも困っていないし、眠る場所もある。それなのに、何で生きているんだろう? って思うんです。こんなに恵まれていて、まだ何が不満なの? って、自分でも思います」
「そう考えると、気持ちは変わりますか?」
少女は首を振った。
「苦しいって思う自分が、嫌になるだけです」
店主は静かに頷いた。
「恵まれていることを知っているのと、幸せを感じられることは、同じではないのでしょうね」
「でも、私より大変な人はいるでしょう?」
「いるかもしれません。でも、その人の苦しみも、あなたの苦しみも、どちらもそこにある。比べたからって優劣はつけられませんよ」
少女は返事をしなかった。
窓に映る自分の顔が見えた。暖かな店の中にいるのに、ひどく遠いところに立っているようだった。
「私、思うんです」
カップから手を離し、膝の上で指を組んだ。
「私の人生って、神様からの罰なんじゃないか? って」
店主は口を挟まなかった。
「地球って、奇跡みたいな星なんでしょう? そんな場所に、偶然、人間として生まれてきた。すごいことなんだと思います。でも、その結果がこれなら、何のための奇跡だったんだろう? って」
少女は胸元を押さえた。
「才能も見つからないし、何かをやりたい気持ちもない。せっかく生まれたんだからって言われても、その『せっかく』が重たいんです」
時計の音が、沈黙の中を進んでいた。
「生きてるだけで丸儲け、って言葉があるじゃないですか?某芸人さんが言っていた」
「ええ」
「私には、響かなかったんです。むしろ、羨ましかった。生きているだけで、何かをもらえたと思えるんだって」
少女は笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「私には、生きているだけで罰ゲームみたいに思えるから」
店主はしばらく黙っていた。その沈黙を埋めるように、少女は続けた。
「参加した覚えもないのに、気づいたら始まっていて。何をすればいいのか分からないまま、努力しなさい、楽しみを見つけなさいって言われる。みんなは必死にやっているのに、私は、そもそも何でやるんだろう? って、そこから動けないんです」
「それで、ほかの人が頑張れる理由を知りたい?」
「はい。私だけが知らない何かを、みんなは知っているんじゃないか? って」
店主は、伏せてあった本を閉じた。
「知らないまま、生きている人もいると思います」
「知らないのに?」
「あなたも、今日ここまで歩いてきました。外から見ていた人には、行き先のある人に見えたかもしれません」
少女は顔を上げた。
駅から出てきた人々の顔を思い返した。自分は、あの人たちの何を知っていただろう? 足取りを見ただけで、その胸には生きる理由があると思っていた。
「……じゃあ、みんな分からないのを隠してるんですか?」
「隠している人も、本当に楽しみがある人も、考える余裕のない人もいるでしょう。一人の人でも、昨日と今日では違うかもしれません」
「あなたも?」
「僕もです」
店主は、棚に並ぶグラスを見た。
「この店を開けるのが楽しみな日もあります。しかし、何も思わず開ける時間だから、鍵を回す日もあります」
「それで、いいんですか?」
「いいのかどうか、考えているうちに夜になることもあります」
少女はミルクを一口飲んだ。少し冷めて、甘さがよく分かった。
「神様からの罰だって話、変だと思いましたか?」
「それほど、引き受ける理由の分からない苦しさなんだと思いました。ただ、罰だとしたら、あなたは何の罪を犯したのでしょう?」
「……分かりません。前世とか?」
「覚えていない罪で苦しめられて、何を償えばいいのかも知らされない。それを、正しい罰だと思いますか?」
少女は首を振った。
「思いません」
「それでも、自分に対してなら、罰を受ける理由があるはずだと思ってしまうんですね」
少女は膝の上の手を見つめた。
罰だと思えば、苦しい理由を説明できた。何のためか分からない毎日にも、残酷な筋書きだけは与えられた。
けれど、筋が通ることと、本当であることは違うのかもしれなかった。
「じゃあ、この世は何なんですか?」
少女は尋ねた。
「罰でもなくて、ご褒美でもないなら、私たちは何をしに来たんですか?」
「来た理由を知らないまま、ここにいる。そのことから考えるしかないのかもしれません」
「答えがないってことですか?」
「僕には、あなたに渡せる答えがまだありません」
少女は小さく息を吐いた。
期待外れだった。それでも、店を出ようとは思わなかった。
店主は少女の言葉を、感謝の足りなさにも、努力の足りなさにも置き換えなかった。空になりかけたカップを見ても、話を終わらせようとはしなかった。
「私、今日も何もできませんでした」
少女が言うと、男は頷いた。
「はい」
「明日も、頑張れる気がしません」
「今は、そうなんですね」
少女は窓の外を見た。路地の先を、一人の人影が通り過ぎていった。
その人がどこへ向かっているのか、今度は分からないまま見送った。
「……もう少し、話してもいいですか?」
店主は自分のカップを持ってきて、カウンターの向こうに座った。
「ええ」
少女は両手をほどいた。
「幸せって、何なんでしょう?」
夜はまだ、終わっていなかった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
「どうして、みんな頑張れるんだろう?」
「恵まれているはずなのに、どうして心は満たされないんだろう?」
第一話では、そんな疑問を抱えた少女が、一軒のBARの扉を開きました。
生きる意味を考えていると、答えが見つかるどころか、かえって分からなくなることがあります。「生きているだけで幸せ」という言葉に救われる日もあれば、そう思えること自体が羨ましくなる日もあるのかもしれません。
僕はこの物語で、少女の疑問を大切にしながら、店主との対話を書いていきたいと思っています。すぐには頷けない言葉や、答えの出ない問いも、そのまま二人の間に置いておけるように。
次回、少女が尋ねるのは「幸せって、何なんでしょう?」という問いです。
夜は、まだ始まったばかりです。
もう少しだけ、二人の話にお付き合いいただけたら嬉しいです。




