魔の森、一日目の朝
朝日が昇ったのだろうか。
うっそうとした暗い森の中で、物の見分けがつくようになってきた。
木の根元で寝ていたせいで、体が痛む。
うつらうつらと仮眠を取ったようなもので、疲れが残っている。
地面や下草は朝露に濡れ、露出した木の根が肌に跡をつけた。
そして、コルセットの締め付けがキツい。金具の一部が肌に食い込み、息も浅くなっている。
「お姉さん、よく眠れた?」
胴体の長い、鼠のような動物が木の根元から顔を出した。
「きゃ」
思わず声が出る。
そして、昨日の声の主だと気付いた。
「あ、昨晩はありがとう」
「お姉さん、お名前は?」
ベネデッタは慌てて立ち上がった。
「ベネデッタ・ディ・ヴィットリオと申します。昨日は過分な……」
「やだやだ、そういうの、やめて!」
挨拶を途中で遮られる。
「ベネって呼んでいい? 僕はムス。
お腹空いてない? ついてきて」
地面を這うように進む小さな姿を、必死で追いかけた。
ヒールが土に刺さったり、膨らんだドレスが藪に引っかかったり、少し移動するだけでも一苦労だ。息が上がってしまう。
「これ、人間も食べられるはず」
そこには、黒紫の小さな粒が房になって垂れていた。
グローブを外し、教えてもらった小さな実を摘まむ。
甘酸っぱい。つぶつぶが口に残るが、それでも体が水分を欲している。
一つ、もう一つと夢中で口に入れていく。
ぽろぽろと涙がこぼれた。
昨日からまともに食べていないし、水さえ飲んでいなかった。
乾いた体は、小さな果実を貪欲に吸収していく。
そして、久しぶりに自分のことを気にかけてくれる存在が現れた。ひび割れた心が、何かで潤されていく。たとえ、それが甘い罠だとしても……。
ようやく人心地ついた頃、ムスが膝に乗って見上げてきた。
「よかった。少し顔色が良くなったね。まだまだだけど」
「ムス……さん? ありがとうございます。助かりましたわ」
「ムスでいいってば。
あのさ、人間は木の実だけじゃ足りないんでしょ?」
正直に言うと、一時しのぎにはなったが、お腹は減ったままだ。
喉の渇きも癒やされたのは最初だけで、今は水が飲みたくてしかたない。
「じゃあさ、人間の領域の結界に小さな穴を空けてくれたら、調達してくるよ」
ムスはさらりととんでもないことを言い出した。
「結界を解くなんて、そんなことできないわ!」
聖女の大切な役目の一つだ。
ベネデッタは自分でも驚くほど大きな声を出したことに驚いた。果物を口にして回復したからだ。
「昨日の馬車だって、結界を通り抜けて来たんでしょ?
大聖女の結界だって、薄いところがあったよ。光と闇は、共存共栄の関係なんだもん。」
「光と闇の……それは、大聖女様もおっしゃっていたわ」
「でしょ?」
ニンマリとムスが笑みを作った。
「大聖女の代わりにお姉さんが結界を張るようになったら、隙がなくなっちゃって困ってたんだ」
それは、教会の関係者も知らない秘密だ。なぜ、こんな……使い魔のような存在が知っているのか。
「近々、大聖女はお姉さ……ベネに大聖女だけに引き継がれた奥義を伝える予定だったでしょ」
「どうしてそこまで……」
「僕の主は、魔族を代表して大聖女とお話しするくらい偉い人なんだ。
大聖女に困ってるって訴えたら、『近いうちに後継者にこの世の真理を伝えて結界の調整をする』って約束してくれたんだ」
「嘘。なに、それ……」
そういえば、何か伝授するので、学園を卒業したら精進潔斎しなさいと言われていたが……。
「人に近い姿の子が、代表で買いに行ってくれるよ。
服も楽なのに着替えたいでしょ? あと人間の食べ物と、手ぬぐいと……靴もかな。他にほしいものは?」
喉から手が出るほど欲しい物……。理解と共感を示され、魔物に対する警戒心が霧散していく。
「わたくしお金を持っていないわ」
「生活が安定してから、お役に立ってくれればいいよ」
魔物と取引するのは禁忌とされている。
けれど大聖女様が交渉しているなら、いいのかもしれない。
疲れて、うたた寝しかできず、お腹も空いたまま。
ろくな判断ができるわけがない。
「この腕輪、結界と繋がってるんだよね。外して、壊していい?」
ムスがふわふわの尻尾で手首を撫でた。その可愛さにほだされないのは、至難の技だった。
「……どうぞ」
するりと外された腕輪は、ベネデッタのグローブで包んでムスに手渡された。
二人は黒い木苺の前で、微笑みあう。
「じゃあ、行ってくるから。待っててね」
ムスはグローブの上から咥えると、四つ足で走り出した。カサカサと葉を揺らす姿は、あっという間に見えなくなった。
結界の一部に人が通れるくらいの穴を開けるはずが、結界へ膨大な聖力を注ぐための聖具を壊すことにすり替えられた。
大聖女の力が衰え、その後継者として見込まれていた聖女。
彼女を魔の森に捨てた翌日から、静かに、しかし確実に王国の崩壊は始まっていた。




