崖っぷち
魔物の襲撃を受けた王城でも、日々は過ぎていく。
水はまずいけれど、飲めなくはない。
食材は、平民が使うものと同じものだけが無事だった。つまり、下町から徴集しようとしても、あまり意味がない。
下水道が壊れているので、し尿は郊外の農家に回収に来てもらうことにした。
宰相が息子の死をきっかけに辞任し、その後任が決まらないので、財務卿が采配を振るい始めた。
国王の承認が必要なのは、金額が大きなもの、影響が大きなものというルールがある。
逆に言えば、それ以下なら承認がなくてもできるのだ。
ただ、その場の雰囲気で動く国王は、後から難癖をつけることが多かった。
承認のサインをもらっておけば、「思い出してください。少し前のことで恐縮ですが、認めていただいております」と、なだめることができる。
事業が動き出してから気まぐれに方向転換されては堪らない。しっかりと書類を整え、時間がかかっても承認を得ることは、国を混乱させないためであり、宰相の保身のためでもあった。
惜しむらくは、宰相は緊急事態になっても従来のやり方を変える勇気がなかった。
財務大臣は家族を領地に避難させ、「何かあったら、自分の首一つでなんとかなるだろう」と不安を押し殺すように笑ったという。
そんな中で、ベネデッタの生存説が流れた。
「本当か? ベネデッタは死んでいなかったのか?」
王太子は、一人だけ護衛についている近衛騎士を問い詰めた。以前は三人の護衛がついていたが、いつの間にか減っていた。
「司教がそのように言っているそうです。事実かどうかは存じません」
近衛騎士は素っ気なく答えた。
先日、魔物と戦って怪我をしている。比較的軽傷だったので、王太子の護衛に任じられた。
以前なら名誉だと思えたが、今となっては混乱を引き起こした元凶だ。命がけで守る価値があるのかと思ってしまう。
耳をかじり取られたと大騒ぎしているが、足や腕をなくした同僚のことを思うと、やりきれない気持ちになった。
「ベネデッタを迎えに行こう。彼女が戻ってくれば、全てが解決すると思わないかい?」
うっとりと夢見るような王太子の独り言を、近衛騎士は聞き流した。
口を開いたら、罵倒してしまいそうだったので――。
王太子は無口な護衛にため息を禁じ得なかった。
トンマーゾなら、気が効いた返事をしてくれたのに、と。
魔物に襲われて、自慢の美貌に傷ができた。
近頃、王弟の評判があがっているようなので、王太子の地位が危ないかもしれない。
焦って、久しぶりに自分の執務室へ向かう。
王族の私的空間である建物から、長い渡り廊下を歩いて政務を行う建物へ入る。
途端に、すれ違う人の目が欠けた耳に向かうのを感じ、勇気がくじけそうになった。
ふと、人が少ないことに気がつく。怪我をしている人が多く、窓ガラスが汚れている。
自分の机に手をつくと、その部分だけ鮮やかな木目が現れた。つまり、掃除されておらず、埃を被っているのだ。
王太子は文句を言ったが、それを聞いてメイドに掃除をするように指示する人間がいない。
諦めて、椅子に座った。
以前はエンリコが書類を整理してくれた。彼が処理してくれたものも多かった。
彼が登城禁止になり、一時期は未処理のものが山となっていた。
自分が寝込んでいる間に、担当者が引き上げていったのか、その書類の山が消えている。
一瞬、仕事をやらなくていいのか……と喜んだ。
だが、役割を取り上げられたから、仕事がない。ということは、必要とされていないだけ。
どうにかしないといけない。
だが、どうしたらいいのか、わからない。
エンリコ。ルクレツィア。
今まで知恵を貸してくれていた友人がいない。
ああ、なんということだ。
あ……婚約者だったベネデッタが、奇跡の力で助けてくれるはず。
本物の聖女だったら、慈悲深く許してくれて、多才で仕事を助けてくれて……また輝かしく賞賛される王太子に戻れるのだ。
ルクレツィアに婚約者にしてあげようと言いに行ったときは、あっさり断られた。今度は作戦を立てていった方がいいだろう。
さて、どうすれば……。
ベネデッタが喜ぶような手土産を持って……彼女が喜ぶもの?
ベネデッタの父親は、外交官を解任された。
西の国との話し合い次第では、自分は罪人として西の国に引き渡されてしまう。
優秀な自分を手放すなど、愚策だ。国として大きな損失だ。
――実際は、国の命運を左右するような難しい案件を任されることはなかった。
無難な仕事を与えられていたので、確かに「失敗」は少なかった。
上司たちが悩んだり、時に話がまとまらなかったりする姿を見て「無能な上司だ。自分ならもっと上手くやれる」と不満を募らせているだけ。
愚痴を言っても「また言っているよ」と軽くあしらわれ、誤認していることに気づけないままだった。
クビになっても、自分はそれほど悪いことをしていないと考えていた。
赴任先の国の令嬢を妊娠させ、国の信用を失墜させることの重さを理解していなかった。
彼はそこに「愛」があると考えていたから。
許されるだろう、祝福されるだろうと――恋に恋する少女のような思考回路だ。
同僚たちの軽蔑の眼差しも、羨ましいのだろうと勘違いしていた。
国の危機を救った聖女の父親ということになれば、重要人物になれる。
娘が「結界を張る代わりに父を許して」と言えば、再起できると希望を持った。
今まで寂しい思いをさせてしまった。
抱きしめて、愛情を与えてあげたら、涙を流して喜ぶのではないだろうか。
王太子は、ベネデッタの父親に声をかけた。
愚かで崖っぷちの二人は意気投合し、「ベネデッタを迎えに行ってあげよう」と魔の森へと向かうのだった。




