怒るということ
ベネデッタはオッセルヴァに招かれて、魔王城を訪れた。
オッセルヴァの応接室はいつもより灯が多く、酒ではなくお茶が用意されていた。
「光の家の住み心地はどうかな?」
オッセルヴァは肘掛けに寄りかかることなく、まっすぐに座っている。
「ありがとうございます。快適です。
……ただ、人里からお客様が来るので、ちょっと怖いかもしれません」
ベネデッタは少し視線を下に向けた。そんなことを言う自分が意気地無しで恥ずかしいと思ったのだ。
「ああ、司教が来たようだね」
オッセルヴァは一部始終を見ていたくせに、「人から聞いた」と思わせるような言い方をした。
「わたくし、また感情が制御できませんでした」
落ち込んでいる理由を聞き、オッセルヴァは「なるほど」と、うなずいた。
ムスがベネデッタの膝に乗ったので、その背中をなでる。
「怒り方を知らないだけだろう」
オッセルヴァは体を斜めにして、肘掛けに寄りかかった。
「怒り方、ですか?」
ベネデッタは目をしばたたいた。何を問われているのかわからない。
「ベネデッタは、自分が怒った記憶があるかい?」
「……母が生きていた頃は、怒っていたと思います」
ベネデッタは自分の発した言葉に、ハッとした。
継母が来てから、「口答えするな」「生意気だ」と怒鳴られ、小さくなって生きてきたのだ。
「それ以降は怒れなくなり、怒り方を忘れてしまったのだろうね」
オッセルヴァは優しく、しかしどこか哀れむように言った。
「ならば、思い出せばいい。怒ることに慣れればいい。
もし怒るのが苦手なら、その元にある感情に向き合ってご覧」
「元にある感情……ですか?」
自分の胸に手を当ててみる。
「たとえば、思い通りにならないから怒る。
怖いから自分を守るために、怒ってみせる。
その奥には恐怖、悲しみ、失望、羞恥、孤独、無力感……本当の心が隠れている。
つまり、怒ることで、弱さを覆い隠す。攻撃であり、防御の手段でもある
では、一番目にある感情は何だい?」
ベネデッタは指を唇に当てて考え込んだ。
「……教会の腐敗が許せなかった。
心の拠り所にしていたから、裏切られた気持ち。
それから……神様に失礼だと思った。
ただ、利用されていたのが悲しい」
ぽつりぽつりと、思い浮かんだことを吐き出していく。
オッセルヴァは急かすことなく、その様子を眺めていた。
ムスは膝の上であくびをする。
「言葉にできたじゃないか。素晴らしいよ」
オッセルヴァが大きな手で、パンパンとゆっくり拍手をした。
「君は母上が亡くなられてから、心を凍らせることで生き延びたのだ。
その年齢から育ち直すくらいの気持ちで、ゆっくり進むといい」
「はい。ありがとうございます」
ベネデッタは子どもが褒められた時のように、目を輝かせた。
「ベネ、よかったねぇ」
ムスは膝の上からベネデッタを見上げる。
「ムスもありがとう」
ベネデッタは、はにかんだ笑顔を下に向けて、二人は微笑み合う。
その様子をオッセルヴァは目を細めて見つめている。
「人族の世界に戻りたいと思うかい?」
「……いいえ。
教会ですら足の引っ張り合いで、汚い世界です。
こちらで暮らした日々の方が、幸せだと感じています」
ベネデッタは背筋を伸ばし、堂々と答えた。
「それはよかった」
一見穏やかに、オッセルヴァは微笑んだ。




