結界が壊れた!
その日は、突然来た。
結界が薄くなり、瘴気が入り込み、空気も水質も悪くなった。
時々、魔物を見かけるようにもなっていた。
結界は三重になっている。
一番強固なのは王城を守るもの。
次に王都を囲み、最後の一つは国境線を描いている。
国境の結界は薄くなるので、小さな魔物は出入りする。国境沿いに暮らす人々は、それくらいなら退治できるように鍛えていた。
だが、王城は……優雅な、動きにくい華美な服で富を競い合っていた。
王城の空が一瞬曇った。
王城の教会には尖塔がある。その鐘が激しく鳴った。
緊急を知らせる鐘ではなく、魔物が飛びついて叩いているのだ。
どこからともなく虫やネズミなどに似た小さな魔物が現れ、王城を駆け巡った。
床についたドレスの裾を引きちぎり、人間の体をよじ登って宝飾品を奪い取る。
指輪を盗るために指を傷つけることもためらわない。
逃げ惑う女性のスカートの裾に乗り、氷上のそりのようにはしゃぐ者もいた。
神経質に管理していた食材が、あっという間に食い荒らされた。
ただし、下町でも食べているような食材はそのままで、こっそり王族用によけていた贅沢品ばかりを狙われた。
戦いのための武器庫、近衛騎士団の部屋は、中型のモンスターの遊び場と化した。
一度静かになった王城の教会の鐘が再び聞こえた。だが、今度はくぐもった音で、続いて激しい破壊音が聞こえた。
竜が尖塔の先をくわえ、それごと鐘を鳴らして遊んだ後、王城の正面の入り口に投げつけたのだ。
正門はひしゃげ、閉じるどころではない。王城は無防備な状態になった。
その正門の周りで、大小様々な魔物たちが飛び跳ねて喜びの声をあげる。
庭園から引きちぎってきた花々を散らした。
廊下や宝物庫から持ち出した壺や絵を積み上げた。
そのうち、どれが一番高価か競うように並べ始めたのだ。
国王は「誰か、何とかせよ」と意味のないことを喚いた。
誰が、何をするのか――その肝心の中身を決めるのが、国王ではないのかと誰も彼に教えられなかった。
今まで代わりに采配を振るっていた宰相は、もういない。後任はみなが譲り合って、なかなか決まらないのだ。
王妃は真っ先に自室に戻り、鍵をかけて震えていた。
逃げ遅れた侍女が激しく扉を叩いたが、決して開けようとはしない。彼女の悲鳴が上がると、扉の前に荷物を積み上げた。
それを窓から見ていた魔族は、魔物に「王妃が部屋を出たいと思っても、出られなくなったら面白いと思わないかい?」と語りかけた。
――入れてくれないのではない。我々が閉じ込めているのだ――
それは、魔物にとって、とても魅力的な発想の転換だった。
それぞれが知恵を絞って、扉を開けられなくなる工夫をこらす。
二重、三重……いや、もっとたくさんの仕掛けが開かずの間を作っていった。
前王妃と聖女たちは、尖塔が壊されるのを為す術もなく眺めていた。
不思議なことに、教会の中までは入ってこない。
それを、誰かが「神のご加護」と言い出した。
近衛騎士たちは戦おうとする者もいたが、逃げ腰な者がたくさんいた。
ベテランは戦おうとしたが、若手は総じて家柄だけで武芸に秀でていない。
「王城に華やぎを添える」――それを近衛騎士の役割の一つだと言っていた者は、役立たずどころか足手まといになった。
王太子は魔物たちに追いかけられていた。
転んでも、立ち上がるのを待たれている。不思議なことに殺さずに、はやし立てるのだ。
ただ、疲れて座ろうとすると虫がその場所を占拠する。
護衛とも、逃げる途中ではぐれてしまった。
王城の中――自分の家にいるのに、ちっとも安全な場所ではなくなった。
焦り、恐怖、様々な感情がこみあげる。
よろけて膝をついたところで、何かが体を駆け上ってきた。
「あの夜のベネデッタの恐怖がわかったか」
耳元でそんな囁きを聞いた瞬間、耳をかじりとられた。
血が飛び散り、激痛が走る。
だが、王太子の悲鳴は魔物たちの声に紛れ、誰も駆けつけない。
痛みにのたうち回る王太子。華美な衣装に赤い汚れがついていく。
その頃、近衛騎士として復帰していたトンマーゾは――。
剣を手に同僚と食料庫に向かった。
思い思いに荒らし回っていた魔物が、バッとトンマーゾに群がる。
「うわぁ」
体を這い回る魔物に、長い剣など振るえない。手で振り払っても、すぐに体に駆け上られてしまう。
同僚たちも手が出せないし、助けようと近づく素振りをすると同じようにたかられる。
扉から、妖艶な美女が顔だけをのぞかせた。
「お前たち、このトンマーゾの罪を知らないの? それとも知っていてかばい立てするの?」
響くような、不思議な声だった。
「図星を突かれて、仲間を殺したのよ。人殺しよ。
騎士って、そういう者がなれるものなの?」
「いえ。誇り高く、人々の模範になるべく日々務めております」
「ならば、アレをそのままにしておいていいのかしら? 許しておいたら、騎士団の品位が落ちるのではなくて?」
その声が、騎士の心を高ぶらせた。
「騎士道精神を汚す存在を許してはいけない」
そういう同僚に、美女は囁く。
「殺しては駄目よ。騎士でなくなればいいだけ。――たとえば、剣を握れなくなるとか、ね?」
「ああ、そのとおりですね」
そう答えた騎士たちは、トンマーゾに向き合った。
三対一。これ自体が騎士らしくない行いと言える。
それなのに四人もいて、誰ひとり騎士道を唱える者がいない。
魔物たちはパッと離れ、部屋の隅に退避する。人族の戦いを観戦するのだ。
誰がどこを狙うか、無責任な予想が飛び交う。
騎士の一人はトンマーゾの右腕を切りつけた。
別の騎士が左手首を狙う。トンマーゾの苦し紛れの横払いが、騎士の胴に入る。
トンマーゾの背後に立った騎士が剣を振り下ろそうとしたところ、フォークが飛んできて剣の軌道を反らした。
「殺すなって言ったでしょう? おバカさんね」
美女は豊満な胸を晒し、下半身は……蛇だった。
「お、お前も魔物か!」
一瞬美女に見とれたのを誤魔化すように、騎士は大声を張り上げ、糾弾した。
「どちらかというと、魔族?」
ちゃかすような美女の魔族に、先ほどフォークを投げつけられた騎士が剣を向ける。
食料庫が血なまぐさい戦場と化した。




