王都の揺らぎ
始まりは、ほんの些細なことだった。
水が少し濁ったかもしれない――。
数日は、敏感な人が感じるくらいだった。
だが、日に日にそう感じる人が増えていく。
水が濁るとどうなるか?
飲み物や食事の味が落ちた。
食事に関する苦情が増え、もめ事が発生し、飲食店の売上げが落ちた。
気分転換のはずのお茶の時間が、不愉快な気分を作りだす。
食欲が落ちる人も出たし、体を壊す人も出た。
医師や教会に相談する人もいる。
軍に属する医者は、おそらく瘴気のせいだろうという予測を立てた。魔物を討伐するために瘴気が濃い地域に遠征したときの症状に似ていたから。
だが水に混入した経緯がわからないので、公表していいものか軍務卿に伺いを立てた。
軍務卿が国王に相談を上げたが、後回しにされて回答が来ない。
空が霞んでいるようだ――。
遠景を観察する軍人や画家が、違和感を覚え始める。
だが、それに対しても対策をすることはない。
目が充血し、呼吸器の不調を訴える人が出てきた。
疫病ではないかと、病人に対する周囲の目が厳しくなる。街の雰囲気は重苦しいものになっていく。
王妃の機嫌が悪い。
彼女は人当たりの良さを買われて王太子に選ばれた。
だから、貴族や国民の前では理想的な王妃を演じる。
その反動を受け止めているのは、私的な時間に接する人々だ。
侍女や事務官、そして息子の婚約者――ベネデッタだった。
細かいことをネチネチと責め、屈服させ、褒め称えるよう誘導する。
褒め方が気に入らなければ、熱いお茶をかけることもあった。
前王妃に指導されて溜まったうっぷんは、同じ「聖女」であるベネデッタにぶつけた。
ベネデッタの自己評価が低いところが、実に気持ちよかったのである。
彼女の義妹ソフィアは、一緒にベネデッタの悪口を言うのに最適だった。
だが、ベネデッタの代わりに、王妃の愚痴を大人しく聞くことはない。不敬にも反論してくるのだ。
下賤な女が、小賢しい。
王妃の執務室に刺々しい空気が漂うようになり、王妃も事務官も仕事にミスが増える。
やり直しや材料の調達に時間がかかり、物事が滞る。
国王も王太子も同じように疲弊していく。
小さな事がうまく進まず、それがいくつも積み重なり、仕事が溜まっていく。
日々発生する定期的な仕事に加え、不具合の報告が飛び込んでくる。
すぐに対処すればボヤで終わることも、放置して大火事となることがある。
そんなことが繰り返されれば、組織は機能しなくなる。
責任を押し付け合い、時間が無駄に浪費されていく。
王城でも下町でも、洗ったばかりの洗濯物から異臭が漂うようになる。
体調不良の者が増え、王城では更に仕事が回らなくなる。
下町では、店主の体調不良や品物が揃わないせいで、閉めている店が増えた。
ソフィアが、「早く婚約者にしてよ」と王太子に怒鳴り散らす。
王太子は、「それどころではない」と喚く。
ソフィアを推していた現王妃も、「自分の都合を主張するだけの女に王太子妃は務まらない」と彼女に苛立ちを見せた。
それに対してソフィアは「王妃殿下だって、自分の都合を相手に押しつけようとしているだけじゃない」と言い返した。
国王は頭を抱えた。
もう、どうしていいか、わからない。
その母親の前王妃は、ソフィアを結界の間に引きずっていこうとした。水や空気の質が悪くなったのは、結界が薄くなっているせいだろうと予想して。
聖女であるベネデッタを追い出し、自ら聖女と名乗りを上げたなら、責任をとるべきだと考えた。
ソフィアの腕を取り、前王妃は立ち尽くした。
そして「なに? このまがい物は」と叫んで、腕を放した。
聖力の特徴である清々しさがなく、逆に禍々しい力を感じたのだ。
「この女を聖女だと認定した教会関係者を捕縛しなさい!」と命令を出した。
すぐに息子である国王の執務室に駆け込んだ。
「母上、先触れもなく、廊下を走ってきたのですか?」
驚いて目を丸くした。前王妃が走る姿など、見たことがなかった。
「あのソフィアという娘、真っ赤な偽物。結界を揺るがし、国を危険に晒した逆賊よ。
王太子フェデリコも、拘束して取り調べなさい」
窓の外で、太陽は薄い膜を張ったようにぼやけて見えた。




